パティパダー巻頭法話

No.207(2012年5月)

恐怖の大海を渡る

楽は少なき苦は多き人生 Across the ocean of fear.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章

  1. Tasināya purakkhatā pajā
    Parisappanti sasova bandhito
    Samyojanasangasattakā
    Dukkhamupenti punappunaṃ cirāya
  2. Tasināya purakkhatā pajā
    Parisappanti sasova bandhito
    Tasmā tasinaṃ vinodaye
    Ākankhanta virāgamattano
  • わなにかかりし野兎の はね跳ぶ如く欲望の
    ばくじゃくとにからまれて 人くり返し苦に到る
  • わなにかかりし野兎の 如くに人は苦に到る
    されば離貪を求む比丘 渇愛をこそ滅し去れ
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 342,343)

怖い

私は怖いのです。とても怖いのです。何が怖いのですか? そう訊かれても、よくわからないのです。とにかく怖いのです。何が怖いかと訊かれたので、これから考えてみます。この世でうまく生きられるのか、という心配があります。これが怖いのです。世界と競争しなくてはいけないでしょう。競争しないで逃げるのも怖いのです。競争するのも怖いのです。競争してうまく行っても、安心できません。次はダメになるかもしれません。それも怖いのです。

年とっていくことも怖いのです。老いたら何もよいことはないでしょう。ろくに歩けなくなるし、杖か車椅子を使わなくてはいけなくなるし、体がいたるところ調子悪くて痛くなるし、みな親切に近寄ってこない可能性もあります。みなに嫌がられたり敬遠されたりする可能性もあります。この状況を思い出しただけでも、怖くてたまらないのです。

怖いのもいろいろ

病気になったら怖いというのは、それほど気にしないつもりです。治療を受けたら治ることでしょう。結局はそれも、怖くなるのです。もし治療がうまく行かなかったら、医者が判断を間違ったら、薬が体に合わなかったら、たいへんです。怖くなります。癌や認知症など、不治の病に陥らないという保証もありません。万が一そうなったら、どうしましょうかと怖いのです。

金が無くなるのも、体力が衰えることも、怖いのです。楽しみが無くなるのです。仕事を失うことも、心配です。この世の状況を考えると、安定した仕事はないのです。ですから仕事があっても、心配は増えるばかりです。周りを見ても、なんだか怖くなります。心を惹かれるほど美しい人々が、ざらにいます。それと比較して自分の姿を見ると、みじめな気持ちに陥ります。人にはけっこうさまざまな能力があります。うまく幸せに生きているように見えます。しかし自分の能力は、とるに足らない微々たるものです。それではこの世では生きていけないのです。また、恐怖の発作です。

生きていきたい

なんとなく整理されてくるような気がします。私は生きていきたいのです。幸せに生きていきたいのです。人生を楽しみたいのです。しかし、これがうまく行かないのです。何から何まで自分の希望は打撃を受けるのです。壊されるのです。年とると、何も楽しみがないでしょう。ですから老いるとは、私を破壊する敵に見えます。体が弱くなると、また楽しめなくなるのです。栄養のバランスを整えて、適度の運動をすれば、健康に生きられる? 頭はそう思っています。しかし気持ちは「うまく行くはずがない」です。健康食品を食べたり、サプリメントをまじめに摂ったりはします。しかし、宣伝でいうほど効果はありません。だまされているのです。もっと効き目のあるサプリメントなどがないのかと、探します。私の「生きていきたい」という気持ちは、鬼に化けて私を襲っているようです。しかし、生きていきたい、死にたくはない、という気持ちは、捨てられません。それで、恐怖の鬼に襲われることも無くなりません。したがって、何もかも怖いのです。

楽しみを期待する

もう少々、整理してみます。生きていきたい。なぜでしょう。当然、生きることが楽しいからです。いま、ただうまく行っていないだけです。もしすべてうまく行くならば、生きることはきっと楽しいだろうと推測します。楽しいとは、どういうことでしょうか? 考えたことはないのです。答えなくてはいけない? では答えてみます。かわいい人を見ると、美しいものを見ると、楽しいです。音楽を聴くと、楽しいです。仲間と対話をすると、楽しいです。仕事を終えて、一杯飲むことも楽しいです。おいしいご飯を食べると、幸せを感じます。家族と一緒にいるとき、楽しいです。子供と遊ぶときも、楽しいです。旅行したり、ハイキングをしたり、山登りをしたりするとき、それはほんとうに楽しいです。まだあります。楽しかったことを思い出したりすると、楽しくなります。気に入った本や漫画を読んだりするときも、時間を忘れるほど楽しいのです。

