No.212(2012年10月)
妄想はなぜ悪いの?
思考・妄想は煩悩の産物 Free thinking is not possible
経典の言葉
Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章
- Vitakkamathitassa jantuno
Tibbarāgassa subhānupassino
Bhiyyo tanhā pavaddhati
Esa kho dalhaṃ karoti bandhanaṃ - Vitakkūpasame ca yo rato
Asubhaṃ bhāvayate sadā sato
Esa kho byanti kāhiti
Esa checchati mārabandhanam.
尋 に乱され貪強く 貪を淨しとみる人は
愛欲更に増大し その結縛 を更に増す- 尋の寂止を悦びて 不淨観をばよくつとめ
常に念 をば保つ人 魔神の縛 断ち切らん - 訳:江原通子
- 貪欲に支配され、思考に乱れ 世を美化して観る人に
渇愛は増大し 執着は強化される - もっぱら思考を制御して 常に気づき
「美のものならず」と思う
彼は渇愛を滅して 死王の束縛を断ち切る - 訳:スマナサーラ長老
- (Dhammapada 349,350)
「思考と妄想を停止するように努力してください」と、ヴィパッサナー実践方法を説明するとき、私は強調して言っています。これは皆様がよくご存知だと思います。他方では、「ヴィパッサナー冥想とは思考を止める冥想ではない」と言われているようです。「思考が現れたら気づくことであって、止めることではない」と説明しているようです。実践する人々には、思考・妄想を止めるべきか? そのまま放っておくべきか? という疑問が生じます。「思考・妄想を止める方法は、思考・妄想が現れたら直ちに気づくことである」というのが私の説明です。思考を止める方法は、たったひとつ、気づくことです。ですから、これは表現の違いに過ぎません。異論が成り立っているとは思わないのです。人間にとって、思考・妄想には問題があるはずです。
思考の停止できますか
?
これは難しい問題です。イエスとも言えないし、ノーとも言えないのです。生命には眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官があります。そちらに色声香味触法というデータが触れて、認識するのです。意の仕事は、考えることです。生命を構成している六つの機能組織の一つを止めるべきというと、それは不自然です。不可能なことです。例えば、「眼があるのは構わないが、何も見るなよ」というような話になります。意という感覚器官があることも、それが普通に働いていることも、問題ではありません。ですから、答えはこうなります。思考を止めることは、不可能と言えるほど難しいのです。「では、止められませんか?」と訊かれれば、「止められます」と答えなくてはいけない。
思考を止めるためには、高度な修行経験が必要です。高度な集中力が必要です。思考する必要がないといえるほど、智慧が完成しなくてはいけない。心は清らかでなくてはいけない。お釈迦さまと大阿羅漢たちは、時々、滅尽定という統一状態に入るのです。このサマーディに入っている間、聖者たちの心は停止しているのです。これが正しく思考を止めたことです。要するに、思考を止めるために解脱の経験が必要なのです。覚者にしかできないことに一般人が挑戦すると、一般人の俗世間的な心が徐々に超越して、解脱の境地に達するのです。
思考とは捏造
眼耳鼻舌身意 に入る情報を、そのまま認識することはしないのです。一瞬だけそのまま認識するが、あっという間に概念をつくるのです。一つゲームがあります。大きな板壁に、幅三十センチの四角い穴を開けます。縦の長さは関係ないのです。板の向こうにひとがいて、穴を横切って投げるために、様々なものを用意します。何が用意されているか知らないひとが、板壁の手前側に座ります。そのひとは、投げられたものは何かと当てなくてはいけないのです。ものがスピーディに投げられると、当てることは難しいのです。もしスピードの管理ができる機械でものを投げたならば、どの程度のスピードで投げれば正しく当てられるかと、知ることができます。当然、このスピードには個人差があります。
かなり速く投げても正解を言える人がいる一方で、ゆっくり投げないとわからない人もいるのです。
