No.192(2011年2月)
ブッダと仲良しになった子供たち
道徳の勘違い Moral values need clear cut definition
経典の言葉
Dhammapada Capter XXⅡ NIRAYA VAGGA
第22章 地獄の章
- Avajje vajjamatino Vajje cāvajjadassinobr
Micchāditthisamādānā Sattā gacchanti duggatim - Vajjañca vajjato ñatvā Avajjañca avajjato
Sammāditthisamādānā Sattā gacchanti suggatim
- 罪なきものをありとなし 罪あるものをなしとなす
かかる邪見の人々は 死して悪趣に墮ちてゆく - 罪あるものをありとなし 罪なきものをなしとなす
正しき見解の人々は 死して善趣に到らなん - 訳:江原通子
- (Dhammapada 318,319)
ダンマパダの注釈書にある因縁物語から始めます。
お釈迦様が祇園精舎に住んでおられたときのこと。
他宗教の家族の子供たちと、仏教徒の家族の子供たちが一緒に遊んでいました。子供たちにとっては仲良く遊ぶことがなによりも面白くて、友達の親が何を信仰しているかは興味も関心もないことです。
しかし大人の人間関係は簡単なものではありません。どうでもいい理由を取りだして、互いに喧嘩すること、人間関係を壊すことは日常茶飯事です。何とかして大人の無意味な喧嘩に、子供まで巻きこもうとするのが大人です。それで他宗教の親たちが心配しはじめたのです。「仏教徒の子供たちと遊ぶのは構わないけれど、その子供たちと一緒に祇園精舎の方に入るなよ」としっかりと戒めたのです。立ち入り禁止条例も守りながら、子供たちは次の日も遊びにふけっていたのです。しかしのどが乾きました。
祇園精舎は広い公園でした。たくさん比丘たちが住んでいたので、飲み水はいっぱいありました。
仏弟子たちが住んでいるところは、いつでも開放されている場所です。誰にでも出入りは自由なのです。しかし他宗教の子供たちに、立ち入り禁止条例がかかっている。そこで彼らは仏教徒の子供たちに頼みました。「君たちは祇園精舎に入って水を飲んで、私たちの分を持ってこい」と。仏教徒の子供たちが騒ぎながら水を飲んでいるところをお釈迦様が見ておられたのです。それから子供たちは、水をどのように運べばいいのかと、また騒ぎました。お釈迦様はアドバイスしました。「君たちはいっぱい水を飲んで、友達たちにも、のどが乾いているなら自分で来て水を飲むようにと言いなさい」と。
子供たちは「水を飲みたければ、みな自分で行って水を飲みなさいと、お釈迦様から言われたのだ」と友達に告げました。
それで子供たちみな、水を飲むところに集まりました。お釈迦様はみなに「よいこととは何、悪いこととは何」ということを明確に教えてあげたのです。「よい子、悪い子」というのはけっこう子供たちを悩ませる問題なのです。よい子になりなさいとどんな親でも言いますが、よい子とは何か、よい子になるためにはどうすべきか、と知っている親はいません。ですから、よい子になりなさいと親が口やかましく繰りかえしても、それは子供にとって納得いける躾になりません。しかしお釈迦様の定義を聞いた子供たちは、完璧に納得しました。お釈迦様のことを大好きになりました。
家に帰った他宗教の子供たちは、お釈迦様と話したことを誇らしげに報告しました。
子供たちがブッダの言葉に納得していること、お釈迦様を何の疑いもなく信頼していることを知って、他宗教の親たちはひどく落胆しました。しかし、ブッダの話は間違っている、神様の話を信じなさい、と説得する能力もなかったのです。
「うちの子は不幸になりました。破滅への道に陥りました」と嘆くばかりです。
周りの知人たちが、この親たちの悲しみを無くしてあげようと、相談にのりました。その人々は、子供たちと親を囲んで、善とは何、悪とは何、という対話を行いました。他宗教の親たちは驚きました。自分たちの子供が大人と肩を並べて、善悪について語っている。子供たちは、大人も驚くほど真理をしっかり知っている。それが分かった親たちは、このように考えました。わずかな付き合いで、自分たちの子供がこれほど理性人になるならば、いっそのこと子供たちをお釈迦様にゆだねたほうがよい。それが子供たちのためになるでしょう、と。
