No.214(2012年12月)
なぜ唯我独尊?
一切智者の意味 Absolute personality
経典の言葉
Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章
- Sabbābhibhū sabbavidūhamasmi
Sabbesu dhammesu anūpalitto
Sabbañjaho tanhakkhaye vimutto
Sayaṃ abhiññāya kamuddiseyyaṃ
- 一切勝利者一切知 一切諸法に穢されず
自ら証知 一切捨 滅尽渇愛解脱せし
我は誰をか師とはせん - 訳:江原通子
- (Dhammapada 353)
ある日、お釈迦様は次のような獅子吼(大胆な勝利宣言)を発せられました。
「私はすべてのものに打ち勝ちました。すべてのことを知りました。すべてのものごとにおいて(心が)汚れない。すべてを捨てたのです。渇愛を滅尽して、解脱に達しました。
自らの力で覚ったので、誰を師匠として仰ぐべきでしょうか?」
突然この言葉を読んでも、どういう意味かと分からなくなりますね。
ウパカの問い
この偈に関するエピソードがあります。ウパカという名前の遊行者がいました。行者まがいの生き方をしていたけれど、それほど真面目な人ではなかったのです。彼はかなり悩んで落ち込んでいる状態で、道を歩いていたのです。
それは、お釈迦様が覚りをひらいてから二ヶ月弱くらい経った頃でした。まだ誰にも、真理を説き明かしたことはなかったのです。お釈迦様は自分から離れていった元の修行仲間、五人の比丘たちに最初に真理を説き明かす目的で、ワーラーナシー(ベナレス)に向かって歩いているところでした。お釈迦様の姿を見たウパカ遊行者は、びっくりしました。悩みに明け暮れている自分とは、あまりに対照的でしたから。彼はお釈迦様に尋ねました。
「あなたはとても明るく落ち着いています。皮膚の色も汚れなく美しい。あなたは誰のもとで出家したのでしょうか? あなたの師匠は誰ですか? 誰の教えを好んでいるのでしょうか?」
覚りに達するとは、なすべきは一切なし終えたことです。「これ以上、やるべきことはない」ということです。ですから、覚者は絶対的に落ち着いているのです。これは人間のなかでは決してあり得ないことです。ですから、覚者の落ち着いた姿には誰でも惹かれるのです。ウパカは、「自分もこのようになりたい」と思ったことでしょう。ですから、「師匠は誰ですか?」と尋ねたのです。
?唯我独尊?的な言葉
先に引用した偈は、この質問に対するお釈迦様の答えなのです。しかしその言葉は、あまりにも大胆です。ふつうなら人間が語らない口調です。笑われたり、疑われたりするに決まっている言葉です。理性のある人々から、攻撃を受ける言葉です。
聖書と呼ばれるたぐいの文書のなかにも、「我は絶対的、唯一の神である」という言葉が見当たります。もし唯一の神が語る言葉であるならば、大胆に語っても構わないと思いますが、しかし問題があります。聖書の神は、「我は唯一の神である」と発表してから、次の文書で、「他の神々を信じるなかれ」と命令するのです。これは弱音を吐く言葉です。それから、他の神々を信じる人々を脅すのです。「われは嫉妬の神である」と明確にいうのです。唯一な神であると言い張っているのに、他の神々を信仰する人々とその神々に対して、嫉妬を抱くならば、「唯一の神は決して唯一ではない」という証拠になります。乱暴で情けない性格の持ち主という証拠にもなります。大胆な言葉を語ろうと思った聖書のたぐいの努力は、その場で無駄になったようです。単純に言えば、脅しの言葉以外の何でもありません。
お釈迦様の断言的な言葉には、以上のような失敗はありません。脅しの言葉は皆無なのです。人間はいとも簡単に「唯我独尊」的な言葉を語れます。私は世界一美人だ、私は世界一美男だ、私は世界一知識人だ、などなどです。しかし、自分が言っている言葉を立証しなければ、ただのうわごとに過ぎません。お釈迦様はご自分が語る言葉を立証するのです。しかし上で述べたお釈迦様の発言は、ウパカ遊行者には理解されなかったのです。当然です。師匠なしに修行することなど、当時は考えられないことでしたから。
ブッダは証拠を示す
ではお釈迦様の言葉を、単語ひとつずつ取り上げて解説します。
質問は、「あなたの師匠は誰ですか? 誰の教えを好んでいる(実践している)のでしょうか?」です。
