パティパダー巻頭法話

No.200(2011年10月)

苦しみをつかさどる執着

善友がなければ独りで住む Attachment vs freedom.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIII NĀGA VAGGA
第23章 象の章

  1. Sace labhetha nipakaṃ sahāyaṃ
    Saddhimcaraṃ sādhuvihāri dhīraṃ
    Abhibhuyya sabbāni parissayāni
    Careyya tenattamano satīmā.
  2. No ce labhetha nipakaṃ sahāyaṃ
    Saddhimcaraṃ sādhuvihāri dhīraṃ
    Rājāva ratthaṃ vijitaṃ pahāya
    Eko care mātangaraññeva nāgo
  3. Ekassa caritaṃ seyyo
    Natthi bāle sahāyatā
    Eko care na ca pāpāni kayirā
    Appossukko mātangaraññeva nāgo
  • もし善賢の友ありて 共にあらんと願いなば
    困苦に克ちてサティ深く 心悦びともに行け
  • 心勝すぐれしともなくば その領國くに棄つる王のごと
    独り 森行く象のごと 君また一人行けよかし
  • おろかなものをともとすな むしろ独りをよしとなす
    独行 悪をなさずして 小欲 象の如くあれ
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 328-330)

執着

仏教を学ぶ場合、必ず耳に入る用語です。執着は捨てるものです。執着から完全に心が自由になった状態は、涅槃・解脱と言うのです。ということは、仏教を実践する人々は、執着を断つことに挑戦しなくてはいけないのです。「仏道とは何か?」と訊ねるならば、「すべての執着を断つ道である」と定義することができます。

そこで、執着とは何か、どれくらいあるのか、どうすれば断つことができるのか、という問題に対する説明が「仏法」になるのです。

様々な執着

お金に執着する、食べ物に執着する、旅行が大好き等々、具体的に言えば執着の対象は無限・無数になります。それなら勉強することも、執着を無くすこともできないのです。執着とは物質的なモノにある特色ではなく、心の性質なのです。例えば普通の大人が札束を見る。「大金だな、自分にもこれくらい金があれば、ありがたいな」などの気持ちになる。それは執着です。同じ札束を子供が見る。「これって面白い」と思って玩具にしようとする。それは子供の心に起きた執着です。札束が執着であるならば、誰の心にも同じ気持ちが生まれるはずです。ですから仏教は、「世の中にある美しいものは、欲ではありません。それらに対して心に起こる愛着が欲である」と説かれているのです。

眼耳鼻舌身から刺激を受けたい、という希望は欲の執着です。それから、生き続けたい、死にたくはない、という存在欲もあります。存在したくない、という虚無的な欲もあります。この三つはお釈迦さまが渇愛という言葉で説かれたものです。煩悩という用語を使う場合は、欲の煩悩、生き続けたがる煩悩、見解に対する愛着と、ありのままに真理を発見できない無明、という四つにするのです。

執着と悩み

人間の一切の悩み苦しみの原因は執着です。輪廻転生する原因も執着です。解脱に達することができない理由も執着です。罪を犯して不幸に陥る原因も執着です。しかし、執着が苦しみの原因だと発見することはなかなか難しいのです。執着とは良いものだという錯覚があるのです。これを無明というのです。

人は確かに、美しいものを見て、美しい音を聞いて、美味しい食べ物を味わって、楽しみを感じるのです。それから、財産、名誉、権力などからも、伴侶、子供、親戚、友人などからも楽しみを感じます。そのようなものに対する執着が強ければ強いほど、楽しみも強くなるのです。例えば、人が音楽を聴いているとしましょう。音楽に執着が強い人は、大いに楽しむのです。音楽に興味のない人は、それほど楽しまないのです。それが人の日常経験なので、執着は良いものだと思ってしまうのです。

