No.230(2014年4月)
簡単に見える超越した世界
仏道は完全に説かれています This simple path breaks all mundane barriers.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章
- Mitte bhajassu kalyāne
Suddhājīve atandite
Patisanthāravutyassa
Ācārakusalo siyā
Tato pāmojjabahulo
Dukkhassantaṃ karissati
- 生活清く、
倦 むことのない 善き友らとそなたは交われ
親しく迎える者となり 所行の巧者となるならば
それよりかれは喜びに満ち 苦の終わりを作るであろう - 訳:片山一良『ダンマパダ全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』大蔵出版,2009
- (Dhammapada 376)
修行の順番
まず先月の話の筋を思い出してみましょう。智慧が無ければサマーディは現れません。サマーディが無ければ智慧も現れません。矛盾に感じるこのフレーズをどのように理解するべきかと説明しました。仏教を学び始めると、智慧も心の落ち着きも同時に現れてくるのです。ですから、問題はありません。仏教を学んで理解して納得できれば、基本的な条件が揃っているのです。仏教を学んだだけで人格向上はしません。人間を超えた精神状態には達しません。ですから、実践してみる必要があるのです。人里から離れて仏道を実践することに励むと、いまだかつて味わったことのない、人間の次元を超えた安らぎを感じるのだと説かれてありました。実践する修行者は、すべての現象が生まれて消え去っているのだと発見するのです。それはヴィパッサナーの智慧です。生滅の智慧が現れてきたら、その時初めて、解脱とはどういうものかと理解するのです。次にお釈迦様が説かれたことを現代的に言えば、「では、修行を始めましょう。まず何をやるべきでしょうか?
眼耳鼻舌身という五根を防護して、足るを知りなさい。道徳をしっかり守りなさい。それがスタートです」となります。
普遍的なデータを発見する方法
今月の話はここからです。ヴィパッサナー実践を行っている方々は、仏道は簡単な作業であると思っているに違いありません。実際、我々がやるべきことは、いたって簡単なのです。しかし、やってみようとすると、それはうまく行かないのです。簡単なのに完璧にできない、ということに悔しさを感じるのです。完璧に実践しないと、結果は出ないのです。完全に語られた教えだから、それもしようがないのです。中途半端で教えたものであるならば、それなりに中途半端に実践して、よく頑張ったと自己満足で終わればいいのです。仏道はそれとは違います。完全に語られているので、「精密科学」と名付けるべき教えなのです。科学的な世界では、中途半端は成り立ちません。科学実験はいつでも精密に計算された数学が基礎になっています。文学や人文科学などとは、わけが違います。仏道も同様の特色を持っています。ただ心の科学なので、数学に割り込む余地は無いのです。
例えば、怒りを観察するとしましょう。怒りには強弱がありますが、何ポイントまで怒ったのかと、メーターで測ることはできません。実践者は怒りの強度を感じるのです。そうすることで、怒りによって自分の身体に起こる変化も調べることができます。このように経験を積み重ねていくと(データの収集)、なぜ怒りが起こるのかと発見します。心が心に入る対象に反発すると怒りになるのだ、ということを発見するのです。これは普遍的な真理になります。いかなる生命であっても、心に入る対象に反発すると、怒りの感情が現れるのです。そのように、すべての生命の心に関する普遍的な法則を発見してゆくので、仏教は精密な科学なのです。修行によって現れる智慧は、修行者の主観的な経験ではないのです。客観的な事実です。修行を始める人々は皆、まず自分個人の問題として精進してみるのです。最初は自分が足を引っ張られている問題と、仲間が足を引っ張られている問題は別々だと思うでしょう。中年の女性の心の悩みと、中年の男性の心の悩みは、同じものにはなりません。自分特有の問題で悩んでいるのだと思っている限り、智慧は成長しないのです。そこで集中力を上げて上げて、冥想実践するのです。問題の、悩みの根源に入ってみるのです。その時、修行者は、「個人的悩みだと思っていたことが、実はすべての生命に共通している普遍的な働きである」ということを発見するのです。これが本物の智慧の一つです。
