パティパダー巻頭法話

No.202(2011年12月)

覚者は遺言をしない

不放逸は最期の言葉 Diligence consummates Buddhist practice.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章

  1. Manujassa pamattacārino
    Tanhā vaddhati māluvā viya
    So plavatī hurā huraṃ
    Phalamicchamva vanasmi vānaro
  2. Yaṃ esā sahate jammī
    Tanhā loke visattikā
    Sokā tassa pavaddhanti
    Abhivatthamva bīranaṃ
  3. Yo cetaṃ sahate jammim
    Tanhaṃ loke duraccayaṃ
    Sokā tamhā papatanti
    Udabinduva pokkharā
  4. Taṃ vo vadāmi bhaddaṃ vo
    yāvantettha samāgatā
    Tanhāya mūlaṃ khanatha
    Usīratthova bīranaṃ
    Mā vo nalamva sotova
    Māro bhañji punappunaṃ
  • 放逸の人 渇愛タンハーは 蔦の如くにからまりて
    木の実求める林中の 猿さながらに今世
    あちこち漂い流れ行く
  • 世にも卑しき渇愛の うづきに負けて屈すれば
    彼の憂いの増すことは あたかも雨後のピーラナ草
  • 世にも卑しき渇愛の 打ち克ち難きに打克てば
    憂いけがれの落つること 花蓮葉はなはちすばの露の玉
  • 我れ おんみらに いざ説かん 幸多くあれ この会衆えしゅう
    香根ウシーラ求めピーラナを 掘るが如くに渇愛を
    その根元から掘り起こせ 流水 芦をしだくごと
    魔神マーラしばしば おんみらを 打しだくこと なきように
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 334-337)

ブッダに「握りこぶし」はない

お釈迦様の遺言をご存知でしょうか? 四十五年間休むことなく、八十歳になってマッラ族のウパワッタナ園の沙羅双樹下で涅槃に入られるまで、私たち人類のことを憐れみ、真理・道徳・解脱と解脱に達する道を語り続けたお釈迦様。その言葉の数々が今日に至るまで膨大に伝えられています。ブッダは各人の性格・理解能力などにあわせて、真理を語られました。それから様々な出来事をテーマにして語られた教えもあります。出家比丘たちに直接戒めとして語られた経典もまた数多くあるのです。経典の内容はとても幅が広いものです。というわけで普通の人の気持ちとして、「お釈迦様の遺言は何なのか?」と知りたくなるのは当然でしょう。特に北伝仏教では『仏遺教経』『大乗涅槃経』などの経典が重視されたことから、それらを学んだ人々の間で、これこそがブッダの遺言である、ということが強調されてきたようです。

遺言とは「死後のために言い残しておくこと。また、その言葉」という意味です。その語義に照らすと、実はブッダの教えについて「遺言」は論理的に成り立たないものなのです。パーリ経典の『Mahāparinibbānasuttanta(大般涅槃経)』は、お釈迦様の「最後の旅」を記録した経典です。その中にはお釈迦様の最期の言葉が明確に書き残してあります。しかしそれは「遺言」ではないのです。お釈迦様は、「真理(dhamma)と道徳(vinaya)のすべてを明らかにしました。掌に握ったまま隠した教えはまったくありません」と説かれています。ブッダには、遺言として発表するべきことなど何もなかったのです。
遺言という言葉にひっかかると問題が起きます。

一、今までこの内容は説かれなかった。
二、今までの話は完全ではなかった。

この両方のポイントについて、お釈迦様は断言的に否定しているのです。仏説はたとえ一偈であっても完全に説かれています。ブッダは師匠としてすべてを教えたのであって、如来に「握りこぶしは無い」と明言しているのです。ですから、どなたかが、「これがお釈迦様の遺言だ」と言うならば、その人は「如来は完全に語らなかった」と、ブッダを冒涜していることになるのです。

お釈迦様の最期の言葉

そういうわけで、残念ながらお釈迦様に遺言はないのです。しかし、お釈迦様が語られた最期の言葉ならあります。四十五年間語り続けたお釈迦様の最期の言葉です。それは遺言ではなく、四十五年間にわたって説法なさったお釈迦様が、その教えをすべて集約して、私たちにどうするべきかと戒めた言葉なのです。

