パティパダー巻頭法話

No.175(2009年9月)

やるべきことを妨げる、やりたいこと

感情で生きる人生には理性の出番がない Doing only what you like means indulgence.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

すでにご存じのことかもしれませんが、私たちは世の中のことを何でも、三種類に分けてみるのです。その三つとは、

  1. 好きなもの、気に入るもの。
  2. 嫌いなもの、気に入らないもの、合わないもの。
  3. 好きも嫌いも関係ない、普通なもの。

これは「もの」で終わらないのです。私たちがやっていることにも、三種類があるのです。
他人がやっていることも、好き・嫌い・どちらでもない、という三つに分けるのです。

自分自身がやっていることも、

  1. 好きでやっていること
  2. 嫌々でやっていること
  3. マンネリでやっていること

という三つになるのです。

色彩が一万二万以上もあるかもしれませんが、実際にあるのは三原色(赤・緑・青)だけだそうです。

私たちもこの世界と様々な行為を「三種類」で分けているのです。

ものごとを三種類に区別しないでおくことはできるでしょうか。それは不可能だと思います。分けないことにしようと思っても、心はものごとを瞬時に何かのグループに入れてしまうのです。

分けないことに努力するとしましょう。その時できるのは、好き嫌いに区別しないことだけです。そうなると、ほとんどのものごとが「面白くない、たいしたことがない」という種類に入ってしまうのです。ものごとに対して、「面白くない」という無関心な態度をとることで、健全な精神状態が危険にさらされます。ですから、必ず三つに分けてしまうことになるのです。

みな、三裂主義で生活しなくてはいけないのです。それなら何も問題はないでしょう。しかし大いに問題があります。ものごとを三裂に分ける能力がありますか?

三裂に分ける訓練・稽古などはしたことがありますか?
ないのです。ただ本能的に、三裂に瞬時に分けてしまうだけです。ですから私たちの区別には、具体性・論理性があるとは言えないのです。それからその分け方は、一貫していないのです。ある時、嫌いなものは、ある時、好きなものになるのです。ある時、好きなものが、ある時から面白くないものに変わってしまうことは、誰でも経験しているのです。ですから、人に本来ついている三裂主義は、あてにならないものです。

人の本能というのは、言葉を変えれば感情なのです。感情は仏教用語で、「煩悩」になるのです。ですから、ものごとを煩悩で三裂に区別することになるのです。感情の特色は、決して理論が成り立たないということです。

納豆が大好きな人がいるとしましょう。なぜ納豆が好きになったのかと、その人にその理由を訊いても意味がないのです。質問されたら、いろいろ理由を言うでしょう。健康に良いとか、血圧を下げてくれるとか、血液がサラサラになるとか、日本の伝統食だとか、健康食品の中でこれに勝るものはないとか、理由を挙げるでしょう。しかしそれらは一つも、残念なことに、納豆が好きになった理由にならないのです。このポイントから、別な問題が現れてきます。私たちは、好きなものに様々な理由を被せるのです。ですから、人が立てる理由も、あてにならないことになるのです。

世の中は何にでも何かの理由を被せるのです。ですから、論理・理屈で世界はいっぱいです。いくら見事な論理を立てても、あてになるとは言い切れません。

ただ、論理が通らないものは、話にもならないほど無意味であるだけです。論理が通っているからと言って、真理にもならないのです。これは、世界を観察してみると、簡単に発見できる事実です。日本を含むたくさんの国々は、北朝鮮を嫌いなのです。北朝鮮に対して、誰が感想を述べても、「北朝鮮が悪い」という結論に立つのです。もしかすると、よいところもあるかもしれません。しかし私たちにそれは見えません。政治の世界を見ると、また明確です。ある政党を応援する人々は、見事な論理で、「他の政党はあてにならないのだ、信頼できないのだ」と証明するのです。しかしその他の政党も、この政党に対して、また見事な論理で同じことを言う。ですから、本当のことを知りたい人にとっては、論理が通っていることは役に立たない。結局は、「論理を立てる」という行為も、三分裂主義の審判を受けているのです。