智慧とともに自我の意識が薄くなる
修行者には、「自分」という気持ちが薄くなってしまいます。例えば、「足が痛い」という気持ちは、「感覚がある物体に、硬いものが触れ続けると、痛みが生じる」という発見に変わります。自分という主観的な気持ちが薄くなっていけばいくほど、現象を客観的に観察できるようになるのです。冥想を始める前にも、その流れに沿って進むようにとアドヴァイスします。皆様も聴いたことがあるでしょう、「『痛い』と実況するのではなく、『痛み』と実況しなさい」という言葉を。初心者は、言葉にはたいした違いが無いでしょうに、と思うかもしれません。『痛い』と言っても『痛み』と言っても同じことで、『痛い』と実況するほうが慣れているのでやりやすいのではないかと、思ってしまうこともあります。しかし、この二つの言葉には天と地ほどの違いがあるのです。『痛い』とは、自分の主観です。客観的なデータではありません。分からなくても『痛み』と実況すると、客観的なデータになります。冥想に慣れてきて、集中力も上がってきたら、自分という意識が薄くなって、身体に起こる変化は普遍的な現象として観えてくるのです。
評価の相対性
考えるべきことはまだあります。経典では、感覚を苦・楽・不苦不楽という三つに分けています。修行者は、感覚をその三つに分けて観察しても構わないのです。そこで面白いことを発見します。「ある時は苦(痛み)と確認したのに、ある時は同じ強度の感覚に不苦不楽とラベルを貼っているではないか?」と発見するのです。同じように、ある時は楽だと確認した感覚を、後には不苦不楽にしてしまうのです。ということは、感覚が苦か楽か不苦不楽かは、決まっていないようです。相対的に判断するのです。例えば、苦の感覚が消えて次に現れる感覚に、単純に『楽』だとラベルを貼る。同じ感覚が少々続くと、『不苦不楽』だとラベルを貼る。同じ感覚がさらに続けて起こると、『苦』とラベルを貼るはめになる。ややこしいことになってしまいます。「苦・楽などの評価のラベルを貼る必要は無いのではないか?」という気分にもなります。もし、その時点で集中力と観察能力が成長しているならば、問題はありません。その人は苦・楽の区別をやめて、感覚のみを感じることにする。そこで発見するのは、現象が現れては消える、現れては消える、という流れです。これは高いレベルの智慧です。
修行が成功する時
このように智慧のレベルを上げてゆくために必要な条件は、「自分がいる」という実感が薄くなってゆくことです。自分という実感がある限り、観察は主観的です。この実感が薄くなって、「すべての現象は現れては消えるものである」と、「現れては消える感覚に対していい加減で大雑把に「私、私」という錯覚の言葉を入れていただけだ」と、観えてくるのです。これがはっきりした明確な経験であるならば、預流果の門に入っているのです。その瞬間で、心が俗世間の次元を破ってしまうならば、預流果に達したことになります。その経験が起きなかった場合、修行者はそのまま姿勢を変えないで観察し続ける必要があります。間もないうちに成功します。
超人法の世界
やりかたは至って簡単に見えるが、仏道は心の次元を破って出世間に入る修行方法です。人間の次元を破って。超人というべき次元に入ることです。
Uttarimanussadhamma ・超人法という言葉を、お釈迦様は頻繁に使われていたのです。 人間を超えて神みたいな存在になるのではないかと、皆様が誤解する恐れもあります。ここで使われている「人間」とは、「生命」という意味であって、一切の生命を意味するのです。ですから、覚りに達する人は、人間の次元だけではなく、神々の次元も、梵天の次元も、その他の生命次元も、すべて超えているのです。人間とも生命とも言えない存在になっているのです。しかし言葉を使わなくてはコミュニケーションができないので、煩悩が無くなった人、涅槃を経験した人、阿羅漢、聖者などの単語を使うのです。完全たる解脱は阿羅漢果です。預流果、一来果、不還果という境地の場合は、その単語も使うし、聖なる弟子(ariyasāvako)という単語も使うのです。
言葉にとらわれない
修行する人が、いくらか心が落ち着いたところで 「私は預流果になったのでしょうか? 不還果になったでしょうか? 覚ったのでしょうか?」 という疑問に悩む必要はないのです。
