No.227(2014年1月)
ブッダの脱獄計画
秘密の鍵は「観察」です Jailbreak of suffering.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章
- Pañca chinde pañca jahe
Pañca cuttari bhāvaye
Pañcasangātigo bhikkhu
Oghatinnoti vuccati
- 五①を断ち 五②を捨て 五③を修せ
五著④を超えし その比丘は
「暴流を渡れる」者と言われる - 訳:江原通子
- ① 欲界五種の煩惱
② 色界・無色界の五煩惱
③ 信・勤・念・定・慧の五根
④ 貪・瞋・痴・慢・見の五著 - (Dhammapada 370)
苦の常識
仏教は、生きることは苦だと言うのです。お釈迦様が発見された四つの真理の一番目は、苦聖諦です。聖という形容詞を付けているのは、これは一般の方々の見解と違い、ということを示すためです。超越した観察能力で、生きるとはどういうものかと調べたところで、達した結論なのです。「生きるとは苦である」と、究極の真理を示されたのです。常識的な人々は、「そう断言できないでしょう」という異論を持つに違いありません。常識論とは、「生きる上で苦しいこともありますが、頑張れば幸福になる。また、最終的に生きることはこの上のない有難いことである」というスタンスです。常識論は、経験と期待をかけあわせた考えです。仏教はこの考えを否定しません。超越した智慧で、より正確に客観的に、生きることを観察してくださいと言うのです。そうすると、生きることのカラクリが見えてくるはずです。このカラクリに付けられた名前がdukkha・苦なのです。
苦の超識
こう説明する時は、誰にでも理解できる生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦を示すのです。これらは、良いものであると、期待すべきものであると、言えないのです。しかし人は、それらの現象はたまたま起こるものだと思っているようです。これらを除けば、生きることは楽に決まっている、という態度になるのです。しかしこの七つの苦を精密に観察すると、人生はその七つにより構成されているものであると発見できるのです。ですから八番目の苦として、「命を構成する五蘊が苦である」と説かれるのです。五蘊が苦であることは事実ですが、完全に語らなくてはいけないので、五取蘊と言うのです。命という働きは、五蘊に依存して成り立っているのです。生きていきたい、死にたくない、幸福になりたい、という気持ちも、五蘊に依存するからこそ成り立つのです。
生きる衝動は苦です
生きるとは、まず身体を動かしていることです。身体の全細胞は、絶えず動いているのです。細胞の動きが止まったら、その細胞はその時点で死んでいます。動かさずにいられないエネルギーが肉体のなかに通っているのです。このエネルギーは感覚です。身体の動きを意図的にやめて実験してみると、感覚のすがたをそのまま感じることができます。たとえば、眼を開けたままでまぶたを閉じないことにしてみる。呼吸を二三分やめてみる。いやな感覚が起こることでしょう。動かさずにいられないのです。我々が意図的に行う動きも、無意識的に起きている動きも、同じ法則です。止まったら大変な苦しみを感じるのです。
苦というエネルギーが、生命を生かしているエネルギーなのです。生きるとは、その苦を何としてでも捨てたい、やめたい、という働きです。しかし、苦は終わりません。立って苦しみを感じた人は、坐ってみてもやがて坐ることが苦になるのです。空腹の苦をなくすために食べてみると、満腹の苦が生じるのです。生命は必死に苦から逃げていますが、それはただ「別な苦」に逃げることになるのです。それで終わりなく逃げまわる羽目になるのです。しかし諦めません。生きていきたい、という欲があるのです。生きていきたいとは、「死にたくない」という意味でもあります。それで、命に対して不安や恐怖を感じるのです。仏教用語では、避けたい現象にたいする気持ちは、怒りと言います。というわけで、生命に存在欲と怒りという二つの衝動があるので、絶えず生き続けるために戦うのです。生きるとはどういうカラクリでしょうかと観察したことがないので、生きることは有難いことであると、前提として思っているのです。これに無智と言うのです。そういうことで、貪瞋痴という三つの衝動が、生命を生かしているのです。生きるとは、際限なく苦しみを回転させることです。
勘違いの幸福論
