No.228(2014年2月)
生きているのに生きることを知らない
生きるとは感覚依存症です Addiction to six senses is called life A.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章
- Jhāya bhikkhu mā pamādo
Mā te kāmagune bhamassu cittaṃ
Mā lohagulaṃ gilī pamatto
Mā kandi “dukkhamida”nti dayhamāno
- 禅定修せ いざや比丘 放逸なること なかるべし
こころ愛欲 に迷わすな 放逸にして墮地獄し
熱鉄丸を呑むなかれ
業火に燒かるるその時に 「むヽ 苦」と叫ぶこと勿れ - 訳:江原通子
- 比丘よ、禅をせよ、怠けるな そなたの心を欲に喜ばせるな
怠けて鉄の玉を飲むな 焼かれて「これは苦しい」と叫ぶな - 訳:片山一良 『ダンマパダ全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』大蔵出版,2009
- (Dhammapada 371)
何かとよく分からない「生きる」という行為
「生きる」ということは、人間にとって最大のテーマです。しかし、どのように生きるべきか、どの生き方が正しいのか、などの問題に、それほど真剣に取り組まないのです。結局は皆、なんとなく生きているのです。自分の希望通りに生きることができれば、幸福に生きている、明るく生きている、楽しく生きている、などの言葉を使うのです。人生が希望通りに行かない場合は、苦労して生きている、必死で頑張って生きている、何があっても苦労を乗り越えて生きるべき、などの言葉を使うのです。
生きることは自然ではない
生きるとは不思議な働きです。自然に生きることはできないのです。自然に起こるのは、生まれることと死ぬことです。生きるとは、生と死のあいだの働きです。それは努力しないと成り立たないのです。生命は自然に生まれて自然に死ぬが、意図的に努力して生きていかないといけないのです。それなら、「生きることは不自然な行為である」と言っても構わないのです。人間の生き方を見ると、あえて不自然に生きているということが分かります。文明・文化に達すること。科学技術・芸術・政治・経済などが現れてくること。それは決して自然の流れであると言えないものです。自然が壊されてゆくのです。他の生命は、餌を探すことと子孫をつくることだけを目的にして生きていますが、他の生命もその目的に用いた分の自然を破壊しているのです。
叶わぬ希望に挑戦する
死は自然に必ず訪れます。決して避けられません。ですから生命は必死になって、生きていきたいという希望を抱えているのです。希望というのは、叶う時、楽しいのです。決して叶わぬ希望を抱いていることで、誰だって生きる上で失望感・不満・怯えを感じるようになっているのです。生きていきたいという希望が強ければ強いほど、生きる上で感じる失望感などもそれに合わせて強くなってしまうのです。
何をやっているのでしょうか?
もう一つ、面白い現象があります。誰でも、「私は生きているのだ」と言うのです。しかし、生きているとはどういうこと? 生きると言って何をやっているのか? という問いには、明確な答えを持っていないのです。もしかすると、勉強する、仕事をする、子育てをしている、社会福祉活動をやっている、芸術活動をしている、自然を保護する活動をやっている、食事を摂っている、運動している、遊んでいる、などの答えが思い浮かぶかもしれません。しかし、これらの行為は、生きることと言うよりは、「生きているからやっている」ものなのです。生きているとはどんな行為かとも知らず、必死で生きたがるというのは、面白い現象です。
宗教家の勘違い
世にある全ての宗教のメインテーマは、生きるとは何か、生きる目的は何か、なぜ生きていくのか、死後はどうなるのか・どうなるべきか、です。しかし、宗教家はその答えを全く見つけていないのです。神話的な物語を持ち出すのです。信仰で人を束縛しようとするのです。人間がやりたがらないことを無理強いするのです。信仰・迷信・神話などに頼っていたら、「生きるとはどういうことか?」という問題には、決して正しい答えが見つからないのです。
