No.217(2013年3月)
与えるという行為
施しは修行の一部 Giving energizes the mind.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXIIII TANHĀ VAGGA
第24章 渇愛の章
- Tinadosāni khettāni
Rāgadosā ayaṃ pajā
Tasmā hi vītarāgesu
Dinnaṃ hoti mahapphalaṃ - Tinadosāni khettāni
Dosadosā ayaṃ pajā
Tasmā hi vītadosesu
Dinnaṃ hoti mahapphalaṃ - Tinadosāni khettāni
Mohadosā ayaṃ pajā
Tasmā hi vītamohesu
Dinnaṃ hoti mahapphalaṃ - Tinadosāni khettāni
Icchādosā ayaṃ pajā
Tasmā hi vigaticchesu
Dinnaṃ hoti mahapphalaṃ
- 田草によりて田は穢れ 人
貪 りにけがさるる
貪りはなれし人への施 大いなる果に報わるる - 田草によりて田は穢れ 人は
瞋 りにけがさるる
瞋りはなれし人への施 大いなる果に報わるる - 田草によりて田は穢れ 人は
痴 にけがさるる
痴はなれし人への施 大いなる果に報わるる - 田草によりて田は穢れ 人 欲求にけがさるる
欲求はなれし人への施 大いなる果に報わるる - 訳:江原通子
- (Dhammapada 356-359)
施しと仏教
施しに対する、仏教の立場は如何なるものでしょうか? 現代仏教では、「施しこそ仏教の修行」だと言えるくらい、宗教活動が施し中心になっているのです。仏教徒たちに施しを促すために、あれやこれやと色々工夫しています。現世利益、商売繁盛、家庭円満、学業成就、無病息災、先祖供養、悪霊退散、死後成仏、その他のどんな希望でも、叶える道は施しになっているようです。人間のすべての問題に対する唯一の解決策は施しでしょうか? 施しは万能薬でしょうか? これはお釈迦様の元の教えでしょうか? 色々疑問が起こります。
お釈迦様が施しを推薦していなかったならば、後世の仏教者たちが、お釈迦様を盾にして施しばかり賛嘆することは難しくなるのです。お釈迦様は、施しを推薦されています。仏典には施しについて、大量のデータがあります。しかしここでは、あまり語られないポイントを取り上げてみます。
世の中にある他の宗教でも、施しは欠かせない行になっています。施しを否定する宗教はありません。サウジアラビアとバハレーンでは、ザカートというイスラム教の施しを法律で義務づけているのです。皆、税金を払うように、ザカートを払わなくてはいけないのです。ふつうのイスラム教では、年収の2.5%をザカートとして施さなくてはいけないのです。キリスト教徒たちも、大々的なスケールで施しを行いますが、法律的な義務づけは無いのです。しかし教会という組織と宣教師たちは、大量の献金集めを上手にやっているのです。
施しの大義名分
簡単な理由です。「貧しい人々・苦しんでいる人々を憐れんで助けてあげなくてはいけない」ということです。また、「神は無量の恵みを与えてくださるので、恵まれている自分には、恵まれていない人々にも恵みを与える義務がある」というふうにも言われます。成り立たない理論です。神は一部の人々に大々的に恵みを与えて、一部の人々を貧困・病弱などのどん底に陥れるようです。神が何らかの意図で貧乏にさせた人々を助けていいのか、悪いのか、分かりません。神の意に反するか適っているか、神を冒涜することになるのか賛嘆することになるのかは、明確ではないのです。もし貧困の人々を助けて幸福にしてあげることを神が期待しているならば、最初から神がそうした方がよいのです。