生きることが苦であるというのは、誰でも感じることです。誰もが生きることに不満を抱いています。そこで、誰かが甘い話をするならば、すぐ乗ってしまうのです。世間はさまざまな幸福論を持っているのです。生きることがそのままで幸福であるならば、幸福を探し求める必要はないはずです。永遠の天国に期待をかける必要はありません。死ぬことは嫌なので、人には決して死なない永遠不滅の魂があると信じているのです。生きるものは誰でも必ず死ぬと知っています。しかし認めたくはない。だから、不死の境地があると盲信するのです。不死の境地は妄想次第で変わります。誰でも死後は天国に生まれるのだと信じる人もいるし、ある特定の神を信じる者だけ天国に行けると思う人もいるのです。
このようにして、たくさんの宗教が現れます。宗教とは死後、永遠の命を約束する教えです。しかし宗教がある人もない人も、根本的に間違ったところがあります。生きるとはどのようなカラクリかと、自分自身で調べていないのです。生きることのなかに、永遠の幸福な命があると信じ込んでいるのです。調べることもせず、確かめることもせず、ただ信じるというのは、無智な行為です。生きることを客観的に調べてみると、苦であると発見します。そうなると、生きることのなかに幸福は入っていないと分かります。生きることに執着するのは苦に執着することであり、永遠に生きることを期待するのは「永遠に苦を期待すること」に他ならないと分かるのです。
生きるという監獄を破る
では人間の苦しみに、何の解決策もないのでしょうか? そうではありません。生きることに執着するから、存在欲があるから、苦が続くのです。ですから、生きることから脱出することが、答えなのです。五蘊に対する執着を捨ててしまうことが、答えなのです。生きることを変えて、生きることのなかで幸福を探すのは、水のなかで火を探すようなものです。火が欲しければ、水からきれいさっぱり離れなくてはいけないのです。同じく、究極の幸福を目指すならば、生きることから何の躊躇もなく脱出することです。これは仏教用語で、解脱と言うのです。お釈迦様が語る解脱と、他宗教が語る永遠の境地は同じものではありません。
終身刑の受刑者が、刑務所のなかの生活が苦しくて嫌になったとしましょう。苦しみから逃れる唯一の道は、脱獄することです。それが分かったからといって、そう簡単に脱獄できるわけではないのです。精密に計画を立てて、実行しなくてはいけないのです。たとえ生きることが苦であると分かったとしても、生きることから脱出すること(解脱)は難しい作業になります。精密にできた完全なプランが必要です。そのプランを解脱に達するまで実行しなくてはいけないのです。お釈迦様の教えとは、さまざまな方法で完全な脱獄プランを語ることです。経典が仏説であるか否かを確かめる簡単な方法があります。お釈迦様の教えなら、どのような教えであっても解脱を目指すことで完了します。たった四行の偈であっても、解脱プランが語られているのです。在家の方々にこの世で幸福に生きる方法などを語る場合も、最終的に煩悩を無くして解脱に達するべきだと説かれるのです。
脱獄プラン
今月はお釈迦様の説かれた一つの脱獄(解脱)プランを解説したいと思います。生命は輪廻という現象に無期限に閉じ込められています。死んでも、生きていきたいという渇愛があるので、再び生まれるのです。誰かが私たちを輪廻という刑務所に閉じ込めているわけではないのです。我々のこころが刑務所なのです。十種類の束縛によって、輪廻に閉じ込められているのです。①有身見・②疑・③戒禁取・④欲貪・⑤瞋恚という五下分結、⑥色貪・⑦無色貪・⑧慢・⑨掉挙(浮つき)・⑩無明という五上分結です。輪廻転生と言えば、地獄・畜生・餓鬼・人間・欲天・梵天という次元があります。地獄の生命は極端な苦しみを感じるのです。上の次元になればなるほど、感じる苦しみは少なくなるのです。梵天では苦を感じないが、こころのエネルギーが尽きたところで別な次元に生まれ変わらなくてはいけないのです。
最初の関門
まず、お釈迦様は五つ(束縛)を断ちなさい(pañca chinde)と説かれます。五下分結を切断することを説かれているのです。脱獄(解脱)プランを最初に実行するところです。五下分結を断つと、地獄・畜生・餓鬼といった苦しい次元に輪廻転生することが無くなります。輪廻転生は人間・欲天・梵天に限られます。
五下分結を調べてみると、実行しやすい見事なプランであることが分かります。
①は有身見結です。生命に永遠の魂があるという誤解です。身体の働きとこころの働きを観察してみれば、それは誤解であると簡単に発見できます。