「生きていきたい」という気持ちはみな持っているのに、「生きるとはどういうことか?」と理解しないのはおかしな話です。客観的に少々観察すると、いとも簡単に発見できるのです。お釈迦様は人々に信仰を勧めないのです。神話物語を持ちだして、自分の言っていることが正しいと証明しようとはしないのです。お釈迦様は、客観的な観察を勧めているのです。誰にだって、生きることに関する真理を発見できるのだと説かれるのです。観察能力によって切り開かれた釈尊の智慧を拝借して、生きるとはどういう行為なのかと調べてみましょう。
生きるとは感覚器官の働きです
身体には、眼耳鼻舌身という五つの感覚器官があります。それに、色声香味触という五種類の情報が触れるのです。それによって認識が生まれて、続くのです。これが生きることです。ここまでは、意思があっても無くても起こるのです。ここまでは、自然に生きていると言えます。しかし、眼でものが見えるだけで、耳で音が聴こえるだけで、鼻で匂いを感じるだけで、舌で味を感じるだけで、身体でものを感じる能力があるだけで、生きていられません。意思を働かせて、色声香味触を選んで取り入れなければいけないのです。見たいもの・聴きたいもの・嗅ぎたいもの・味わいたいもの・触れたいものを選んで、取り入れるのです。そのために私たちは、料理をしたり、家を建てたり、仕事をしたり、などなどの様々な行為をしているのです。どんな行為をやっても、最終的には自分が選んだ色声香味触を取り入れることになるのです。必要だとする色声香味触を取り入れることは、意図的に行わなくてはいけないのです。それが、生きるという行為なのです。というわけで、生きるという行為のなかに、自然に起こる一面もあります。意図的に行わなくてはいけない一面もあります。この二つをまとめてみると、眼耳鼻舌身に色声香味触がふれて認識が続くことだけだと分かります。
必死で生きるとは?
もう一つ、問題があります。ひとには「これを見たい。これは見たくない」という判断をする意識が必要です。死を避けて生きることを支える色声香味触を取り入れたいのです。生きることの妨げになる色声香味触から離れたいのです。要するに、俗にいう「好き嫌い」です。色声香味触は物質です。この物質が身体に触れると、認識が生まれます。認識機能があることが、生きていることになります。ですから、生きていきたがる生命は、色声香味触に依存するのです。色声香味触に仏教用語で kāma または kāmaguna と言います。欲にもkāmaというので、誤解しやすい用語なのです。この場合は、欲・貪欲・愛欲という意味よりは、「好まれる対象」という意味になります。好まれる対象に対して欲が生じるのは自然の流れなので、誤解しやすいという問題があるにも関わらず、色声香味触という五つの対象に kāma,kāmaguna という言葉を使っているのです。
妄想の力
ひとの命は、五つの対象が認識器官に触れるだけで終了するものではありません。考えるという機能もあるのです。物事を判断したり、喜び・怒り・恐怖感などを感じたりする必要もあるのです。人間に限っては、勉強したり、知識を増やしたり、新たなものを開発したりする必要もあるのです。それだけでは、必死で生きるために必要なエネルギーが充分起こらないので、妄想して感情をかき回して増やすのです。妄想して欲を増やすと、その分、色声香味触を得るために頑張ることができる。妄想して怒りを増やすと、嫌な・好ましくない色声香味触を避けること・壊すことができるようになります。ここで五つのkāmaにもう一つ、認識対象が入ります。仏教用語で法・dhamma と言います。この場合の法の意味は、「なんでも」という程度の意味です。眼耳鼻舌身という五つに意という感覚器官も入れて、六つの感覚器官になります。
五欲の意味
最終的な定義に入りましょう。ひとには眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官があります。それに色声香味触法という六つの情報が触れて、認識が起きて続きます。それが生きることです。意識の場合も、自然に起こる意識と、意図的に作る意識という二つがあります。色声香味触は物質的な働きなので、pañca kāmagunaと言います。意とその対象になる法は入りません。眼耳鼻舌身の制御方法と意の制御方法は異なるので、この分け方をするのです。
