パティパダー巻頭法話

No.209(2012年7月)

世間の自由 VS 仏教の自由

苦しみは束縛によって生まれる Multidimensional freedom.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章

  1. Na taṃ dalhaṃ bandhanamāhu dhīrā,
    Yadāyasaṃ dārujapabbajañca;
    Sārattarattā manikundalesu,
    Puttesu dāresu ca yā apekkhā.
  2. Etaṃ dalhaṃ bandhanamāhu dhīrā,
    Ohārinaṃ sithilaṃ duppamuñcaṃ;
    Etampi chetvāna paribbajanti,
    Anapekkhino kāmasukhaṃ pahāya.
  • 鉄や木や 麻でつくりし縛(いましめ)も 堅牢なりと智者言わず
    宝石、耳環、妻や子に 寄す執心ぞ 並ならぬ
  • ゆるやかなれど のしかかり 逃げ難ければ欲楽を
    「堅牢な縛」と智者は言い 断固と断ちて遍歴す
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 345,346)

刑罰と人間社会

刑罰は人間の社会にとって必要なものでしょうか。群れで生活する動物たちのなかでも、刑罰に似たような現象が見られます。群れの決まりを守らないとか、ボスに逆らったとか、縄張りを侵したとかいう理由で、喧嘩するのです。動物の場合は、間違いを犯した生き物が必ず罰を受けるという決まりはありません。力の弱いものが酷い目にあいます。

縄張りを侵す生き物が強い場合は、縄張り侵犯の被害を受けた生き物のほうが痛い目にあって逃げなくてはいけなくなるのです。

人間の社会においても、この現象は変わっていないのです。「正義は勝つ」のではなく、強者が勝つのです。認めたくはない現象かもしれません。人間は文化的なので、野蛮な現象はないと思いたいことでしょう。しかし、思うことと現実は一致しないのです。法律を犯したら、司法の手によって刑罰が決められて、執行されます。「法の裁きが下された」と、みな喜ぶのです。しかし、勝ったのは強者なのです。司法制度の力はあまりにも大きく、個人には決して逆らえるものではないのです。もし犯罪者が強い力を持っていたとしましょう。警察がその人を逮捕しようとすると、警察官を殴ったり殺したりして逃げる可能性があるのです。時々、人々が組織を作って示威行動を起こし、反政府運動を企む場合があります。国の法律を犯す組織に対して、政府の側は警察や軍隊を動かして抑圧しようとする。その組織は犯罪組織だと、決めつけたりもする。このような場合も、正義が勝つのではなく、より力強いほうが勝ってしまうのです。表に見えないだけで、人間の社会においても「権力者が正義だ」というルールが働いているのです。武器だけが権力ではありません。大衆の力、知識、経済力なども影響します。それらを合わせて、力を測ってみるのです。力の強いほうが勝ちです。

そういうわけで、「国民の平和と安定を守る」という大義名分のもとに定められている刑罰制度は、皆が期待するほどの成果は出していないのです。刑罰は、人間の社会から消えるはずのない現象です。刑罰の目先の目的は、ひとを苦しませることです。怯えや恐怖感を与え、悩ませることです。人間としての自由を制限することです。生命は本来、悩み苦しみは嫌なのです。束縛されるのは嫌なので、何としてでも避けたいと思っているのです。この気持ちがあるからこそ、刑罰に効き目があるのです。苦しみを何とも思わない、殺されることも何とも思わない人がいるならば、その人にとって刑罰は何の意味も持たないでしょう。しかしそのような人は存在しないのです。

耐え難い苦しみ

昔から、どんな国にも刑罰制度がありました。文明が発達する前には、嫌な人はその場で殺されたことでしょう。文明とともに刑罰制度が緩くなったわけではなく、むしろ巧妙・複雑になったのです。すぐ殺すよりは、さまざまな方法で体罰を与えることを考えだしたのです。ローマ時代には、罪人を十字架にかけました。罪人は何日間も苦しんで死に至ったのです。柱に縛りつけた罪人に四方から石を投げて殺す石打ちの刑もありました。
殺す必要はないと思われる場合は、肉体的苦痛を与えるのが普通の習慣でした。

残酷な刑罰制度の流れで、現在まで変わらないで続くものがあります。それは自由を奪うことと、恥をかかせて社会的地位を無くすことです。たとえば、日本の刑務所は苦しいところではないものの、自由は無いのです。たとえ受刑者が刑期を終えて刑務所から出ても、社会からは爪弾きにされます。仕事を見つけることさえ難しい状況に陥ります。そこまで精神的な苦しみを受けるのです。自由を失うこと、社会に認められないことは、人間にとって耐えがたい苦しみです。三食が付いているからといって、刑務所に行きたがる人はいないのです。それでも再犯を繰り返す人々はいます。彼らにとっては、認められない社会で生きることが不自由で、苦痛なのです。刑務所は安全だと思って、より軽い苦しみを選んで、再犯を繰り返すのです。