正しく修行する人には、このような疑問が生じません。そのような疑問で心が悩んでいる場合は、どこかで修行のやり方を間違えているのです。この問題も理解しておきましょう。言葉とは、単なるラベルです。なんの意味もありません。すべての言葉は、世間の次元に入ります。人間の経験に対して、言葉というシンボルを使っているだけです。言葉をあらわす意味は、決して聖者の世界の経験ではないのです。修行しない一般人の次元の経験なのです。預流果などの単語は、一般人に理解してもらうためのラベルに過ぎません。
修行者なら、冥想が成功に達すると「自我」という錯覚が消えているのです。「私は覚った」という気持ちは無いのです。しかし、曖昧な精神状態ではありません。自分の心がどこまで清らかになったのかと、はっきりしています。また、どれくらい汚れが残っているのかも、分かっています。それで修行者が、指導者に冥想の状況をレポートしなくてはいけないことになったとしましょう。修行者は「このような変化があって、このような発見があって、気持ちはこのようになってしまいました」と報告するのです。「預流果になった」とは、絶対、言わないのです。
修行の成果はどう判断するのか
それで修行者と指導者が一緒に調べたところで、有身見(自我の錯覚)が無くなったと発見したら、同時に戒禁取も疑も無くなったことになります。修行がいくらか成長していくと、戒禁取と疑はほとんど機能しないことになるのです。仏道は正しいと納得しているのです。しかし、自我の錯覚だけは襲ってくるのです。その錯覚が破れてしまったら、三つの束縛が消えたことになります。それで指導者が「あなたは預流果に達したことでしょう」と認めてあげるのです。しかし、修行者にも、指導者にも、「預流果」という単語は、ただのラベルに過ぎないのです。チェックするのは、心の中身です。心の汚れです。ひとが預流果に達したとしましょう。それでその人が、自分の心は完全にきれいになったのかと思ったら、そうではないと分かるのです。まだまだ、自分という実感が残っているのです。冥想に成功した瞬間では、その実感が無かったのに、冥想が終わったら、自分がいるという実感が残っているのです。自我の錯覚はありません。自分がいる、という実感がある場合は、軽い怒りが生まれたり、軽い欲が生まれたり、さらに成長したいな、という気持ちが生まれたりするのです。それで、さらに修行を続けるのです。
修行者の不安
お釈迦様はごく簡単にみえる方法で、我々に一切の束縛を断って生命という次元まで破り解脱に達する道を教えられたのです。ですから修行する人は当然、不安に陥ることもあります。「もっと教えてください」という気分になることもあります。「これで大丈夫でしょうか?」「自分は成長しているのか?」という疑問も起きます。指導者が「成長していますよ」と言ってくれても、「ただ応援しているだけではないか?」「私の心は過剰評価されているのではないか?」と、思うこともあります。
不安の解決・善友
大丈夫です。お釈迦様は、すべてのプロセスを把握したうえで語られているのです。ブッダに従えば、絶対に問題は起きないのです。今月は、修行に励んで頑張っている実践者に対するお釈迦様の言葉を学んでみましょう。
まずmitte bhajassu kalyāneという言葉があります。善友と付き合いなさい、という意味です。善友とは、そこらじゅうにいる仲の良い人々のことではありません。おおもとの善友は、お釈迦様自身なのです。お釈迦様と付き合って欲しいのです。お釈迦様と付き合うとは、お釈迦様の説かれた教えを、釈尊が直々自分に語っているような敬意を持って読むこと、理解することです。参考にしてみることです。読む人が不思議になるほど、自分自身にテーラーメイドしたアドヴァイスに出会えます。これこそ仏説の奇跡だと言うべきなのです。同じ言葉を繰り返し読んでみても、読んでいる時の心の悩みに対して、ぴったり合うヒントが見えてきます。 経典を勉強することは、誰の性格にも合う仕事だとは言えません。昔は文字を読めない 人のほうが多かったのです。いまは誰でも文字を読めるが、結局のところ理解能力ある人の数は少ないのです。
お釈迦様の次の善友は、経験のある指導者です。指導者は、自分の能力がある範囲で真剣に指導するのです。仏教の師弟関係は、ヒンドゥー教やチベット仏教に見られるようなグルと弟子との関係と違います。それらの場合は、グルに対して絶対的な服従を要求されます。もしグルが阿呆だったらどうしましょうか?これはよくある話です。