東日本大震災では、多くの人々が想像もできないほどの苦しみに陥ったのです。全てを失ったのです。親しい人々が亡くなったのです。みな、人々が亡くなったことで、財産を失ったことで、苦しみに陥ったのだと思っています。説明するために、少々、失礼な言葉をこれから使います。人は必ず死ぬと、みな知っています。ならば、「人はどうせ死ぬから、大震災であなたの家族が亡くなったからといって、気にしないで下さい」と言ったところで悲しみが消えますか? 「津波に呑み込まれたお爺さんは、八十歳でしょう? 八十歳くらいで誰でも死ぬでしょう? 悩む必要はありませんよ」と言われても、心の悩みは消えません。別な例を出します。ある人が二千万円をかけて家を建てました。それが津波で流されたのです。その人の悲しみを無くすために、誰かが三千万円の値打ちのある家を建ててあげたとする。それでも、その人の悲しみは無くならないのです。一千万円儲けた気分にはなりません。老いること、病に陥ること、死ぬこと、自然災害があることは、誰でも知っています。しかし、老いてゆくと悲しくなるのです。病気にかかると悲しくなるのです。人が亡くなると悲しくなるのです。自然災害に遭遇したら、何年経ってもその恐怖感から心は解放されません。この場合は、「心の傷は消えない」と言うのです。では「心の傷」とは何なのでしょうか? 仏教では、それに「執着」と言うのです。

飼っているペットが年取って死ぬことは当り前です。しかし、悲しくてたまりません。自分が死ぬまで、ペットとずーっと一緒にいられるとは思ったこともなかったのに。ペットの寿命は十年、十五年で終わりだとも知っていたのに。それなのに、なぜ悲しむのでしょうか? ペットに対して執着があったからです。執着があると、現実が見えなくなるのです。ありのままに受け止めることができなくなるのです。

財産が無くなること、人々が死ぬこと、老いることなどが、人に悩み悲しみを作るはずはないのです。執着が問題です。執着がある時は、現象のわずかな変化も、心に大きな悩みをつくるのです。

執着と束縛

執着は人を全面的に束縛します。自由を奪い、智慧に蓋をかぶせるのです。執着する対象に、自分の人生を合わせなくてはいけなくなるのです。可愛いからと犬を飼ったら、犬の生活習慣に合わせて自分の生き方も変えなくてはいけなくなる。子供が生まれたら、人生は子供中心にまわるようになるのです。子供が他の子供と喧嘩したならば、決まって我が子が正しいと思うのです。しつけが悪いのは相手の方です。どこかの政党の党員になったら、その政党がやることは何であろうとも正しいと思う。他の政党がやることは、すべて間違っているということになるのです。知識は強い執着の対象です。知識人は財産よりも家族よりも「自分の知識」に執着する傾向が大いにあるのです。様々な執着のなかで、自分の命に対する執着が最も強力です。自分の命を守るために、人は何でもします。人は喜んでものごとに対して執着を抱きますが、自分が喜んで執着の対象の奴隷になっていることに気づかないのです。精神的な奴隷と、精神的な自由は決して相容れません。完全なる自由を目指す人は、執着を捨てなくてはいけないのです。

自由への挑戦

お釈迦さまは出家弟子たちに、物を持たない生活を推薦しました。必需品である衣一着(三衣)、托鉢に使う鉢、水こし布、剃刀、針と糸だけが私有財産。この八品が揃っていると、独りで生活できます。もしお釈迦さまが、庵一つでも個人で持つことを認めたならば、その出家はその場所から離れなくなり、遊行生活ができなくなるのです。先輩の長老たちと一緒に旅をして、学ぶことも修行することもできなくなるのです。出家は托鉢で少々多めにご飯をいただいても、残ったものを次の日に食べるため取り置いてはならない。戒律による厳しい生き方だと誤解されていますが、これは戒律というより、執着との戦いなのです。余分にいただいたご飯を無駄にしないで次の日に食すればよいと決めるのは、表面的には当然に感じます。しかし人間が二日分、三日分、一週間分とまとめて托鉢して楽をしようとするのは、普通の気持ちです。それから、保管している食べ物を守ったりしなくてはいけなくなる。たいへんな執着になるのです。

人間は寂しがり屋です。たくさんの人々と和気藹々と生きていきたい。家族が増えると、知り合いが増えると楽しい。社交的だと自慢までするのですが、何のこともありません。寂しがり屋なのです。心が弱いのです。他人に依存することで、寂しさを紛らわしているに過ぎないのです。出家には、独りで生活するようにと戒めています。それは「人間嫌い」からではありません。執着に対する挑戦なのです。何にも依存しない心を育てるためなのです。スッタニパータの『犀角経』は、独立生活のすばらしさを詠っている経典です。しかしこの独立生活は、一般人には実行できるどころか理解することさえ難しいのです。執着を完全に絶った人の「自由」を詠っている偈なのです。