このように決めた他宗教の親たちは、子供たちをお釈迦様にゆだねようと、祇園精舎に入っていきました。お釈迦様は親たちにも、善とは何か、悪とは何か、と明確に語られたのです。(テーマは同じですが、恐らく善悪について大人バージョンを語られたのでしょう。)親たちも、仏法僧を信頼する仏教徒になったのです。
善悪の問題について、子供バージョンと大人バージョンの解説の違いを考えてみましょう。
他人から自分がされたくないことを、自分も他人に対してはしない。他人に言われたくない言葉を、自分も他人に対して言わない。みなに批判されること、みなに嫌がられることをしない。怒ったり欲張ったりして、仲間のあいだで嫌な人間になるのではなく、みなと仲良くする、みなに好かれる人間になることです。
これが善悪についての子供バージョンの解説です(ダンマパダの129~132偈より)。
大人は素直ではないのです。勘違いが多いのです。
本当の善は悪だと思い、本当の悪は善だと思うのです。他宗教では、人を殺すことよりも神を否定することが許しがたい罪だと信じることもあるのです。
お釈迦様の時代のバラモン教では、神の機嫌を取るために、牛・山羊などの動物を生け贄にしました。
旧約聖書の神も、厳しく動物の生け贄を要求するのです。
他宗教でも、道徳だと思われる言葉はあります。
しかしどこかで、話はねじ曲がっているのです。たとえば「隣人を愛しなさい」とあります。では、隣人でない人のことをどうしましょうか? 嫌がっている動物を神のために殺すことはよくないと仏教側が批判したところ、あるバラモン人が、「神のために死んだ動物は先に天国に行きます」と答えたのです。
ということは、動物を生け贄にすることが動物に対してよいことをしてあげたことになります。仏教側はさらに、「それでは自分自身で生贄になったならば、自分が先に天国に行けるのではないでしょうか?」と反論しました。
正直なところ、バラモン人も、自分は神の生贄になりたくなかったのです。しかし現在では、天国に直行で行くための方法として、他人を道連れにしてテロ行為までしている宗教もあるのです。他宗教の道徳論は、あまりにも曖昧です。
神が定めたから善、神が禁止したから悪、という他宗教の理由づけさえも、おかしいのです。宗教があってもなくても、悪行為は悪でなくてはならないのです。信仰によって善悪がバラバラになるのもおかしい。豚肉を食べることが善か悪かは、信仰する宗教によって異なります。このような曖昧な道徳に、大人は混乱しています。客観的に判断しないのです。
神を信仰して罪を悔い改めれば、悪がなくなると思っている人々は、その話が悪を正当化していることに気づかないのです。悪がなければ、神を信じる必要はなくなるのです。
お釈迦様は、道徳の勘違いについて大人に語るのです。
こころが貪瞋痴で汚れているならば、思考も言葉も行為も汚れているのだと説かれるのです。こころに執着的な愛ではなく、慈しみがあれば、こころは清らかなのです。慈しみのこころでおこなう思考も言葉も行為も、清らかになるのです。要するに、悪を避けて善をおこなうということは、一人ひとりが自分のこころを清らかにする自己制御なのです。
正義の味方になって世に迷惑をかけることは、善行為ではないのです。
人間とは、完璧ではないことはわかりきっている事実です。
自己制御がなければ、悪行為ばかりする性質なのです。こころに潜んでいる無知・怒り・欲が活動しないように、自分を戒めることが善なのです。誰かが自分の頭に水をかけただけで、お祓いしてもらっただけで、「神様、わたしの罪を許してください」と嘆いただけで、こころは清らかになりません。
このような間違った考えがある限り、人は善だと思って悪行為をするのです。
善悪に対する勘違いについて学ぶことが、善悪問題に対する大人バージョンの解説なのです。
今回のポイント
- 善と悪は明確に区別するべき
- 善悪の定義は人の解説により変わるものではない
- よい子になることは子供の課題
- 善悪を勘違いしないのは大人の課題