No.183(2010年5月)
人類の宗教
ウェーサーカ祭にちなんで The religion of mankind.
医学の研究者たちが作る薬や治療方法などは、人類に適用できるものです。ある特定の民族にだけ効く薬はありません。科学研究者たちが発明する機械なども、人類に使用することができるのです。ある特定の民族にしか乗れない電車、飛行機などはないのです。ここまでは一般論です。病に効く薬、治療法はあっても、人類皆がその恵みを受けられないことも多いかもしれません。発明の場合にしても同じことで、一般人には興味も関係もないものまで発明してしまうことがあります。大量破壊兵器や原子爆弾、ステルス爆撃機、豪華客船などは、大衆に必要なものだとは決して言えません。しかし、自転車、自動車、冷蔵庫、時計などの恩恵は、大衆が受けているのです。
一部の人々を目指して開発する品物が、かえって大衆の迷惑になる場合もあります。単純に面白いというだけの理由で科学研究や実験を行うために、莫大な資産を使ってしまうのです。ロマンの追求や単なる自慢のための研究や実験には何も異論なく国民の税金を使うのに、最近アメリカで国民健康保険制度を皆に使用できるようにしようとしたら、金の無駄遣いだと激しい批判を受けました。私たちはそんな世界に生きています。一部の人々にだけ役立つ、一部の人々だけを楽しませる発明、開発に、惜しみなく資源を使い、関係ない人まで喜んで自慢するのです。そういえば電球や蛍光灯なども発明品です。
また、ステルス爆撃機も国を挙げて自慢する発明品です。では、ステルス爆撃機は何人の役に立っているでしょうか。電球や蛍光灯は何人の役に立っているでしょうか。大衆の役に立つ発明なら、資源の無駄遣いにはならないのです。しかし、地球を一周してくる旅やら、宇宙空間に二三ヶ月間泊まれる宇宙ステーションを建設することなどに、どれほどの資源を使うことでしょうか。
言いたいポイントはこれです。一部の人々の役に立つことなら、自分にまったく関係がなくても大賛成する。人類の役に立つ研究なら、人類が無関心な態度をとる。研究費もなかなか支給されない。いったい人間はどうなっていることでしょうか。一部の人にでも役立つものなら、決して悪いこととは言えません。しかし、一部の人にだけ役立つものが必要でしょうか。それに人類の財産を使うべきでしょうか。何を言っても、人間の作るものがすべての生命に役に立つということは、現実的にはないのです。
すべての生命の幸福を願って研究開発する人々も、まれにいるかも知れませんが、いないと思った方がいいかもしれません。
文学、音楽、舞踊などの芸術世界は、少々変わっているように見えます。この類の作品は、地球で幅広く楽しむことができるのです。しかし、文学・芸術作品には、それが生まれた国や民族の文化が編み込まれています。西洋の文学はアジア人に理解しにくいし、アジアの文学は西洋人には理解しにくいことがあります。しかし芸術家は、できるだけ沢山の人々に楽しんで欲しいと思ってはいる。芸術作品には一時的に人を楽しませる力はありますが、それで人類が助かっているとは言えません。例えて言えば、億単位の値札が付いている絵画よりは、台所で使っている包丁の方が有り難いのです。
哲学思想家と宗教家も頑張っています。人類に普遍的に適用できる、役に立つことを語ろうとしているのです。しかし結果は如何なものでしょうか。哲学思想家は物事を精密に考えます。普通の人が気づかないところまで、気づくのです。しかし何の結論にも達しない。一般人の立場から見ると、「面白い話」という程度です。一般人のことも配慮していますが、哲学者の話は一般人には理解できない。日常生活にも関係ない。とどのつまり哲学は、一部の人間の興味を満たすものに留まっているのです。
宗教家の場合、この問題はもっと重大だと思います。結論から言えば、宗教家が嘘を言っているのです。具体的な例で考えてみましょう。インドの元々の宗教は、バラモン教です。バラモン教では、神(梵天)が四姓に分けて人間を創造したのです。四姓とは、1バラモン(聖職者)、2クシャトリヤ(王家、軍人、地主)、3バイシャ(一般人)、4シュードラ(奴隷、使用人、召使)です。1のカーストは神の口から生れたのです。2のカーストは腕からです。3のカーストは神の太ももから、4のカーストは神の足裏から創造されたのです。このような思考に基づいて語る宗教は、人類の役には立ちません。カースト制度の問題は、インド社会の問題です。差別は無くすべきなのに、宗教がそれを正当化するのです。
それから、皆さまに訊きます。日本人である皆さま方は、四姓制度の何姓でしょうか。何番目に入るのでしょうか。
仮に三番目だと言っておきましょう。しかし、日本社会では「聖職者」はいません。そうなると、バラモン教の教えを実践することができなくなります。