ヒンドゥー教の施しには、歴史があります。最初は自分たちの幸福を願って、神々に供養儀式という形で施しをしたのです。当然、供養する品物の価値によって、神が与えてくれる恵みにも差がつくのです。さらに、供養儀式はバラモン・カーストの人々が行わないと効果が無いとされたのです。バラモン教に反対する諸宗教の人々は、それを批判したのです。なんだか、神々のサービスも有料、みたいな話です。思想が発展すると同時に、神の格が上がりました。全知全能になったのです。人間からは何も要らなくなったのです。しかし、施しは中止にならなかったのです。それから、バラモン教に反対する宗教家たちの思想・哲学が、バラモン教に取り入れられました。業と輪廻のアイデアが導入されたのです。輪廻転生する生命には、業というエネルギーが必要になるので、施しは幸福に輪廻転生するための業ということになったのです。それなら個人で施しを行えますが、ヒンドゥー教は今もバラモン人の関与が必要であるとしているのです。
出家と施し
インドのバラモン教の宗教家の間で、出家という習慣が現れたのです。施しのような行よりも、精神的な改革こそが修行であると、一般的に思っていたのです。出家とは、経済活動して生計を営む生き方から離れることです。宗教によって、出家の生き方が変わります。一部は山に隠れて、山にある果物などで生きていたのです。一部は村のはずれに住むようにしました。その行者たちが、生計を営むことが問題になったのです。畑があっても、それも人のものだから、果物や野菜を取れないのです。取ってはいけないのです。それで、在家生活する人々から、施しを受けるようになったのです。在家の人々も、修行者たちが真剣に精神改革に励んでいたので、喜んで施しをしました。徐々に、修行者たちに施しをすることも、日常在家生活の中の一部になってしまったのです。
ひとの恵みをいただいて、仕事もしないで楽に生きる目的で出家するのは、当然、詐欺行為です。そのような人々も、一応インド社会に現れたのです。お釈迦様も出家です。お釈迦様の弟子たちも出家したのです。ですから命をつなぐため、在家の施しに頼らなくてはいけなくなったのです。在家の施しがあったからこそ、仏教は今まで健在なのです。在家の施しは、仏教に命を与えているのではなく、修行者たちの命をつないでいるのです。施しが無くなると、出家組織も自然に消えてしまうのです。というわけで、仏教においても、施しは大事な行なのです。
施しとモラル
お釈迦様は施しを受ける出家に対して、精密にモラルを設定してあります。まず、施しを目当てに仏教で出家するならば、「偸盗生活」だと言われています。真面目に修行をしても、まだ解脱に達していない場合は、施しで生活することは「債務生活」だと言うのです。解脱に達することで、すべての債務は返済になります。債務生活が負担にならないように、自分の修行に加えて、日夜、一切の生命に対して慈しみの念を抱かなくてはいけないのです。お釈迦様のこのような決まりを念頭に置いておくと、出家生活が堕落することは無いのです。布施が社会問題になることも無いのです。
布施を促すことは、戒律で禁止です。布施をいただく目的で、在家に自分の精神状態を表すことも戒律で禁止です。修行するふりをしたり、人々に好まれることを狙って行儀作法を繕ったりして布施を受けることは、糞を食べているような生き方であると、断言的に非難されています。説法師は施しを受けやすいのです。もし施しを目当てに説法するならば、太鼓持ちだと言われているのです。施しによって修行者のこころが汚れないようにするために、お釈迦様も苦労なさったのです。世の中の財産、名誉、施しなどのすべてをまとめて、糞に喩えているのです。私に財産があると威張ることは、フンコロガシが「私の糞の玉のほうが、お前の糞の玉より大きい」と言うのと似ているのだとも、説かれているのです。お釈迦様の立場から見れば、世の中の財産・名誉・権力自慢は、糞の大きさ自慢以外の何でもありません。
施しとこころ
在家の施しのおかげで仏教が生き続けたことは、明白な事実です。施し無しには、仏教活動は成り立たないのです。しかし「仏教のために施しをしなさい」とは、一文も言われていないのです。これは大事なポイントです。施しは、こころの汚れを無くすための最初の行です。仏教の場合は、修行者だけではなく、施しを行う在家も修行しているのです。施しを行うことで、こころが徐々に清らかになるのです。