このゲームを仏教的に解釈します。穴を横切るものは誰にでも見えます。それは見えただけです。ものの名前を当てるためには、頭のなかでイメージを組み立てなくてはいけない、概念をつくらなくてはいけないのです。概念をつくることは、見てからする仕事です。ですから誰にでも、まずはそのまま、見えたり消えたりはするのです。しかしデータが触れて百分の一秒ていどの時間で、概念ができあがっているのです。
概念とは、それぞれのひとの主観です。現実ではないのです。何人かが同じものを見たり聴いたりしても、何を感じるのかはそれぞれのひとの勝手で、主観なのです。見るもの聴くもの嗅ぐものなどは、その生命の都合に合わせて概念にするのです。ゴキブリを見る人間は、「気持ち悪い」という概念をつくるし、猫は「獲物だ」という概念をつくるでしょう。それぞれの都合です。思考するとは、捏造した概念をまた主観的にかき回すことです。思考すればするほど、現実・真理を発見するのではなく、捏造が膨張するのです。
思考と感情
六根に入るデータをそのままにしないで、現象を組み立てる。概念をつくるのです。それは自分の都合にあわせて行うので、捏造になるのです。自分の都合とは、存在欲(渇愛)です。ネズミの死骸を見る人間は、気持ち悪いと感じます(怒り)。カラスは、ご馳走だと思うでしょう(欲)。両方とも、存在欲があったから、そう思ったのです。ネズミの死骸は、人間の命を支える味方ではありません。敵です。カラスの場合は、命を支える味方です。感覚器官にバラバラに入るデータをまとめて、一個の概念にするのは感情です。感情はバラバラのデータを一個につなげる接着剤です。感情は仏教用語で「煩悩」です。概念と感情は、分離できない関係なのです。思考する・妄想するとは概念のかき回しですが、同時に、煩悩のかき回しにもなるのです。思考・妄想を認めることは、煩悩を認めることになります。心の汚れを正当化することです。当然、解脱の道と正反対なのです。
思考と妄想の違い
感情を割りこませずに考えることもできます。そのときは「思考」です。たとえば数学の問題を解くときです。そのときは感情で考えるのではなく、数学理論にあわせて考えているのです。純粋思考は難しいのです。どうしても感情が割り込むのです。数学の問題を解くときでも、感情が割り込んできます。それでスピードが遅くなるのです。大雨が降っているとき、傘をさして歩く。身体が濡れないためです。しかし、それは難しいのです。
目的地にたどり着くと、身体がけっこう濡れているのです。感情を割り込ませないで思考することも同じです。教授が学生に講義をするときは、思考でできます。しかし感情が割り込まないという保証はありません。感情が割り込んだら、思考がうまく行かなかったり、結論に達するのが遅くなったり、間違った結論になったりするのです。
客観的な事実に関係なく、感情の衝動だけで概念をかき回すことが「妄想」です。過去に起きた出来事を頭の中で回転させたり推測的に概念をかき回したりすることも、「あのひとは私のことが嫌いなのだ」「私は何をやってもうまく行かないのだ」などなどの感情が引き起こす考えも、妄想です。妄想には終わりがないのです。結論はないのです。何かの判断もないのです。ただ感情をかき回して、能力を破壊するだけです。精神病のおおもとです。いったん癖になったら、依存するはめになります。妄想がやめられなくなるのです。
妄想は断言的に悪いことです。思考の場合は、内容によって善い思考も悪い思考もあるのです。
思考にも必ず感情が割り込みます。妄想は感情がつくりだす危険な働きです。一時間以内で人間が考える量の九割くらいは、妄想になっているのです。心を清らかにして、智慧を開発しようと思うならば、思考も妄想もやめることに挑戦するしかないのです。まず妄想をやめて、それから思考もやめることに挑戦するのは構いません。しかし思考に未練があるならば、うまく行かないのです。
思考にも問題がある
思考には問題ないと、決して思ってはならないのです。感情が割り込まなくても、思考に問題があります。概念をつくった時点で、捏造しているのです。捏造とは、事実をねじ曲げて自分の都合に合わせて理解したことです。それは渇愛の働きです。思考するとは、ねじ曲げた概念を回転させることです。その裏で渇愛が繁栄するのです。思想家たちは、いろいろな主義や論をつくるのです。資本主義、共産主義、唯物論、一神論、創造論、多神論、生命主義、実存主義、現象論、ポストモダニズム、構造主義、精神分析論などなどたくさんあります。しかし、誰にも「結論」はないのです。それは思考が捏造した概念でやっていることだからです。論や主義をつくると、渇愛がさらに強くなります。自分の主義にも強く執着します。というわけで、思考にはおおいに問題があります。甘くみないほうがよいのです。仏教を実践する者は、思考も妄想もひとまとめにして、停止しようと挑戦するのです。