この教えをそのまま正当化して、現代ヒンドゥー教は世界中にヨーガ瞑想などを教えているのです。これは現代社会の要求なのです。元々バラモン・カーストの人々が、自分の社会を支配するために、自分だけが誰よりも尊い存在だと言い張るために作った教えです。はじめから極わずかな一部の人間のために考え出したものに過ぎないのです。現代社会の状況を考慮して、カーストを気にせず皆に教えているからと言って、人類のために築いた宗教だとは言えないです。
聖書の研究者によると、イエス様はユダヤ民族に現れたもう一人の預言者でした。ユダヤ民族に神の最後の審判がすぐ訪れるので、神の戒めに立ち戻るようにと警告していたのです。しかしユダヤ民族はイエス様の話をそれほど気にしませんでした。ユダヤ人の間で人気のなかった教えを、ユダヤ人以外の社会にも拡げなければいけないと思った人々が、現代キリスト教を開発したそうです。元々全ての生命の役立つ教えを説いたならば、そこまで苦労する必要はなかったでしょう。この場合も、必要に応じて一部の人々の教えを他人にも拡げるように改良したことになります。
イスラム教では、肌の色の差別、民族差別などはありません。しかしその教えは、預言者ムハンマドの侵略を成功させるために使われたものです。その宗教が広まると、信仰する人々はアラビアの文化、生き方、習慣に変わらなくてはいけないのです。ということは、ご自分の民族性、しきたり習慣などをイスラム文化に変えることになるのです。その宗教の教えそのものが、人類共通の教えにならないのです。イスラム文化の人々は、自分たちを他の人々から隔離した共同体を作って生活します。この教えの戒律には、他人と自分が違う、ということを強調する傾向が色濃くあります。
最近まで日本も、新興宗教ブームでした。科学が発展している現代社会で作られる宗教だから、普遍性を持つべきだというのは当たり前の話です。しかし結果は違います。日本の文化である先祖崇拝の仕方を変えるのです。しかし人類が先祖崇拝しなくてはいけないという理論は作っていないのです。それから、決まって開祖さまがいる。その方が亡くなられたら、長男か長女が、次の教主さまになるのです。
いくら能力があっても、血脈関係のない信者さんは教主にはならないのです。血脈のある子孫が、子孫であるがゆえに教祖になる、というならば、「人類共通」という点とは全く関係なくなります。インドのバラモン教と、西洋のキリスト教思想と、かわりがないのです。それでも新興宗教の方々も、必要に応じて自分の教えを外国でも拡げようとします。外国で教会を建設できたら、日本の信者さんの気持ちは固まるのです。要するにこのような類の宗教は、元々「人類共通」ではないのです。ここでよい例えを思い出しました。武器開発メーカーが、宇宙から狙いを定めて敵を攻撃するためにGPS というシステムを発明したのです。それは極秘の軍事技術でした。しかし大量に金をかけてGPS の性能を上げると、古いものは要らなくなってしまう。仕方なく、一般人にも売ることになったのです。いま我々は、携帯やカーナビでGPS 機能のお世話になっていますが、これは人類の幸福を目指して開発した有り難い発明ではありません。宗教にも、似たような現象が起こるのです。
はじめは一部の人間のための教えです。うまく行かない場合は、他の人々にも教える。問題は、人間の役に立つという点でGPS 機能より優っているか否かです。
このようなことを考えると、人類のある特色が見えてきます。人々は「自分は他人と違う」と思いたいのです。非科学的な発明であろうが、宗教であろうが、文化であろうが、自分と他人を区別するために使っているのです。皆の役に立つ、錆びない、研ぐ必要のない包丁を開発しても、テレビショッピングはともかくニュースにはなりません。ステルス爆撃機の開発は、世界を騒がせるニュースになるのです。スペースシャトルに乗ることも世界ニュースです。我々の心が、他人と差を付けたい、他人より偉くなりたい、というウィルスに感染しているのです。
人間には、すべての人間に役に立つことは考えにくい。それを考える人がいるならば、役に立たない夢想家として嘲笑されるのです。
今月は、お釈迦様のお誕生日と成道と涅槃という三大聖事を祝う月です。お釈迦様たった一人だけが、すべての人類の役に立つ、幸福へ導く道を発見したのです。仏教を理解し実践するためにも、条件があります。それは、自分が人間であること。少々の理解能力があれば、心が正直なものであれば、人は誰でも覚りに達するのだと説かれています。仏道を歩むためには、性別も年齢も関係ないのです。話す言葉は何語でも構わないのです。どんな国の国民であろうとも関係ありません。幸福になりたい、苦しみをなくしたい、というのは人類共通の希望です。それを確実にかなえる教えなら、その教えもおのずから人類共通になるのです。ブッダは、「神を愛しなさい、神を愛するが故に隣人も愛しなさい」とは説かれません。ブッダの言葉は、「生きとし生けるものが幸福でありますように」です。