『Mahāparinibbānasuttanta(大般涅槃経)』によると、その言葉は「では君たちに告げます。すべての現象は消え去るもの。不放逸を励みなさい(appamādena sampādetha アッパマーデーナ サンパーデータ)」です。その言葉を中村元先生は「怠ることなく修行を完成しなさい」と訳されています。わかりやすく訳すると肝心なポイントがずれてしまう恐れもあります。実は最後の言葉は、appamādaという、たった一つの単語なのです。Sampādethaは、「励みなさい」という意味になります。励むというのは、人なら誰でも知っている意味なのです。頑張りなさい、努力しなさい、精進しなさい、諦めてはいけません、しっかりやりなさい、などのフレーズは日常的に使っています。何かに達するためには、それなりに精進努力しなくてはいけないのは世間の真理です。しかし、頑張りなさい、だけでは何の意味もないのです。お釈迦様が語る「励む」とはappamādaを実践することです。「不放逸」と訳しますが、その意味は皆様がよく知っている「気づき」のことです。気づきの実践はブッダの瞑想そのものです。ですからお釈迦様は今まで語られた様々な修行をたった一つの単語にまとめられたのです。Appamādaとは、仏道のキーワードであり、仏道そのものでもあります

誰も「革命」を起こそうとしない

Appamāda・不放逸とは何かと学んでみましょう。Appamādaは否定形です。元の単語はpamāda・放逸です。すべての人々は放逸で生きているのです。それは失礼な言葉ではありません。不放逸とは不死へ至る道と、お釈迦様が語ります。要するに不放逸を励むと解脱・涅槃に達するのです。苦しみを乗り越えるのです。しかし世の中では、苦しみを乗り越えた人間は一人もいないでしょう。それなら、普通の人間の励みとは、放逸であって不放逸ではありません。人々は豊かになるために、病気にかからないために、長生きするために、子孫が繁栄するために、頑張っているのです。欲・願望・希望の命令に従順に生きているのです。思考の革命、精進の革命を起こそうとはしないのです。周りを見て、皆やっていることをやっているだけの人生なのです。

皆やっていることをやるとは、無批判的に、自分で判断をせずに、自分で責任を持たずに、世の流れに沿って生きることです。理性には立場がないのです。これが無知ということです。それから、欲と怒りが生きる衝動として働くのです。欲が強くなると、皆やっているのとは違うことをやるかも知れませんが、それらは悪行為になるのです。怒りが強くなった時も、世の常識に逆らうことをしますが、それも悪行為なのです。決して革命的ではないのです。まとめると、人間の生きる衝動は貪瞋痴です。貪瞋痴に操られるまま生きているのです。生きていると言うよりは、皆あやつられているだけです。自分で自由に生きているという実感さえも起きないのです。このみじめな状態を「生かされている」という表現で糊塗(隠蔽)するのです。「生かされている」という言葉は、神という概念に固執する方々の間では感動的なフレーズにもなっているのです。

貪瞋痴の衝動で生きる時、希望・願望などのニンジンを追いかけて生きている時、私たちは大きな問題を起こします。生きるとは何かと、考える余裕がなくなるのです。人間の一切の問題は「生きているから」生まれるものだという単純なことに、気づかないのです。まず生きるとは何かと、調べなくてはいけないのです。それを発見した人に、人は何をするべきか、何をしてはいけないのかが、明確に分かるはずです。しかし現実は、そんなものではありません。皆、「私の人生の目的は何ですか?」「私はどうすれば良いのでしょうか?」「私に適した学問は何ですか?」「私に合う仕事は何ですか?」等々の疑問を作って、妄想にふけるのです。それで俗世間が謳っている幸福に達することもできなくなるのです。世間的にも「負けた」人生になるのです。

現実離れと妄想中毒

貪瞋痴・夢・希望などの衝動で生きると起こる次の問題は、「現実離れ」です。心が過去のことが気になってしようがなくなるのです。将来に対する希望や夢は際限なく膨らんでしまいます。過去も将来も決して現実ではありません。頭の中に回転する概念に過ぎないのです。現実的でないものは、証拠がいらないものは、いくらでも頭で考えることができるのです。空を飛ぶ象や馬、龍、ユニコーン、聞き耳頭巾、賢者の石、神、天使、妖精、などはいたって簡単に考えられます。このようなものを考えると、貪瞋痴が刺激されるので、病みつきになります。「妄想中毒」ということになってしまうのです。

計画を立てるのも、夢を描くのも自由ですが、実現したいか否かが問題です。実現する意志も見込みも見通しもない夢は、依存症の種です。実現できる計画であっても、実行しなくては何にもならないのです。実行するとは、現実的な働きなのです。時間的に言えば、今・現在に実行するのです。過去も将来も存在しないので、実行においては何の関係もない概念に過ぎません。今・現在を大事にする現実的な人は、この世でも成功を収めるのです。お釈迦様は、俗な言い方をすれば、現実主義者で実行主義者です。ゆえに、過去よりも将来よりも「今・現在」というポイントを強調なさるのです。「過去に引かれることなかれ。将来に期待することなかれ。過去とは過ぎ去ったもの(今、存在しない)。将来とは未だ現れていないもの(今、存在しない)。今・現在の現実をその都度、その都度、観察するのです」と説かれるのです。

