No.211(2012年9月)
心を打ちのめす時間
執着がなければ苦しみもなし Time totures the mind
経典の言葉
Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章
- Muñca pure muñca pacchato,
Majjhe muñca bhavassa pāragū;
Sabbattha vimuttamānaso,
Na punaṃ jātijaraṃ upehisi.
- 有の辺際を知りし汝 前際を断ち 後際断ち
現際も断ち 心解脱 再び生老(輪廻)を受けざらん - 訳:江原通子
- 未来を捨て 過去を捨て 存在のありさまを知り 現在も捨てる
一切より解放されし者に ふたたび生老の流れはない - 訳:スマナサーラ長老
- (Dhammapada 348)
時間は存在するのか
「時間がある」「時間がない」などのフレーズは、日常よく使います。この場合、時間とはどのような意味でしょうか。時間は、ある・なしで示されるものでしょうか。難しいことを考える必要はないのです。簡単に考えましょう。部屋が汚れている。掃除しなくてはいけない。そこで、「時間があるから掃除します」「時間がないから後回しにします」ということになります。時間がない、という場合は、別にやることがある、という意味です。
時間がある、という場合は、他にやることはない、という意味です。やることがある、やることがない、という現実的な状況を表現するとき、時間という概念を使っているのです。時間という何かが別に存在している、ということではないのです。
「時間は存在しない」と言っても、悪くないと思います。しかし我々の人生は、時間という化け物にひどく痛めつけられているのです。時間は、頭のなかで生まれる観念です。存在しない観念なので、「時間とは妄想概念である」と言っても構わないのです。暑さで困っている、寒くて困っている、病気で困っている、金がなくて困っている、などの考えの場合、話は現実的です。困っている状況をなくせます。金がなくて困っているひとに金をあげれば、問題は解決します。時間がなくて困っているひとに、時間というものはあげられません。それでも「時間をあげます」と言うでしょう。しかし、何もあげていないのです。ここで何が起きているのでしょうか。
あるひとに、何か仕事を頼んでいる。そのひとには、別にやることがあります。ですから、時間がないと言う。それで、そのひとが先にやるべき仕事をやり終えてから、自分が頼んだ仕事をしても構わないと思うのです。その気持ちを「時間をあげます」という言葉で表現します。結局は、時間があるのではなく、「行為がある」ということになります。行為というものは、連続して一個ずつ行なうものであって、同時並行では行えないのです。
この状況を、時間という観念で理解しようとしているのです。妄想概念を駆使して、現実を理解しようとするのです。ひとに電話をかけてみる。そのひとは話し中です。こちらの電話は繋がりません。ツーッツーッという信号が交換器から流れる。それは相手の電話から発信した音ではないのです。しかし交換器は、「いま相手の方に話す時間がないので、繋ぐことはできません」という案内はしないのです。もしかするとこの時だけですよ、人間が「時間」という妄想概念にひっかからないのは。
無常と時間
仏教でありのままの真理として教える項目のなかで、重大な概念は「無常」ということです。宇宙がある、世界がある、生命がいる、宇宙は有辺である・無辺である、などの考えは間違いだと、捨てているのです。存在のことを「無常」という一言にまとめるのです。我々が「ある」と思う一切の現象は、一時的で変化していくのです。或る現象に「ある」と言っても、次の瞬間に、その現象は変わっているのです。「ある」と言うためには、変わらないでいる必要があります。それはあり得ないのです。変わらないでいるものは、ないのです。ですから、「ある」という言葉は正しくないのです。であるならば、「ない」という言葉が正しいでしょうか。正しくないのです。「ない」とは言えないのです。ですから、有でも無でもなく、無常なのです。