本能とは感情であると、前に書きました。感情とは煩悩です。基本的な煩悩は、貪り・怒り・無知です。

貪りには仲間がいるのです。見栄、傲慢などです。

怒りにも仲間がいます。嫉妬、落ち込み、後悔などです。

無知の仲間は、自分の意見にしがみつくこと、自我などです。

何ごとでも、三つに分けて判断する場合は、この煩悩が判決を下すのです。無知という感情は、人に常にあるのです。無知と欲が一緒に行動するのです。無知と怒りも一緒に行動するのです。無知は自分一人だけでも行動します。欲と怒りは組合はつくりません。性質が違うので、一緒に行動しないのです。ですから、基本的に無知がいつも働いているのです。無知があるということは、理性がない、という意味なのです。ですから私たちの「好き・嫌い・面白くない」という三つに分ける三裂主義には、理性はないのです。要するに人は、何でも無知で判断してしまう、ということになるのです。無知とは正しく言えば、判断能力がないことです。判断能力がないから判断するとは、矛盾でしょう。ですから、人生は矛盾だらけなのです。うまくいかないのです。

ものごとを三つに分ける習性は、すべての生命にあるのです。

これは大変な問題です。生命には、幸福に生きることはできなくなっているのです。それから、判断は貪瞋痴という感情で起こるので、判断するたびに感情が繁殖するのです。「何も悪い事をしないでふつうに生きる」という人も、感情を繁殖させる生き方をしているのです。例外はないのです。

煩悩・感情を繁殖させる生き方で、心は汚れていくばかりです。理性がない心でものごとを判断しても、その判断は客観的に見ると正しいと言えないのです。しかし自分は、間違った判断をしたつもりではないのです。それでも、自分の判断に世界は賛成しないのです。自分が好きなものを嫌う人々は、いくらでもいるのです。一人が個人で、主観で、達する判断に対して、世界は批判をもつのです。しかし私たちには、批判だけに満ちている世界で、平安に生きていられないのです。自分の判断を誰も認めないということは、無視するのです。勝手に判断して生きるならば、世界は一斉に批判するのだと覚悟しておかなくてはいけないのです。その覚悟はないから、社会から非難されると、評価してもらえないと、認めてもらえないと、さらに煩悩が混乱するのです。無知と一緒に、怒り、落ち込みなどの煩悩が、急激に増えるのです。それから、その強化された煩悩で次の判断をするから、前よりも批判を受ける判断になるのです。

人間のこの自然な生き方は、たいへんな問題なのです。幸福に生きることとは縁のない生き方なのです。

次に人の行動について、少々考えてみましょう。判断してから行動するのです。判断がよくないならば、その行動の結果もよくないのです。私たちは何か失敗したら、期待した結果が出なかったら、判断を間違ったことに気づくのです。それは何の役にも立ちません。

子供が不良になったら、母親がよく言う話です。「私の育て方が間違った。子供に厳しすぎでした。甘やかし過ぎでした」などなどです。今更どうすることもできないでしょう。金融会社が負債を抱えて倒産することになってから、役員たちは判断が間違ったことに気づくのです。しかし、もう遅いのです。行動する時は、前の判断に頼るのです。しかしその判断が正しいか否かは、結果が出るまで分からないのです。ですから、ほとんどの人々は、イチかバチかという態度で生きることになってしまう。イチかバチかという言葉は、判断は頼りにならない、という意味なのです。何をしても、結果はどうなるのか分からないので、自信がないのです。人は皆、自分の人生に対して自信を持てないのです。ですから、「明るくて活発」に生きる人の場合も、「やってみなければ分からない」という曖昧な人生になるのです。これも例外はないのです。幸福に生きることとは、縁のない生き方なのです。

それから、この行動も三裂主義の審判を受けるのです。「あの映画は好き」という判断が起きたら、「では観に行きます」という行動が成り立ちます。この場合は、無知と欲が働いているのです。蚊に刺されたとしましょう。痛みが生まれます。その感覚は、嫌だと判断する。それで「では蚊を殺しましょう」という行動が成り立ちます。この場合は、無知と怒りが働いているのです。無知だけ働く場合は、行動はほとんど起こらないのです。何もしたくない、という引きこもり気分になるのです。しかし仏教は、それも行為の一つだとするのです。それで行動・行為の場合は、感情が変わっても何か似ているところがあるのです。それが、何かをしたい、という気持ちです。意欲というのです。