儲けたいという欲が無ければ、農業、工業、商売などの経済活動はやりづらいのです。家族に対する愛着が無ければ、家族を養うために苦労を惜しまず仕事することは難しいのです。ライバルに対して、怒りが湧いてくるのです。借金を返してもらえないと、怒りが湧いてくるのです。損すると、悲しみに陥るのです。これが在家生活です。こころは汚れる一方です。汗水を垂らして得た収入は、当然、自分のものです。その収入に対して、自分が何をやっても、それは自分の勝手です。自由です。当然、人は収入を自分のために、家族のために、ライバルを倒すために使いたいものです。ということは、収入を使う時も、こころが汚れるのです。
そこで仏教徒の在家が、出家修行者に施しをするのです。自分のために使うはずであったのに、他人のために使ったのです。その行為によって、欲が減るのです。修行者に対して、慈しみの気持ちがあるからこそ、施しをしたのです。自分が嫌いな宗教の修行者より、自分が応援したい宗教の修行者に施しするのは普通です。ですから施しをする時は、怒りも減るのです。施しによって、人のこころの欲と怒りという汚れが減って、いくらか清らかになるのです。これが在家の修行です。他宗教で言われるように、神の命令に従うことではないのです。義務づけることも不可能です。義務づけしたならば、嫌であっても施しを行わなくてはいけません。こころがきれいになるどころか、さらに汚れてしまうのです。施しをする人が、財産に対する自分の愛着を実感して、その愛着を放棄することを念じて、施しをしなくてはいけないのです。
無知と施し
理性に基づいて、よく理解した上で施しを行うならば、無知も減るのです。習慣的な施しでは、減るのは欲と怒りだけです。ですからお釈迦様が施しについて語る時は、
誰に(どのように)施しをすれば大果になるのかと、理性に基づいて判断して施しをするべきである。理性に基づいて施しする人は、天界に生まれる。
(Viceyya dānaṃ dātabbaṃ, yattha dinnaṃ mahapphalaṃ;
Viceyya dānaṃ datvāna, saggaṃ gacchanti dāyakā)餓鬼事329偈
と説かれるのです。無知も減って施しが大果になるためには、特別な努力が必要、ということです。
大果の施し
こころを清らかにした聖者たちに行う施しが大果の第一です。他の施しよりは勝る行為です。施しを受ける側のこころの清らかさに応じて、施しの結果も変わるのです。しかし人のこころの中身は読めないものです。それには安全対策があります。施しを受けた方々の生き方を見てみるのです。聖者は施しを受けて、たくさんの人々にこころ清らかにする道を教えるのです。悪行為を止めさせて、善を行わせるのです。解脱へ導くのです。世に仏教の教えがあるから、世の人々に正しく生きる道を理解できるのです。これは人類にとって、最大の貢献です。
受ける相手を選ぶことより、自分のこころを清らかにすることを目指して施しをするならば、自分の意志によって施しが大果になります。これは誰にでも管理できるところです。相手を探して困らなくても、構わないのです。
困っている人を助ける
これは世の中にある福祉活動の一般的な目的です。どんな宗教でも見られる善行為です。ですから皆、無批判的に、「施しは困っている人や貧しい人にあげるべきだ」と決めているのです。この問題はそれほど簡単ではないのです。世の中の人間が「自分だけ良ければよい」という態度で生きているから、たくさんの人々が不幸に陥るのです。ひとりが富豪になると、たくさんの人々が不幸になる仕組みです。何かをあげただけでは、福祉活動しただけでは、この世は一向に幸福にならないのです。これは施しで解決できるものではありません。宗教の責任でもありません。問題というのは、原因を取り除くことで解決するものです。宗教家が、自分の布教宣伝のために貧しい人々を出汁に使うケースがあり過ぎです。自分のエゴ・わがまま・愛着を無くすために、困っている人々を助けるならば、それは明らかに善行為です。困っている人々は、自分より下ではなく、自分のこころを清らかにするために助けてくれる協力者になるのです。