Vitakka・尋
経典は、思考と妄想を明確に分ける用語は使わないのです。Vitakka というと、思考も妄想も両方入ります。意門が働いていることがvitakka です。要するに考えていることです。主観的に好き勝手に、意で概念をつくることはmaññanā(思惟,思量)といううのです。
Maññanā では、一貫性は成り立ちません。ひとりが思索して、「人間には道徳はいらない」というmaññanā をつくると、別なひとは「道徳は欠かせない」というmaññanā をするのです。若いときは「神は存在しない」というmaññanā のひとが、歳とって「神が存在する」というmaññanā に変わることもあり得ます。感覚器官に入るデータを「渇愛」という主観にもとづいて現象化することは、捏造することです。捏造は、経典でpapañcā と言われます。必ず渇愛が割り込んでいる概念なのです。
思考の修行
認識することは生きることです。思考は六種類の認識のなかの一つです。思考をカットしなさいという戒めは成り立ちません。生きているひとに、できることもできないこともあります。「肉・魚を食べることをやめました」「酒もタバコもやめました」。これは、できることです。食事を摂ることをやめました、という話は成り立たないのです。思考も同じです。ですから、思考をやめるために挑戦するのです。心が世間の次元を破って、出世間の次元に達することができれば、思考はいらなくなります。言葉は微妙です。気をつけてください。思考はいらなくなったのであって、止めた・やめた、という言葉ではないのです。「いらないなら、やる必要はないでしょう」ということは言えます。
思考の修行として、お釈迦様は「悪思考をやめること」を推薦します。要するに、思考の選択です。悪思考は三種類です。Kāma vitakka(愛欲思考),vihimsā vitakka(攻撃思考),vyāpāda vitakka(怒り思考)です。冥想実践しないときは、思考しても妄想しても構わないが、この三種類の思考・妄想をやめてみるのです。次に、行なうべき思考を選ぶのです。
行なうべき思考などあり得ないのですが、生きているものは当然、思考するので、このように選ぶのです。善思考は三種類です。Nekkhamma vitakka(無執着に関わる思考), avihimsā vitakka(あわれみの思考),avyāpāda vitakka(慈しみの思考)です。この三種類の思考をすれば、煩悩の接着力が弱くなっていくのです。
感情が主人になる
ひとの人生を管理する主人が、感情になってしまう恐れがおおいにあります。精神病を患って、自己破壊に追い込まれるのです。例えば、性欲が湧き上がったとしましょう。それから、性欲が妄想させたりするのです。考えるときも、性欲が思考させるのです。愛欲の対象になったひとが、世界一完璧なひとに見えてしまうのです。この上なく美しい、理想的な存在に見えてしまうのです。ふつうの欲に支配されたら、世を何でも美しく見てしまうのです。それで渇愛が強烈に増大するのです。解脱の可能性も消えてしまうのです。
存在に対する執着は、断ち切れないものになるのです。
この病気に陥らないために、お釈迦様は「思考を極力控えること」を推薦するのです。
欲が支配権を握らないようにするための安全対策は、「ものの見方」を変えることです。欲があると、あのひとは美しい、声がきれい、笑うとかわいい、癒される、などの見方で観察するのです。足、腰、顔、髪の毛、服装、歩き方、座り方、食べ方、などなど何でも美化するのです。この見方を変えて、欲の対象になるものの裏も観る。美人に見えても、汗をかくと体臭がある、口臭もある、などなどの本物の姿も観る。これは、仏教用語で「不浄観」というものです。不浄観の訓練をすれば、欲が心を支配しないのです。慈しみの見方で生きているならば、怒りが心を支配しないのです。無常の見方で生きているならば、無知が心を支配しないのです。
このように見方を変えることで、執着を断って、解脱に達することができるのです
今回のポイント
- 思考とは概念をかき回すこと
- 概念とは真理ではなく捏造したもの
- 概念と感情が癒着する
- 思考・妄想するとは、煩悩をかき回すこと
- 思考の選択ができる
- 感情に心を支配されてはならない