人々の頭は過去を心配すること、将来に期待をかけることで一杯です。現実にめざめる暇がないのです。過去を思い出したり、過去に悩んだりすることは、際限なくできます。将来を夢見ることも、際限なくできます。普段もものごとを判断する区別能力に乏しい人々の心の中に、過去の概念・将来の概念が無制限に入り込むと、パンクしてしまいます。気が狂ってしまうのです。右も左も善も悪も分からなくなってしまうのです。何をしているのか分からない、いわゆる「生かされている」状態に陥ってしまうのです。これが世間の生き方というものです。とても危うい生き方です。精神状態がいつ壊れてしまうか分からない生き方なのです。先進国だと言われているアメリカなどでは、ほとんどの人々がカウンセリングを受けに精神科に通うのです。貪瞋痴に引かれる生き方は、放逸です。希望・願望などばかりを追う生き方は、放逸です。皆、幸福になるどころか、悩み・苦しみ・失望・愛別離苦・怨憎会苦などの泥沼から抜けられないのです。

不放逸のススメ

お釈迦様は不放逸の実践をすすめます。今・現在の現実のみを観察することを推薦します。生きるとは何かと、今・現在の自分を観察することで、各自で発見しなさいと薦めます。「生きるとは何か」というと、まったく把握できない曖昧な単語なのです。しかし、生きてみると時間が経過します。瞬間瞬間、時間が経過します。瞬間のあいだでは、どんな人でも大胆なことはできません。手を上げる、瞼を閉じる、足を上げる、足を下ろす、などの極めて単純な行為しかできません。その行為の連続を一束にまとめると、俗に言う「生きる」ということになるでしょう。しかし私たちがこの単語を使うと、過去で起きて今、存在しない大量のデータと将来に起こるだろうと思う観念的なデータのみを含んでいるのです。現在のデータはないのです。現在とは瞬間だけなので、それに気づかないのです。お釈迦様がおっしゃられるように、今の瞬間に気づいていると、生きるとは何かという問題に対する現実的なデータを収集できます。そこでいとも簡単に、「生きるとは苦の連続以外の何でもない」と発見するのです。「今まで無知の衝動で生きていたのに、生きることに固執していたのだ。しかし生きるとは執着するに値しないのだ」と発見するのです。それで心が解脱におもむき、瞬時に解脱を体験するのです。この生き方が「不放逸を実践すること」です。要するに、appamādaを励むことです。お釈迦様は最期の言葉で、私たちに「解脱に達する道」を説かれているのです。

ダンマパダの言葉

ダンマパダの偈で、お釈迦様はこのようにも語っています。

放逸で生きる人々の心の中に、渇愛が蔦のように増えます。Māluvā(蔦)という蔓植物は、巨大な樹木に宿る。
みるみるうちに成長して宿った樹の栄養分を吸い尽くし、その樹を倒すのです。巨大な樹木とは心のこと、蔦とは渇愛のことです。
貪瞋痴の衝動で生きる人の心は、実を求めて枝から枝へ飛び回る猿のように安定しないのです。(334偈)

「欲・渇愛は、たいしたことではない。欲があってもそれほど危険ではない」と思って貪瞋痴を軽く見る人は、苦しみを徐々に増やす。人にとっては断ちがたいと思われる渇愛を断つ人は、一切の苦しみから解放される。その人々は、この世を悩ませている生老病死の苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五取蘊苦に悩まされることがない。苦しみは、蓮の葉に落ちた一滴の水のように、その人の心から落ちるのです。(335、336偈)

ですから不放逸によって渇愛を根こそぎに取り除くのが良いことだと、貴方がたに告げます。Usīraという香根が欲しい人は、その上に繁茂しているbīranaという草を根こそぎに取らなくてはならないように。川の両岸には葭(葦)・真菰などの植物が元気に育っている。しかし洪水が来るたびにすべて流されてしまう。人間も何事もない時は家族・財産・健康などに執着して喜んで生きている。しかし、生老病死という洪水、経済不振・地震・津波などの自然災害という洪水に遭ったら、今までの幸福な気分は一欠片も残さずに奪われ、苦しみのどん底に陥ってしまうのです。(337偈)

お釈迦様は偈の終わりで、自然の流れを洪水にたとえます。川岸に元気に育っているが、洪水が来るたびに倒れて流されてしまう葭(葦)・真菰などを、人々の家族・財産・健康などへの執着・渇愛にたとえて戒めているのです。私たちは幸福を築くために「放逸」を励んでいます。それは激流の中でもがくような虚しい努力に過ぎないのです。「不放逸」を励みましょう。

今回のポイント

  • お釈迦様に遺言はありません
  • 最期の言葉で仏道のすべてを語ったのです
  • 不放逸とは仏道のキーワードです
  • 今に気づくことが不放逸です