これは「欲」ではありません。行動を引き起こすエネルギーのことです。意欲は善でも悪でもないのです。意欲を起こした煩悩で、善悪に分けるのです。煩悩は悪なので、私たちの行動・行為が善になるのは、まれなことです。

行動・行為は三裂主義の審判を受けると、やりたい行為と、やりたくない行為という二つが現れます。三番目の判断は、「その気にならない」といったところでしょう。当然なことで、人々は、やりたい行為は喜んで、進んでするのです。やりたいという気持ちは、欲からも怒りからも生まれるのです。豊かになりたい、外車を買いたい、マイホームを建てたい、などなどの気持ちで頑張ると、欲が働いているのです。ライバル会社に負けたくないと頑張る場合は、怒りが働いているのです。いまの教育も、仕事も、政治も、「競争」という感情でやっているのです。これは怒りに激励されていることです。怒りは、破壊という結果を出すのです。

怒りに激励されて生きてみると、何かが破壊する、という結果になるのです。怒りを自分が持っているから、自分が破壊に追い込まれることは避けられないのです。

「やりたくない行為」とは何でしょうか。

嫌なことではないか、という答えが浮かんでいると思います。嫌なこととは怒りですから、怒りの判断ではないかと思うこともできます。でも、シンプルではないのです。

怒りが起こると、人は行動するのです。やりたくない、ではないのです。人殺しをする時でも、やりたいのだから、やったのです。欲は意欲を起こす。怒りも意欲を起こす。無知は意欲を起さないのです。というわけで、やりたくない、という意欲がない状況は、無知の結果です。無知ではない、「やりたくない」もあります。例で考えましょう。若者が金を欲しがる。バイトをしなくてはいけないのです。バイトをしたいと思います。欲が意欲を起こしたのです。見つけたバイトは新聞配達です。しかし、この人は朝寝坊で早起きしたくないのです。早く起きたくない、という気持ちは、怒りが作るのです。それでその若者は、「あのバイトをやりたくない」と思うのです。そこで何が起きたのでしょうか。欲が起こした意欲を、欲と正反対の怒りが起こした意欲で、打ち消したのです。欲と怒りが絡み合って、かなりの量の意欲を打ち消すのです。それもあまりいいことではありません。「合格はしたいのですが、勉強は嫌いです」となると、結果はないのです。意欲は打ち消されているのです。また、「あの人が憎い。殺してやりたい」という場合は、怒りが意欲を出しています。でも、人を殺したら私は大変なことになる、と思う。自我愛(欲)が生まれたのです。その欲が前の怒りの意欲を打ち消すのです。それで、罪を犯さずに済むのです。これは悪いことだとは言えません。

しかし、日常生活の中では、たくさんの行為は反対の煩悩で打ち消されて、やりたくない事になってしまうのです。結果は、簡単に言えば、「みな充分、頑張っていない」ということになるのです。

最後に仏教の立場から考えてみましょう。

1.やりたいこと、2.やりたくないこと、という二つがあります。それに、3.やるべきこと、を入れなくてはならないのです。

「やるべきこと」という概念は、人間の生き方に仏教が新たに導入するのです。やりたいことも、やりたくないことも止めれば、煩悩の激励で生きることにストップをかけられるのです。煩悩にストップをかけられたら、決まってよい結果になるのです。それで人が、やりたい、やりたくない、という感情と意欲を制御して、「やるべきこと」をするならば、その人は幸福な人生を歩むことになるのです。

人間はこの教えに簡単には納得しないのです。

やりたいことをできれば幸福だと、思っているのです。みなやりたい勉強、やりたい仕事、住みたい環境、付き合いたい人々などを探して、必死なのです。

それで、ものの見事に不幸になるのです。子供に訊いてみましょう、「貴方がやりたいのは、勉強ですか、遊びですか?」と。

子供はおそらく、勉強ではなく遊ぶことが好きだと言うでしょう。大人の場合も、同じことです。人々がやりたくないと思っているものは、自分のためになる、他人のためになるものばかりです。