ひとの施しを受けて悪行為をする場合もあります。テロ行為をおこなっている人々は、たくさん資金の施しを受けているのです。それはザカートのお金です。麻薬を買うために、お酒を買うために、施しを与えてよいのかと考えるべきです。金の管理が下手で、贅沢に耽って借金まみれになって、貧困に陥った人に、また財産をあげて助けたところで、同じ生き方を続けるでしょう。ですから、施しを受ける側にも多かれ少なかれ、まともな人間として生きる義務が生じるのです。この世の中には、ろくに努力もしないで、仕事をするのも嫌で困っている人々がいます。このような人々のことを心配して、親が助けてあげます。しかしそれは、いけない行為になるでしょう。助けてもらって独り立ちすることこそが、正しい態度になるでしょう。
ひとの助けが無ければ生きられない運命で生まれる人々もいます。気候変動で飢饉にみまわれたり、自然災害に遭遇したり、といった場合は、他の人々が助けてあげなくてはいけないのです。障害をもって生まれて、仕事ができない、自立できない場合も、周りが助けてあげなくてはいけないのです。このような場合は、当然、施しを行う人々のこころも清らかになるのです。施しに対するお釈迦様の考えをまとめると、このように言えます。ひとは誰でも施しをするべきですが、施しに頼って生きるべきではないのです。施しを受けるより他の選択がない人々だけ、施しを受けるべきです。
施しとは修行です
お釈迦様はこのように説きます。
「雑草が生えることは、畑にとって障害です。人類にとっては、こころに愛欲があることが障害です。ですから、愛欲から解放された方々に施しをすることで、その行為は大果になるのです。
雑草が生えることは、畑にとって障害です。人類にとっては、こころに怒りがあることが障害です。ですから、怒りから解放された方々に施しをすることで、その行為は大果になるのです。
雑草が生えることは、畑にとって障害です。人類にとっては、こころに無知があることが障害です。ですから、無知から解放された方々に施しをすることで、その行為は大果になるのです。
雑草が生えることは、畑にとって障害です。人類にとっては、こころに欲求があることが障害です。ですから、欲求から解放された方々に施しをすることで、その行為は大果になるのです。
ということは、自分のこころの障害を取り除く目的で施しを行うべき、という意味になります。右に語った社会の状況云々などは、それほど関係ないのです。
施しと業
ひとはこころのエネルギーによって生きているのです。人生の幸不幸は、こころが持っているエネルギーに左右されます。欲・怒り・無知・欲求などは、こころの障害なのです。こころがエネルギーを発散できる状態ではなくなるのです。こころが自由に働かなくなるのです。不自由なこころは、不幸な人生をもたらします。ですから、幸福に生きていきたいとおもうならば、こころの障害を取り除くより他の方法はありません。こころを清らかにする方法の第一歩は、施しです。施しを行うと、貪瞋痴が減ります。こころが活発に働き出します。このように、こころに善いエネルギーが生まれるので、業と言うのです。
しかし「施しこそが修行」ではありません。こころ清らかにすることが、ほんものの修行です。施しは第一歩です。やりやすいのです。戒律を守ること、冥想実践で集中力をあげること、智慧を開発する観察実践を行うこと等々があります。
施しが無くては仏教活動は成り立たないのですが、施しばかりをハイライトする仏教活動は、お釈迦様の教えに反するのです。金目当てで行う宗教活動とは、糞の収集家になる道なのです。自分にも周りにも多大な迷惑を与える行為になるのです。ひとは理性に基づいて施しをして、自分のこころに得た清らかさを味わわなくてはいけないのです。欲に打ち勝った勝利を楽しまなくてはいけないのです。正しく施しをするならば、施しを受けた側が人類の幸福のために必死で努力しているはずです。施しを受けた側が人類のために行う活動に、自分も参加しているのだという、その喜びを味わわなくてはいけないのです。
今回のポイント
- 施しは基本道徳です
- 施しを法律で義務づけてはならない
- こころ清らかにする目的で施しを行う
- 理性と区別判断能力が必要です
- 施しを受ける人に人格向上する義務があります
- 人類の幸福のために働く人に対する施しは大果になります