刑罰制度と仏教

次に、刑罰制度と仏教の関係を考えてみましょう。刑罰制度そのものが、仏教にはまったく関係ないものです。刑罰は俗世間にある現象です。因果法則から観ると、悪行為をした人は、その報いから逃げることはできないのです。ですから第三者があえてその人を裁いて罰を与えて、自分自身も悪行為に染まる必要はない。仏教以外の宗教では、刑罰制度があります。それでも刑罰の力によって、それらの宗教を純粋に信仰するようになる、ということは無さそうです。仏教の社会でも、一つの罰が機能しています。それは「社会が認めない」という罰です。もし出家が、仏教で決めている生活規範と異なることをすると、出家組織はその人を認めないことにします。要するに無視するのです。個人の生き方に一々指をさして直すことはしません。しかし当人にとって、無視されることは耐えがたい苦痛になるのです。

ひとは自由でいたいのです。自由とは何か、自由で生きていられるのか、ということはどうでもよいのです。自由に生きたいという感情だけが、強くあるのです。自由について学んでないので、わがまま好き勝手に生きられるなら、それが自由だと思っているのです。わがまま好き勝手に生きるとは、残念ながら自由ではなく、感情の奴隷になっていることです。ですから感情を戒めるブッダの教えを守ることによって、自由が無くなったと勘違いする人々も出てくるのです。戒律を守ることで自由が無くなったと思ったら、その人には戒律を守ることが苦痛になります。ブッダは、〈戒律を守って生活することで社会的な束縛から解放されて自由とやすらぎを感じるのだ〉と説かれていますが、個人が自分の見方からその意味をねじ曲げて理解するのです。社会でわがまま奔放で感情に溺れて好き勝手に(自由に)生きていたのに、戒律を守ろうとした時点から自由が無くなった・生きることが苦しくなった、と思ってしまう場合もある。このようなケースは仏典にも記録されています。

犬の生活

ここで、面白いポイントが観えてきます。現実的に自由であるか、束縛されているかは関係ないのです。その個人が自由だと思うならば、どんな生き方もその個人にとっては楽しいのです。長い年月、受刑者として過ごした人が刑期を終えて社会に出されたら、どう生きていけばよいのか分からなくなります。途方に暮れてしまいます。刑務所生活は自由で安全だったと思ってしまいます。

例として、犬の生活を考えてみましょう。犬は、本来なら森で群れを作って楽しく過ごせる生き物でした。しかし人間が犬を飼ってしまったのです。犬から見れば飼い主がマスターで、自分は子分です。命令に従えばよい存在なのです。人間に飼われて人間の生き方に合わせて生きることは、犬にとっては苦しいはずです。走り回れない。気持よく吠えることも禁止。攻撃したい相手を見つけても牙をみせて攻撃してはいけない。地面に穴を掘って寝ることは気持ちいいのに、人間の社会に生きている間は無理です。しかし犬は、人間に飼われることが自由に生きられることだと思っているようです。時々、大事に飼っていた犬なのに、捨てなくてはいけない場合も起こります。捨てられた犬たちは、自由を味わって楽しく生活すればよいのに、逆に不自由を感じるのです。誰かに飼ってほしいと思って、知らない人を見つけても、尾っぽを振りながら後を追いかけるのです。

都会に生活していた人が、何かわけがあって田舎で生活するはめになると、不自由を感じます。それが苦しいのです。子供の頃から大人になるまで田舎生活した人にとっては、都会生活は不自由でおっかない。苦しみを感じるのです。ひとが自由か不自由かを判断する、客観的な基準は無さそうです。他人がそれを決めることも、大きなお世話です。合衆国の政治家が決める自由を、世界の各国に押しつけようと思うこと自体も、人権侵害なのです。独裁政権であっても、国民がそれで構わないと思うならば、苦しみを感じません。
まわりの国々が勝手に介入して、その独裁政権を倒しても、国民はそれからどのように生きればいいのか分からなくなって、不自由と苦しみを感じるのです。

アメリカ合衆国で一八六五年に奴隷制度が廃止された時、奴隷であった黒人のすべてが、自由を大喜びしたわけではないのです。これからどう生きればいいのかと、分からなくなった人々もいました。自殺した人々さえいたのです。最近まで黒人差別が続いたので、黒人にとっては、白人が考える自由は、生活を苦しくするだけで大したことではなかったのです。ですから、「自由とは何か」と、その個人が自分特有の定義を作らなくてはいけないのです。個人で考えた自由が、その個人にあるならば、その人は幸せを感じることでしょう。その自由が無くなったら、生きることは現実的に苦しくなるのです。

世間の自由は? 感情の奴隷?