すべての生命を幸福へと案内するためには、「当時のインド人はなぜ苦しんでいたのか」と研究しても意味がない。お釈迦様は、「なぜ生命が苦しんでいるのか」と調べるのです。生命が普遍的に苦しんでいる。その普遍的な苦しみの原因を見出すのです。それから、その原因をなくす方法も見出すのです。次にそれを実践してみて、自分が究極の幸福に達することで、正しい道であると証明するのです。お釈迦様の元々の教えは、時代が変わるたびに改良する必要はまったくないのです。お釈迦様が涅槃に入られて二五五四年も経っていますが、説かれたその教えはいまだに人類の最先端を走っています。自分を他人から隔離したがる人間には、仏説は面白くない話かもしれません。しかし仏説に微塵でも間違いがあると、指摘することは不可能です。
人間は何かの教え、何かの立場を持って他人と違うと思いたがる、普遍性に欠けている生命であるという事実を踏まえた上で、このように語られているのです。
「太陽と月は雲に隠れても青空で自分の力を発揮して輝く。ブッダの教えも同じです。隠すものではなく(ある特定の人物だけに説くものではなく)、青空に輝く太陽の如く人類にオープンにしておくべき教えです」
(増支部三集一二九)と。
仏説は密教にならない。密教にしてもならない。隠した方がよい(一部の人間にだけ通じる)教えとは、欠陥だらけの教え(バラモン教)である、とも説かれるのです。「正しく説かれている、完全たる道を示している」とは、仏法の特色です。欠陥のない教えなので、人々は自由にアクセスすればよいのです。その自由が、歴史的にいくつかの問題を引き起こしました。一つは仏教が宗派に別れたことです。
人々はブッダの教えを自分なりに解釈して、それに納得して語り始めたのです。自分の理解範囲に凝り固まったことで、当然、「他人と違う」と言わなくてはならなくなったのです。それは人間の問題であって、お釈迦様の問題ではありません。宗派仏教自体は、普遍性のある仏教が、ある特定の人間のための教えに矮小化されていった現象です。自分を正当化するためにブッダの教えを参照することはできないので、仏説だと偽って、隔離目的の教えを自分たちで創作するはめになったのです。それでも、宗派仏教にいたっても、すべての生命の幸福を願う、というスタンスから脱出することは不可能なのです。宗派仏教から原始仏教に遡ってみると、ブッダの教えが厳密に普遍性の教えであることを発見できます。地球の生命は皆兄弟である、という立場で、ブッダの教えを世に知らせるべきです。ブッダの教えは、人類に真の幸福と平和を現実的にもたらすのです。死後天界に生まれるまで、最後の審判が起きるまで、世紀末まで、待つ必要はありません。いま・ここで、皆、幸福になるのです。
仏教は人類共通だと書きましたが、本当は、「生命共通の教え」なのです。六十人の阿羅漢が揃ったところで、
「比丘たちよ、大衆の役に立つために、幸福をもたらすために、旅に出なさい。人間・神々の幸福になる、完全たる教えを説きなさい」と命じて、仏教は人類初の世界宗教としてスタートを切りました。人類がお祝いをするならば、お釈迦様の出現こそお祝いするべきです。
経典の言葉
- Caratha, bhikkhave, cārikaṃ bahujanahitāya
bahujanasukhāya lokānukampāya atthāya
hitāya sukhāya devamanussānaṃ.
Mā ekena dve agamittha.
Desetha, bhikkhave, dhammaṃ ādikalyānaṃ
majjhekalyānaṃ pariyosānakalyānaṃ sātthaṃ
sabyañjanaṃ kevalaparipunnaṃ parisuddhaṃ
brahmacariyaṃ pakāsetha.
Santi sattā apparajakkhajātikā, assavanatā
dhammassa parihāyanti, bhavissanti
dhammassa aññātāro.(Vin i,20p) - 比丘たちよ、旅立ちなさい、人々の利益と安穏のために、
世界への同情のために、人間と神々に意義と利益と安楽をもたらすために。
二人ともだって旅してはいけません。
比丘たちよ、初め善く、中頃も善く、終り善い、
有意義で論理の通った真理(法)を説きなさい。
完全に円満で完全に清らかな梵行(八正道)を明らかにしなさい。
生命の中には、心の汚れ少ない者がいます。
もし真理を聴かなければ堕落してしまう彼らも、
(聴けば)真理を覚ることができるでしょう。 - (律蔵大品マハーカンダカ)