善友

仏道の目的は完全なる自由(解脱)ですが、実践しようとすると少々、問題が起きます。人間は本来、執着のどん底にいるのです。無明という暗闇のなかに彷徨っているのです。独りで抜けだすことができるなら、誰でも本来、解脱に達しているはずです。しかし、自力で執着を断つことができたのはお釈迦さまだけです。人間なら皆、良いことは他人から学ばなくてはいけないのです。執着を断つことに決めた人は、誰かの指導のもとでその目的に達しなくてはいけないのです。指導者は、普通に欲に溺れて生活する人々に「生きることは苦に満ちている」と教えてあげなくてはいけないのです。ということは、解脱に達するまで、人間関係を完全に断つことは不可能だということです。

欲の仲間は誰にでもいます。しかし、欲と執着を脱する方法を教えてくれる仲間は稀有なのです。仏教は、家族・親友などのつきあいは高く評価しません。それらは執着の仲間です。もし誰かが生きることの本来の姿(苦であること)と、執着を脱する方法を教えてくれるならば、その人こそ真の友人だと説くのです。善友とも言うのです。「善友に出会うことができたならば、仏道を完成して解脱に達するのだ」と、お釈迦さまが説かれたのです。さらに、「如来こそが人類の真の善友である」と説かれたのです。

惜しみなく捨てる

「もし人に善友に巡りあうチャンスがあったら、その人はすべてを捨てて直ちにその善友について行くべきだ」と釈尊は力説します。たとえ一国の王であっても、お釈迦さまの立場から見れば何の価値もないのです。一般の人は家族に執着して束縛されている。国王は国一つに執着して束縛されている。王はむしろ、一般の人よりも惨めなのです。表面的に大胆で偉く見えますが、精神的に耐えられぬほど悩み苦しみ恐怖感を抱えているのです。仏典には「全財産を捨てて、家を出る」エピソードが数多くあります。国や家族を捨てることは無責任で良くないことであると、一般人は思うものです。しかし仏教では、それこそ自由を目指す人が取るべき態度なのです。仏道の人は家族や財産を捨てるのではなく、執着を断つことに挑戦しているのです。人間嫌いではないのです。すべての生命に対して、憐れみを抱き、慈しみを抱いているのです。他の生命に執着すること自体が、その生命に対して慈しみがないことなのです。

ブッダは、「もし自由を目指す人に善友と巡りあうチャンスがないならば、国を捨てる王の如く、群れから離れて独りで生活する象王の如く、独りで生活するべきだ」と説かれるのです。単独生活は、精神的に弱い人に、執着がある人に、できるものではないのです。昔のように国を統治している国王は今いませんが、独裁者たちがいます。彼らは権力に執着して、国民を無視して国を支配するのです。抵抗者を残酷に殺すのです。国民が一斉に立ち上がると、国の財産を持って外国へ逃げようとする。それができなかった場合は、反乱軍に殺されるのです。ある時期、国民を独裁的に支配する人が、ある時期は国民から犬猫のように唾をかけられて貶されて、死刑にされるのです。これも執着の仕業です。もし皆に愛されて平和に国を統治している王が、執着は悪いと思って国を捨てるならば、その人は偉大なる人格者なのです。

人づきあいと人間関係

たくさんの人々と付きあって生活したいと思うことは、正しくないのです。人づきあいが苦手、ということも良くないのです。誰とでも簡単につきあうようにすることも、良くないのです。悪人は簡単に寄ってくるからです。そうなると、自分も悪に染まってしまいます。「悪人と付きあうよりは、独りで生活したほうが良い」のです。

「人づきあい」と「人間関係」は、同じものではありません。人間に限らず、我々の命は無数の生命と関係があって成り立っているのです。ですから人間関係ではなく、生命との関係を大事にしなくてはいけないのです。それが、ブッダが語る慈しみの生き方なのです。私たちは慈しみとは何かとも知らず、人間関係を築こうとしているのです。それは自分の利益を目指す自我中心的な行為なのです。ですから、誰でも人間関係においては相当、悩むのです。

ポイントを明確にしましょう。慈しみを実践することで、すべての生命との関係を築きます。人間として自分の生き方を向上する目的で、人づきあいも実行します。無批判的に誰とでもつきあうと、大変なことになります。つきあう場合は、人を選ばなければいけないのです。善人を選ぶのです。善人が見つからない場合は、堂々と独りで生活することです。

今回のポイント

  • 執着とは束縛のことです
  • 仏教は自由を目指すのです
  • 執着を断つために精神的な力が必要です
  • 慈しみは完全な人間関係なのです