お釈迦様の答えは、「私は誰を師匠として仰ぐべきでしょうか?」でした。それは、師匠はいません、という意味です。お釈迦様とウパカの対話の続きがあります。続きの偈では、「自分に師匠はいません」と明確に語るのです。今月は一偈だけの解説にします。
お釈迦様はまず証拠を示してから、結論を下すのです。
すべてのものに打ち勝った
証拠1:sabbābhibhū すべてのものに打ち勝ちました、という意味です。
完全な勝利者なのです。Sabba とは「一切」という意味です。「一切に打ち勝つ」とは、理解できない表現になります。世界を制覇したか、宇宙全体を制覇したか、というと疑問ですね。当然、これはあり得ない。お釈迦様は誰とも闘っていないのです。
ここで問題になるのは、sabba・一切という言葉です。お釈迦様は抽象的な言葉を使わないのです。具体的に語るのです。理解できない言葉を使う場合は、その言葉の意味をまず定義します。Sabba・一切という言葉の定義は、経典にあります。Sabba とは、一切の生命のことです。生命といっても抽象的です。ですから、このように定義します、五蘊はsabba です。五蘊とは、生命を構成する色受想行識という五つのことです。
別な定義もあります。生命とは、眼耳鼻舌身意という感覚機能があることです。生きるとは、この六つの感覚器官で色声香味触法をいう六種類の対象を認識することです。六つの対象が六つの感覚器官に触れると、六種類の感覚が生じるのです。感覚は楽・苦・不苦不楽という三つに分けられますので、18種類の感覚が起こるのです。その感覚に対して、生命は渇愛を抱くのです。渇愛は、五欲、存在欲、破壊欲の三種類です。貪瞋痴として理解しても、千五百の煩悩として理解しても構わないのです。私が日本語で仏教を語る場合は、煩悩を「感情」という言葉に変えています。それは理解しやすいからです。
いかなる生命も、つねに感情に負けているのです。自分の自由に生きているのではなく、感情の思うがままに生きているのです。感情の奴隷なのです。感情に束縛されているのです。お釈迦様の闘いは、ここで起きたのです。一切の感情に打ち勝ったのです。
もはや感情の奴隷ではありません。色声香味触法に操られることは、もうないのです。
Abhibhū とは、勝利を得たことです。感情と闘って、勝利を得たのです。これはいままで、誰にもできなかったことなのです。
すべてのことを知った
証拠2:sabbavidūhamasmi すべてのことを知りました、という意味です。すべてとは生命のことなので、生命とは何かと、生きるとは何かと、知り尽くしたことを意味します。これは他宗教で「全知全能」というような、神秘的・形而上学的な意味ではないのです。「一切智者」という言葉がお釈迦様に使われますが、一切とは「一切の生命」のことなのです。お釈迦様と同時代にいたジャイナ教の開祖様も、自分が一切智者だと自称していたのです。しかし彼は、一般人が考える意味でその言葉を使っていました。「起きていても寝ていても歩いていても、常に自分は一切のことを知っているのだ」と吹聴していたのです。「鏡にものが映るように」という例えまで使っていたのです。
お釈迦様は、「それはあり得ません」という立場でした。簡単な言葉で茶化したのです。
「常に何でも知っている人なのに、なぜ旅をする時、道に迷うのでしょうか? なぜ人に道を尋ねるのでしょうか? なぜ人々の名前などを訊くのですか?」と。知識とは、勝手に心に現れるものではありません。集中しないと起こらないのです。お釈迦様は、「◯◯を知りたいと思えば、知ることができます」と説くのです。お釈迦様は生命のことだけではなく、宇宙のことも知っていたようです。それも観察した結果であって、自動的に心に飛び込んだ知識ではないのです。「宇宙のこと」はどこまでも考えてもキリがない、また苦しんで生きている人間の役に立たないので、考えてはいけない項目のひとつに挙げられているのです。
お釈迦様が全知者であると自称する時は、「生命のことなら一切知り尽くしているのだ」という意味になります。決して神秘的でも、形而上学的でもないのです。経典を読んでみると、お釈迦様が生命のことを知り尽くしていたのだ、ということは簡単に理解できるのです。
心が決して汚れない
証拠3:sabbesu dhammesu anūpalitto すべてのものごとにおいて(心が)汚れない。