②は疑結です。生きることのカラクリを発見しない人は、永遠の命を期待します。しかし、ただの期待なので、こころが落ち着かないのです。永遠の命があるか否か、確かめることもできないのです。ですから、こころは「ああではないか、こうではないか」という優柔不断な状態になるのです。世の中にある教えは互い違いなのに、それは表面的であって、みな同じ境地を目指しているのだと思ったりもする。それは自分の気休めの考えです。しかし、「道は確かにこれである」という結論には達しないのです。このこころの優柔不断な状態は、疑結です。ものごとは因縁によって現れて消えるものであると発見する人の疑は消えるのです。
③は戒禁取結です。生きることのカラクリを発見すると、何か儀式儀礼をおこなうだけでは、行をするだけでは、戒を守るだけでは、解脱に達しないのだと発見するのです。解脱に達するためには、真理をありのままに知る智慧が必要です。世にある宗教的な修行や儀式は、成り立たない永遠の命を目指して、推測で行っている行為です。宗教的な修行が道徳的な行為であるならば、善行為になります。善行為をしたら、善いところに生まれ変わりますが、解脱には達しません。脱獄したことにはなりません。刑務所の自分が住んでいる部屋にポスターでも貼って楽しむようなものです。
生きることを正しく観察して、カラクリを発見すると、有身見結・疑結・戒禁取結は同時に消えてしまうのです。その人は、預流果に達したことになるのです。残りの七つの束縛も、必ず切断することができるようになっているのです。
預流果に達しても、生きることに対する愛着がすべて無くなったわけではありません。ただ、罪を犯す弱みが消えたのです。次の課題は、欲と怒りを制御することです。さらに生きることを観察します。生きることが欲と怒りによって成り立っていると発見します。激しい欲と激しい怒りで、激しい苦しみが起こるのだと理解します。その智慧によって、欲と怒りが薄くなります。仏教用語で一来果に達したと言うのです。
さらに観察を続けます。薄くなった欲も怒りも苦しみを司ると発見します。その智慧によって、欲と怒りが完全に消えます。仏教用語で不還果に達したと言うのです。その人は、五下分結をすべて破ったのです。地獄・畜生・餓鬼・人間・欲天に生まれることが無くなるのです。輪廻転生しても、苦しみがほとんど無い、安らぎに満たされている梵天に限られます。
最後の関門
また切らなくてはいけない束縛が5つあります。
⑥色貪・⑦無色貪・⑧慢・⑨掉挙(浮つき)・⑩無明の五上分結です。
それも捨てなさい(pañca jahe)とお釈迦様が説かれます。
⑥と⑦は梵天界に生まれることに対する存在欲のことです。怒りはすでに断ったので、存在欲に付いてくる恐怖感は無いのです。しかし、「自分がいる」という実感はあるのです。それは⑧慢と言います。この慢は、私たちを悩ましている自我の妄想から発する恐ろしい慢ではないのです。ただ、「自分がいる」という微妙な実感のことです。生きる場合は、無常の現象のなかで生きることになるのです。物事が変化すると、こころの安定も微妙に変化するので、⑨掉挙(浮つき)もあるのです。しかしこれも、混乱して興奮して途方に暮れる、我々の掉挙とは違うのです。微妙なこころの揺らぎなのです。第三番目の覚りである不還果に達したので、高度な智慧があることは確かです。では、なぜ色貪などの微妙な束縛が残っているのかというと、まだ微妙に⑩無明が残っているからです。もう少々、修行する必要があるのです。脱獄は完了していないのです。刑務所の玄関の頑丈なドアの鍵を破ったのですが、まだ開けて出ていないのです。修行者がもう一度、生きるとはどういうことかと観察すると、「自分がいる」という実感さえ、成り立たないものであると発見します。その智慧によって、五上分結は一遍に切断されます。それで脱獄が完了です。完全に解脱に達したことになるのです。
このように五下分結を断った修行者は、さらに五上分結を断つことに進みます。それには、信・勤(精進)・念(気づき)・定(サマーディ)・智慧という五つの能力(五根)をさらに磨かなくてはいけないのです(pañca cuttari bhāvaye)。それで、欲・怒り・痴・慢・見という五つの束縛(十結を五つにまとめた表現)を超えたことになります(pañcasangātigo)。その比丘は、輪廻という瀑流を渡った人(oghatinno)だと言うのです。以上がお釈迦様の説かれた、輪廻という無期限の苦しみの地獄から脱獄する精密なプランです。実行するのは、輪廻に嵌められて苦しんでいる私たちの仕事です。
今回のポイント
- 苦聖諦は常識論ではありません
- 存在欲は苦に対する欲です
- 永遠の命という概念は錯覚です
- 解脱に達するために精密なプランがあります