人間は、色声香味触という五つのkāmaだけに依存しているわけではないのです。自分の思考・妄想・感情に対して、五つのkāmaとは比較できないほど強烈に依存しているのです。例えば、自分が食べたかった弁当を誰かが持って行ったとしても、少々機嫌は悪くなるかもしれませんが、忘れてしまうこともできます。しかし自分の考えを否定されたら、自分の気持ち・感情を否定されたら、激怒するのです。忘れることはできないのです。
生きることの意義
生きるという行為は、以上です。これに加えるべきものは、他に何もありません。生きることに目的はありません。ただ死にたくないので、必死になって生きていなくてはいけないだけのことです。その生き方も、生存欲と怯えという二つの感情に管理されているのです。では、生存欲と怯えだけに支配されて生きることは、すごいことでしょうか? 尊いことでしょうか? 何か価値のあるものなのでしょうか? いいえ、そうではありません。ただ生まれたから、死にたくないから、生きているだけなのです。人生を客観的に観察するならば、理性のある人は誰でも、この結論に達するはずです。お釈迦様は、生きているというカラクリをこのように科学的に観察して説かれたのです。しかし、これだけの話では役に立たないでしょう。地球は太陽の周りを回っている。この事実を誰かが明確に一般人に教えてあげる。しかし、「だから何ですか?」という疑問が残るのです。
正しい生き方の発見
お釈迦様は、感情に支配・管理されて、感情のままに、感情の奴隷で生きることに対して、「正しい生き方」というべき新たな方法を見つけたのです。奴隷として生きるのではなく、自由に生きられる方法・生きることを乗り越える方法を見つけたのです。その方法に、「仏道」と言うのです。苦しみを乗り越えるために、仏道を実践しなくてはいけないのです。仏道を実践することが人間にとって唯一の幸福の道であると理解するために、仏道を歩むべきだという意欲を作るために、生きることのカラクリを説明するのです。
お釈迦様が推薦する正しい生き方とは何でしょうか? それは決して死を避ける目的の生き方ではないのです。世間は死を避ける目的のみで生きているのです。皆、失敗するのです。お釈迦様は、生死を乗り越える方法を推薦するのです。それなら、生存欲と怯えの感情に押されて五欲に依存する、自分の思考・妄想に依存するだけの生き方をやめなくてはいけないのです。生きるための努力を最低限にするか、ほどほどにするかです。それから、生きるとは何かと客観的に観察するのです。感情の奴隷になって生きることをやめるのです。慣れてないことだから初めは難しい作業だと感じるかもしれませんが、やってみれば、奴隷になって生きている生き方よりとても楽な生き方であると発見します。普通の人は決してやらない「いまの自分を観察する」という実践に、修行とも冥想とも言うのです。実践という言葉は正しいのですが、感情に支配されている認識の流れを変えるので、冥想修行であるとも言えるのです。しかし仏教の冥想は、他宗教で説かれている冥想と似ていないのです。似ているのは単語だけです。中身ではありません。
流されて生きること
自分を観察しないでいることは何を意味しますか? 感情のまま、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法に依存していることになります。流れるままに生きていることになります。誰でもやっていることなので、何の努力も要りません。生きるために人間が努力しているように見えますが、それは本物の努力ではありません。お腹が空いたら、誰だって必死になって食べ物を探すのです。褒めるに値する行為ではありません。国王・大統領・総理などのお偉い人々をはじめ、ホームレスの方々まで、同じ生き方をしているのです。皆それなりに頑張っているつもりです。しかし生存欲と怯えに流されている生き方です。ですから、一般人の生き方はpamāda・放逸と言うのです。生きるとは何かと観察するならば、その行為はappamāda・不放逸と言うのです。お釈迦様は「比丘たちよ、修行しなさい、放逸に陥ることをやめなさい(jhāya bhikkhu mā pamādo)」と説かれる。