すべての現象は止まることなく変化し続けているので、人間の頭のなかで時間という観念が現れてしまったのです。地球は止まることなく回転します。一回転終えたところで、一日と思う。その一回転を時・分・秒などにわけてみる。根拠のない話です。一日とは二十四時間だと言っても、六十時間だと言っても、構わないのです。一時間とは六十分ではなく百分であると、一分は六十秒ではなく百秒であると言っても、構わないのです。時間とは頭で計算するものだから、一日は百時間、一時間は百分、一分は百秒としておけば簡単だったのに。現代世界は、原子時計という機械によって時間管理されているのです。
原子時計は地球の回転に関係のない機械のようです。原子一個であっても、常に変化し続けているのです。その変化が起こる過程で原子が発する振動で、時間を計算する。この話で、時間の本当の姿が観えてきます。時間とは「ある」ものではないのです。ものは変化するのです。その変化を数えるのです。時間は数学以外の何でもありません。
仏教は初めから、時間という概念を捨てたのです。無常という真理にもとづいて、ものごとを観たのです。人々は無常を発見していないのです。それでも、現象が変化することに気づくのです。その変化を時間という妄想概念で数えるのです。
時間はトラブルのもと
それで人間は、存在しない時間という観念が、存在するものだと勘違いしてしまったのです。時間を数える機械をつくってみたのです。その機械が人間を管理するようになったのです。人間は時計という機械の奴隷になったのです。人間の生き方は、時計が決めるのです。朝食・昼食・夕食などは身体の要求に合わせるのではなく、時計に合わせるのです。試験を受けるとき、全問正解する能力があっても、時計が邪魔するのです。時計が決めている時間内に答えなくてはいけないのです。頭がいいのに、試験で落第するひとも、けっこういるのです。日本では抜群に学習能力ある子供たちが現れても、飛び級して大学入学することはできません。小六、中三、高三という十二年も、無駄に過ごさなくてはいけないのです。その子供の脳の無常は、他の子供より早いのです。自分の速さに社会が合わせてくれないから、学校で暴れて、問題児になるしかなくなるのです。
仕事をするときも、家事をやるときも、開発などをするときも、時間が襲ってくるのです。時間がすべて管理しようとするのです。しかし、なまの人間には、機械である時計の命令に忠実に生きることはできないのです。それで精神的な悩み苦しみが生じてくるのです。しかし時計を無視することでも、問題が起きます。勉強が終わってから仕事に就いて働く。仕事が面白くなる。昇格を期待して頑張る。そのひとが女性だとしましょう。明るく生きているからといって、無常からは逃げられません。身体の変化の過程で、ある時期までに結婚しなくてはいけません。子供を産める時期もあるのです。その期間に仕事に没頭していたので、結婚のチャンスも、子供を産むチャンスも、逃してしまうのです。それで困ったり悩んだりするのです。それは時計を無視したことの結果です。学校で勉強より遊ぶことに興味をいだいたら、まともな大人になるチャンスを逃してしまうのです。あとで後悔するのです。このような場合は、時計を無視した結果だと言えるのです。実際は、時間が存在するのではなく、現象が絶えず変化するだけなのです。これらの人々は、変化を無視したのです。無常をないことにしたのです。
不可能にいどむ
時間という妄想概念が現れて、人類の主権を簒奪するようになりました。かなり昔から徐々に進行した出来事なので、この状況が、みな自然だと思っているのです。実在しない時間を信じるが、変化を信じないのです。ですから、歳取ると、老いると、悩むのです。歳は何歳であっても、二十代、三十代の頃の身体で生きていたいのです。病気になると、ひどく狼狽するのです。死を怖がるのです。妄想の産物である時間は認めるが、絶対的な現実である無常を否定しているのです。真理を変えることは不可能です。例えば「地球が丸い」ということは、変えられないのです。人間がこの不可能に挑戦しているのです。成功しないのは当然です。ただ、悩み苦しみが増えるだけです。