逃げてゆく楽しみ

楽しみはいっぱいあるのに、なぜ私は怖くてたまらないのかと、疑問に思います。どこかで「安心できない」という気持ちが、ずーっとあります。この楽しみが無くなったらどうしましょうか、という不安があります。私の妄想? ではありません。これは現実です。目が徐々に弱くなっていきます。目から受ける楽しみが減ります。体力は衰えます。トレッキングや登山は止めるはめになります。子供は大人になってひとりだちします。その楽しみはすべて消えて、寂しさだけ残ります。おいしい食べ物はいっぱいあるのに、胃袋が弱いのです。高血圧もあるのです。糖尿にもかかっているのです。妄想ではなく、現実的に楽しみを失っていくのです。確実に老いること、病に陥ること、死ぬことが、スピードを上げて襲ってくるのです。ですから、何もかも怖いのです。

恐怖の砂地獄

恐怖感の泥沼に、砂地獄に、はまっているのです。考えてみれば、生きているみな、同じ恐怖感の砂地獄にはまっていると思います。ですから、この精神状態から抜け出すために、カウンセリングを受けても、無意味だと思います。だれにも救い出すことはできないと思います。だれも救ってくれる人はいないと思い出したところで、また怖くなりました。

右肩上がりの恐怖と渇愛

では、覚者の言葉を参考にして、状況を整理してみましょう。生命は、生きていきたい、死にたくはない、という衝動で生きています。生きていきたいとは、生きることは楽しいのだと思っているからです。うまく行けば、楽しくなるはずだという推測・仮説があります。仮説なら現実と対照して正しいか否かを確かめなくてはいけないのです。いままでの経験からいえば、とるに足らない僅かな楽しみと、わりに合わない苦しみや恐怖感があることだと発見できます。しかし、あの仮説は、あの推測は、捨てたくはないのです。覚者はこれに渇愛というのです。実証できない仮説にしがみついている状況は、見という執着です。生きていきたい、死にたくないと好き勝手に思っても、生命とは自然法則によって成り立っているものです。生まれては消えること、絶えず変化することが自然法則なのです。大人にはなりたいが、年寄りにはなりたくない、と思っても自然法則には逆らえないのです。それでも、生きていきたいという渇愛は捨てられないのです。

老いれば老いるほど、死にたくないという気持ちは強くなります。必死になって生きるとは、必死になって死に向かって走りだすことでもあります。どうしても避けたい状況を目指して走っていることに気づくと、死を避けて生きていきたいという渇愛がさらに強烈になります。肉体という物質も、絶えず変化するエネルギーです。心も絶えず変化するエネルギーです。エネルギーとは、完全に消えて無くなるものではないのです。別なエネルギーに変わってしまうのです。死の床につくと、死の恐怖感と、死にたくないという渇愛が闘います。どちらも勝ちません。死にたくないと思ったら、生きていきたいという気持ちが強くなります。生きていきたいと思ったら、死ぬのだという恐怖感が強くなります。ふつうの闘いなら、力が徐々に弱くなるはずですが、渇愛と恐怖感の闘いで力が強くなる一方です。しかし、最期に死にます。生きていきたいという強烈な渇愛が残ったままで、死にます。心に残ったこの巨大なエネルギーによって、どこかで新たな生が起きます。それでまた、同じことの繰り返しです。生きていきたい、死にたくはない、生きることを楽しみたい、などで悩むのです。ふたたび恐怖感が襲うのです。

安らぎを求めて

われわれの心は、欲と恐怖感に支配されているのです。眼耳鼻舌身意から入る情報によって楽しみが生まれると、それに執着するのです。眼耳鼻舌身は、老いるものです。楽しみの資源が無くなるのです。それで心も怯えるのです。渇愛に支配されている生命は、罠にはめられたウサギのように怯えて震えるのです。しかしこのウサギは、殺されるのです。怖がっているから逃がしてあげましょうとは、狩人は思わないのです。生命は眼耳鼻舌身意という六ケ処で、罠にかかっているのです。終わりなく、生きる苦しみが再現されるのです。

もし快楽ではなく安らぎを求めるならば、安穏を求めるならば、苦しみの砂地獄から抜けたいと思うならば、渇愛を捨てることです。渇愛とは、うまく行けば生きることが楽しくなるはず、という決して実証できない勝手な妄想なのです。

今回のポイント

  • 生きることは楽しいと推測する
  • 生に執着すると恐怖感が襲う
  • 死ぬときは渇愛が頂点に達する
  • 渇愛を捨てることが安穏である