このようなものが、俗世間でいう自由なのです。仏教が考える自由は、当然ながら違います。人々は、生きていきたい、死にたくない、という基本的な衝動で生きているのです。生きることを支えるものはすべて味方です。それに執着します。生きることの妨げになるものは敵です。それらを壊しに行きます。欲しいものを限りなく獲得することと、嫌なものは攻撃して打ち勝つことができれば、俗世間は幸福を感じます。要するに、自由だと思っているのです。人間みな同じことをやって生きているので、この社会からは争いが消えません。奪い合いが消えません。弱肉強食が消えません。人間は、誰よりも人間のことが怖いのです。それでも自分の基本的な衝動に従って、生きていきたいと思うのです。
ひとが考える成功とは、「どの程度まで基本的な衝動を満たすことができたか」ということです。ですから、億万長者が賛嘆される、権力者が褒められる、戦争で勝った人が英雄になる、銅像も作られる。

仏教からは、このような生き方は「自由」に見えません。感情の奴隷になって、理性の一欠片もなく生きている生き方である、と見えるのです。現実的に、人は幸福を感じていないのです。生きるために、死に物狂いで競争しなくてはいけない。やすらぎを感じる余裕はない。笑顔はないのです。ですから仏教では、〈感情(煩悩)という束縛を破ったところで、正真正銘の自由が現れるのだ〉と説くのです。

いちばん酷い束縛

お釈迦さまの時代、田舎にいたある出家比丘のグループが、釈尊に会うべく舎衛城を訪ねました。翌日、彼らは托鉢のため街に出ました。都会には田舎で目に入らないものがたくさんあります。その時、舎衛城ではたくさんの犯罪者が奉行所に連行されていました。

国王が裁判にかけるまで、みなを逮捕しておかなくてはいけない。そこで奉行所の役人は、一部の容疑者をロープで縛り、一部は鎖で縛っておきました。他の一部は木の板で作られたさらし台に架け、または手枷足枷で拘束したのです。田舎から来た比丘たちは、托鉢のついでにその場所を見学しました。そして、人々がさまざまな束縛で結ばれて、自由を失って、惨めに、苦しんで、恐怖感を味わっている姿を目の当たりにしました。人間なのに、いまは動物よりも惨めな状態です。比丘たちは、生存欲・自由・束縛・苦しみということについて、考えさせられました。彼らはお釈迦さまに挨拶が叶ったところで、「人間にとっていちばん酷い束縛は何でしょうか」と訊いてみようと思ったのです。

彼らは、奉行所ではさまざまな束縛を受けた多くの人々が、どれほど惨めに苦しんでいたのかと、お釈迦さまに報告しました。次に、人間にとって断ちがたい一番ひどい束縛は何なのかと、伺ったのです。お釈迦さまは、このように語られたそうです。
「縄で縛られること、鎖で縛られること、さらし台に架けられることなどは、それほど厳しい束縛ではありません。財産や家族に対する執着、渇愛、煩悩こそが、最大の苦しみを招く断ちがたい束縛なのです」と。

最も困難な闘い

この言葉を少々、解釈します。さらし台に架けられて苦しんでいても、誰かに簡単にその束縛を無くすことができます。もし国王が犯罪者に恩赦を与えたならば、束縛はそれで終わりです。束縛を無くす方法は、いたって簡単です。しかし束縛されることは、多大な苦しみであることも事実です。なかでも、感情の奴隷になっていることが、最大の束縛です。悪いことに、当人はそれに気づかないのです。

ひとが気づこうが気づくまいが関係なく、束縛は苦しみを作ります。普通に俗世間で生活をしても、人生は苦しみのどん底なのです。家族がいることで幸せだと思う。それは自分の生存欲から見れば、味方の範疇に入るからです。しかし家族を養わなくてはいけない。家族の機嫌をとってあげなくてはいけない。家族を敵から守らなくてはいけない。一向にひまがないのです。財産がある時、幸せを感じます。それも生存欲の味方だからです。しかし、財産は勝手に入るものではありません。入った財産が他人に盗まれることも、王に没収されることもあります。火事に焼かれることも、洪水に流されることもあります。地震・津波・竜巻などで無くなってしまうこともあります。とにかく、財産を守る苦しみがあるのです。

お釈迦さまは、感情の奴隷として生きている事実に気づかないことを、「無明」と呼びます。「感情という束縛」を断つことが、いちばん難しいのです。巨大な帝国と戦って植民地になった祖国の自由を勝ち取るのは、難しくありません。凶暴な独裁者を倒して自由を獲得するのは、難しくありません。インドのガーンディは、武器を持たず軍隊を作らず、最強のイギリス帝国に攻撃してインドの独立を勝ち取ったのです。しかしそのガーンディにさえ、自分の感情に打ち勝つことはできなかった。偉大なる人とは、自分自身を奴隷にしている感情と闘い、自由を勝ち取った人のことです。

今回のポイント

  • 刑罰は社会から消えません
  • 自由を失うことが最大の苦しみ
  • 自由を奪うことは最大の刑罰
  • 自由の定義は人によって変わります
  • 感情に支配されている限り誰も自由にならない