人のやりたい気持ちは、貪瞋痴が起こす意欲なのです。「人はやりたいことはやらない方がいい」と極論的に言っても、それほど間違わないと思います。結局は、嫌々やることで、人生は何とかうまくいっているのです。嫌々でも勉強すればよいのです。嫌々でも、早起きして仕事に行って、何を言われても頑張った方がよいのです。嫌々でも、掃除・洗濯・料理などは、しっかりした方がよいのです。嫌々でも、食事制限した方がよいのです。

やるべきこととは何でしょうか。それは、自分の、他人の、ためになる行為です。好き嫌いには関係ないのです。

病気になったら、やるべきことは病院に行くことでしょう。好き嫌いは関係ないのです。学校に行ったら、学ぶことでしょう。いま自分が何をやるべきか、ということは、いつでも眼の前にあるのです。食べて終わったならば、片づけをします、といような明確なことです。選択に困ることもないのです。いまやるべきことは、ひとつしかないのです。頭が煩悩で混乱する時は、いまに関係ない意欲がたくさん出てくるのです。それで、あれもこれもやりたいという、いくつかが出てくるのです。一つの時間でやりたいことがいくつかある場合は、要注意です。これはあり得ないのです。やるべきことは、一個しかないのです。

お釈迦様の時代で起きた出来事を紹介します。バッディヤという天然林に住んでいた比丘たちのことです。修行の目的で森に入ったのですが、草履を履かないと生活できないところでした。それで、自分が履く草履に注意が行ってしまった。さまざまな形で、さまざまなモノで、草履を作ることになったのです。それだけでは止まらないで、美しく作ることにも気が行って、草履を編む時は、花の模様などを作ったりしたのです。これはかなり時間がかかる作業です。朝から晩まで植物の繊維を探したり、整えたり、染めたり、編んだり、新しいデザインを考えたり、たいへん忙しかったのです。修行する暇はまったくなかったのです。この旨を報告された釈尊が、「やるべきことを行わないで、やってはいけないことを行うならば、その人々の心は混乱して煩悩が繁殖するばかりです」と説かれたのです。ですから、「やりたいこと」に簡単に飛びつくのは止めた方がよいのです。

やりたいとは、欲か怒りです。欲と怒りは無知という土台で現れるものです。やりたいことをやるとは、煩悩が、心の汚れが、増えたい放題の生き方です。頭が混乱して、無知に陥るのです。幸福の道、安穏の道、解脱の道ではないのです。

「やるべきこと」を行うのです。そちらには、欲も怒りもありません。やるべきことなので、かすかにでも理性が入っているのです。この理性は、無知に対する解毒剤です。やるべきことをやる人は、煩悩から解放されるのです。出家にこの方法として、身体で行う行為をその都度その都度、つねに気づいておきなさいと、サティの実践をお釈迦様が推薦する。それで、出家した目的に達するのだと説かれるのです。

今回のポイント

  • ものごとを「好き・嫌い・面白くない」と三つに分ける
  • この判断は煩悩が引き起こすのです。
  • 行為さえも三裂に分けるのです。
  • 世間の生き方では幸福に達し難いのです。
  • やりたいことではなく、やるべきことを行うのです。

経典の言葉

Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
第21章 種々なるものの章

  1. Yañhi kiccaṃ apaviddhaṃ Akiccaṃ pana kayirati;
    Unnalānaṃ pamattānaṃ, Teasaṃ vaddhanti āsavā.
  2. Yesañca susamāraddhā, Niccaṃ kāyagatā sati;
    Akiccaṃ te na sevanti, Kicce sātaccakārino;
    Satānaṃ sampajānānaṃ, Atthaṃ gacchanti āsavā.
  • なすべきことを等閑なおざりに なすべからざる事をなし
    放逸にしてサティなくば 煩悩アーサワ彼にましてゆく

    常にサティをば身にむけて なしてはならぬに遠ざかり
    なすべきをなす正智者は もろもろのアーサワ消え行かん

  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 292,293)