自由を目指して精進する
生きることを観察しようと始めても、簡単に進むわけではないのです。人間のこころに元々、自己観察する能力は無いのです。無始なる過去から、五欲に依存することで、思考・妄想・感情に依存することで生きてきたのです。依存する癖が強すぎなのです。そこで、覚悟して精進する必要があります。色声香味触の情報がこころのなかに入ると、こころは酔いつぶれたような感じで混乱するのです。五根に情報が触れるたびに、こころは揺れ動く・混乱する・冷静さが無くなるのです。これは癖になっているのです。修行を始めた比丘は、「五欲によってこころが振り回されないように、気をつけなくてはいけない(mā te kāmagune bhamassu cittaṃ)」と、お釈迦様が説かれます。
計画を立てて苦しむ必要はありません
次にお釈迦様は、喩えを出して自分の戒めを理解しやすくするのです。「不注意で真っ赤に燃えた鉄丸を呑み込んで、内臓が焼けてしまう時、『苦しい、苦しい』と泣くことになってはならない(mā lohagulaṃ gilī pamatto mā kandi “dukkhamida”nti dayhamāno)」と説かれます。私が不注意と書いたのは、「放逸」のことです。生存欲と怯えに押されて、眼耳鼻舌身に色声香味触が触れたい放題触れるようにすると、こころはどんどん悩み苦しみを感じて、堕落してゆくのです。それに加えて、激しい妄想も回転するので、苦しみが増える一方です。しかし、見たいものを見る、味わいたいものを味わう、考えたいことを考える、などは、自分で判断して行うことです。自分が好きでやっている行為なのに、その結果は悩み苦しみばかりを作るのです。お釈迦様がイメージした喩えは、真っ赤に燃えている鉄の球を喜んで呑み込むことです。呑み込んだら、次の結果(内蔵が焼けて死に至る苦しみを感じること)は決して避けられません。ということは、放逸で意のままに生きる人の道は、真っ赤に燃えている鉄丸を喜んで呑み込むような生き方です。
修行を勧めるために脅しは要りません
註釈書では、右のような解説はしないのです。放逸で生きている人々は、罪を犯して死後、地獄に堕ちる。地獄では無理やり、溶岩の球を呑み込ませる。その時、地獄に堕ちた生命は「苦しい、苦しい」と泣き叫ぶ。これが註釈書の説明です。しかし、「真面目に修行しなかったら死後、地獄に堕ちて苦しむはめになりますよ」という言葉は、人々に修行する勇気を与えるのでしょうか? 一般人は地獄のことを経験できないので、人の話を聴いて「信じなくてはいけない」のです。信仰をもとにして修行しても、正しく智慧が現れない可能性もあります。仏教では、輪廻の話があるかもしれません。お釈迦様が説かれたから、輪廻の話は事実かもしれません。悪行為する人々は、地獄に堕ちるかもしれません。しかし、一般の方々に、それを確かめる知識能力はありません。地獄の概念を持ちだして修行を勧めることは、他宗教でも行っている「永遠の地獄」の脅しと似ているのです。お釈迦様のこの教えを理解するために、地獄に堕ちることを怯える必要は無いのです。
いま私たちは、六根に依存して、色声香味触法という対象に振り回されて、奴隷のように生きているのです。生きているのではなく、生存欲と怯えに生かされているのです。極端に無知な生き方なのに、私たちはこの生き方を喜んで営んでいるのです。「これこそ、真っ赤に燃える鉄の球を自ら取って喜んで呑み込むことである」と理解すれば、修行する勇気が充分に起きてくるのです。無始なる過去からの悪い癖をなくすためには、強い意志が必要です。ですからお釈迦様は、見事に鉄の球の喩えを出されたのです。
今回のポイント
- 生きるとは何かとも知らず人は生きることに必死です
- 色声香味触法に依存することが生きることです
- 命は生存欲と怯えに支配されています
- 色声香味触法によってこころが激しく揺らぐ
- 生きるというカラクリを発見する修行は観察です
- ひとは生きるのではなく生きることを乗り越えるべきです