この妄想は、さらに拡大します。死にたくはない気持ちがあります。肉体が壊れることは避けられないと知ってはいるが、認めたくはないのです。それで「永遠の命」を考えるのです。何の証拠もないが、命は永遠であると盲信するのです。それに反論されたら困ります。ですから、「肉体が壊れても、壊れない霊魂がある」と弁解するのです。霊魂がある、という証拠もないのです。人間には霊魂があることにしているのです。ついでに、「神」という妄想概念もつくるのです。証拠はないが、神はいるということにするのです。神がいるということの証拠として、「霊魂がある」と言うのです。霊魂があるということの証拠として、「神がいる」ということにするのです。まともな人間ならやることではないが、みな真剣まじめです。
これも、「無常に逆らいたい」という気持ちから起きた現象です。不可能に挑戦しているのです。無駄な努力になることは決まっているのです。問題の発端は、「時間がある」と思った失敗にあります。無常を発見できなかったから、この失敗が起きたのです。ですから無常を発見するひとは、一切の悩み苦しみから解放されます。
過去・現在・未来
時間という妄想概念から生まれた次の観念は、「過去・現在・未来」です。みなそれがあると思っているのです。仏典では、過去・未来・現在という順番にしているのです。それには理由があります。「過去はあった、未来はありえるだろう」という意味です。過去と未来は実在しないのです。現在のみが実在する。観念的なことを先に言って、実際にあることは次に言うのです。ですから仏典の順番は、過去・未来・現在です。しかしこの考えも、真理として説くのではなく、世間の考えを整理しているだけです。なぜならば、「現在はある」と言っても、瞬時に消えてしまうのです。生きている生命がやるべきことはすべて、「現在」行わなくてはいけないのです。過去と未来は蜃気楼のようなものなので、どうすることもできません。
事実はこのとおりですが、一般人には、過去もあり、現在もあり、未来もあり、なのです。ではこの三世について、均等に気にしているのでしょうか。それはほとんどないのです。過去ばかり気にするひともいるし、将来のことにひっかかっているひともいます。過去と将来の両方を気にする人もいます。現在に注意するひとは、なきに等しいのです。あるひとは真剣まじめにこう言います。「私は背中の翼のことで悩んでいる」。またある人は真剣まじめにこう言います。「私は頭の角のことで悩んでいる」。ではこのお二方について、どんなアドバイスをすればいいのでしょうか。みなさまなら簡単に、「頭がおかしい」と言うかもしれません。では質問します。「私は過去のことで悩んでいます」「私は将来のことで悩んでいます」このように訴えるひとに、どう答えればよいのでしょうか。人間の翼のように、人間の角のように、過去も未来も存在しないのです。過去はあったでしょう。いま、ないのです。未来はもしかするとありえるでしょう。それもわからないのです。しかし、いまはないのです。人間には立ち直ることが不可能なほど、悩み苦しみがあるのです。観察してみてください。その悩み苦しみは、過去か未来の悩みなのです。妄想の結果なのです。欲・怒り・嫉妬・落ち込み・後悔・怨み・無知などの大量の悪感情が、過去に対して未来に対して生まれて、現在のひとの心を痛めつけているのです。過去と未来は妄想ですが、悩み苦しみと悪感情は現実です。
現在も問題です
ひとが現在を気にして生活するならば、問題は消えるのでしょうか。消えません。現在においても、執着が生まれるのです。いま食べるご飯に、いま聴いている音楽に、執着が生まれるのです。いま話している相手に対して、怒りがこみあげてくるのです。いま起きている出来事について、よく理解できなくて無知が生じるのです。ひとが過去と未来を忘れようとして生活するならば、すごく明るくて活発な人間になることは確かです。しかし、心に欲・怒り・無知などの感情が起きて、悩み苦しむことからは抜けられません。現在とは瞬時に消えるものなので、欲を抱くことにも、怒りをかきたてることにも、無知で落ち込むことにも、値しないのです。瞬間瞬間起きる出来事についても、「気にしない、執着しない、囚われない」という態度をとれるように、妄想や観念から脱出する訓練をしたほうがよいのです。結果は解脱です。お釈迦さまはものごとのありさまを知って、「先(未来)を捨てなさい。後(過去)を捨てなさい。現在も捨てなさい」と説くのです。そうするひとは、ふたたび生老病死の苦しみに悩まされないのです。
今回のポイント
- 時間とは観念です
- 変化を計るために時間という観念を作ったのです
- 過去と将来は実在しないのです
- 現在も瞬間の命です
- 時間に囚われることで輪廻転生になります