この場合は、sabba はdhamma の形容詞です。ですから、簡単に「一切」という意味です。ここで解釈が必要なのは、dhamma という言葉です。Dhamma は「法」とも「真理」とも訳しますので、誤解しやすい単語でもあります。文脈に沿って訳さなくてはならないのです。この場合は、「すべてのものごと」「すべての現象」という意味です。一般的に「ありとあらゆるもの」という意味でも結構です。ありとあらゆるものに対して、お釈迦様の心は汚れないのです。何か出来事が起きたら、一般人の心は動揺するのです。お釈迦様の心は、安穏に達しているのです。動揺させるのは不可能です。心が動揺する理由は煩悩です。例えば、我が子が病気で倒れたら、親は激しく動揺するのです。それは、我が子に対して愛着があるからです。敵・ライバルが負けたら、楽しくなります。これも動揺です。敵・ライバルに対して、怒りという煩悩があるからです。
お釈迦様は煩悩を滅尽したので、心は動揺不可能な安穏の境地に達したという現実を、ここで表現しているのです。
すべての執着を捨てた
証拠4:sabbañjaho すべてを捨てた、という意味です。
持ち物を捨てた、ゴミを捨てた、という意味でないことは言うまでもありません、sabba を「生命である」という定義に沿って解釈すると、またおかしな意味になります。すべての生命を捨てた、という意味になるからです。ですから、「すべてのものごとに対する執着を捨てた」という意味に理解するのです。Sabba・一切とは、生命であり、生きることでもあります。生命は渇愛があるから輪廻転生するのです。輪廻五道(地獄・畜生・餓鬼・人・天)を限りなく転生しているのです。執着を捨てることで、存在欲も無くなるのです。お釈迦様には輪廻転生することが無いのです。これが「一切を捨てた」という意味です。
解脱に達した
証拠5:tanhakkhaye vimutto 渇愛を滅尽して解脱に達した、という意味です。
ウパカ遊行者に答えていくときは、sabba 一切という言葉に重点を置いたのです。ウパカ行者がsabba とは何のことかと訊かなかったので、定義しなかったのです。ですから、ウパカ行者もsabba・一切を抽象的な意味で理解したかもしれません。この問題を解決するために、心理学的でより具体的な単語を、次に使っているのです。渇愛を滅尽しました。渇愛という単語自体は、一般的にも使われるのです。ですから、何となく理解できるでしょう。しかし、心に渇愛があるからこそ、苦しみが限りなく続くのだという真理と、渇愛は三種類である、という真理を発見したのは、お釈迦様だけです。渇愛を滅尽したら、輪廻転生が終焉を迎えるのです。渇愛を滅尽することは、解脱とも言うのです。
真理を師匠にして生きる
お釈迦様が示された五つの証拠は、自分ひとりの力で、自分ひとりの努力で、達せられたものです。指導・アドバイスできる人は、ひとりもいなかったのです。超越道といえる中道・八正道はお釈迦様の発見です。したがって、お釈迦様には仰ぐべき師匠は存在しないのです。これはお釈迦様の傲慢な言葉ではないのです。師匠として仰ぐべき人なしに、この世で生きることは難しいと、よく知っていたのです。しかし残念ながら、お釈迦様には師匠というべき人はいなかったのです。それで自分が発見した真理を師匠のようにして、これからの活動をしますと決めたのです。
ブッダはありのままを語る
自我の一欠片も無いお釈迦様の「唯我独尊」的な言葉は、自我を張っているわけでも、他人を脅しているわけでも、皆の開祖さまになりたくて、PRしているわけでもないのです。ただありのままの状況を、そのまま語っているだけです。それでも、なぜお釈迦様は唯我独尊的な言葉を堂々と語るのでしょうか。お釈迦様はいつでも、対話形式で他人を諭しているのではないでしょうか。それには意味があります。お釈迦様のことを信じて欲しかったのです。信じるに完全に値する人格者は、ただひとり、お釈迦さまだけです。お釈迦さまを信頼することで、誰にでも心を清らかにすることができるのです。煩悩を断つことができるのです。苦しみを乗り越えることができるのです。解脱に達するのです。
今回のポイント
- 涅槃は悲観的に感じる恐れがあります。
- 仏典はポジティブな言葉で涅槃を表現します。
- 解脱者の心は絶対的に安穏です。
- 妄想どころか思考すら必要がないのです。
- 解脱者とは完全智者です。