仏教は束縛を要求しません。指導者はいい加減ではないのです。自分の利益を求めてないのです。指導するのは義務です。お釈迦様に対する敬意でもあります。他を助けることも、修行の一つです。ですから信頼できます。ある指導者が、自分の力の範囲で、自分の実践した方法を教えてあげます。それがうまく行かなかったら、他の先輩を尋ねればよいのです。仏教は自由な世界で、師匠は何人いても構わないのです。
ついでに善友という言葉の意味も理解しましょう。友達とは仲の良い人々です。善友とは、自分をより優れた人間として育ててくれる、自分のことを心配する存在なのです。友達と一緒にいると、自分の精神状態はそのままなのです。善友と付き合ってみると、自分が日々、成長するのです。例えば、鬼のような顔をして厳しく教える、理解するまでめげずに教えてくれる先生たちも、一種の善友なのです。ただ、友達でいればいい、という話ではないのです。
善友を選ぶ方法
次の単語は、suddhājīve です。それは善友を選ぶ時に必要な条件です。見る限り生き方は清らかです。疑わしいことは何もありません。謙虚で質素に自我を張らず明るく生きているのです。指導者にそのような性格を見つけたら、善友ということになります。次の単語は、 atandite です。揺らがない、という意味です。興奮しない、感情的にならない、いつでも落 ち着いている、何が起きても大げさにしない、微笑みが絶えない、という性格です。善友を選ぶ時は、それもチェックするべきです。それぐらいのチェックは一般人にもできます。
柔軟でオープンな心が必要
次の単語はpatisanthāravutyassaです。簡単な訳は、フレンドリーであれ、です。意味は簡単すぎですね。実はそうではありません。これから善友と付き合わなくてはいけないのです。善友に捨てられたら、すべて終わってしまいます。目上の人々と親しく付き合う時の心構えを教えているのです。フレンドリーとは、柔軟性を持つことです。自分の間違いなどを教えられたら、素直に受け入れる。自分を変えようとする。頑固にならない。自我を張らない。善友に自分の疑問を聴いてもらうのは構わないが、善友に対して反抗的な態度を取って疑問を投げかけたり、異論を立てたり、反論したり、善友の言葉を否定したりしてはいけません。疑問が起きたら、何回でも伺って勉強するのは構わない。柔軟性には二種類あります。ひとつは教えに対する態度です。これからブッダの教えを学ばなくてはいけない。心を先入観やら固定概念から解放して、新たな真理を理解できるようにと柔軟性を保つのです。もうひとつは、生活のことです。質素を好まなくてはいけないのです。ご馳走を欲しがったり、高価な衣を欲しがったり、贅沢な住居を欲しがったりしてはいけません。備え付けられているもので満足して、柔軟に対応する。
喜び多き人間になれ
次はācārakusalo siyāです。行儀作法を守りなさい、という意味です。最後の単語はpāmojjabahuloです。
Pāmojjaとは、喜びという意味です。「大いに喜びを感じなさい」と戒めているのです。これは脳の開発にも欠かせない条件です。覚りに達するまで待つ必要はありません。「苦労しなければ楽に達しません」という俗世間の考えは、脳には通じません。仏教に出会ったことを喜ぶ。仏教を勉強できたことを喜ぶ。修行する意欲が起きたことを喜ぶ。修行できる時間を作れたことを喜ぶ。指導者を見つけられたことを喜ぶ。道場に入れてもらったことを喜ぶ。質素な部屋をもらったことを喜ぶ。世間の騒ぎが無いところに居ることを喜ぶ。冥想できたことも喜ぶ。冥想がうまく行かない時は、作務をおこなう。それも喜ぶ。心が少々でも落ち着いたら、それを喜ぶ。つまりは、「何があってもそれを喜びとして認識しなさい」ということです。「修行を成功させたければ喜び多き人間になれ」という戒めは絶対的です。文句を言ってはならない。欠点ばかり探してはダメです。弱音を吐いたり言い訳をしたりするとダメです。失敗します。俗っぽい言葉に入れ替えれば、「楽観主義者になれ」です。
簡単な方法で、想像を絶する偉大なる世界を経験するのです。方法は簡単なので、不安や疑問が生じるのです。お釈迦様が説かれた今月の偈を理解しておくと、それらの問題はすべて解決します。この条件さえ守れば dukkhassantaṃ karissati 修行者は苦しみを乗り越えるのです。
今回のポイント
- 仏道は簡単な作業です
- ブッダが推薦する世界は想像を絶するものです
- 修行を成功するために善友は欠かせません
- 修行に入ったら楽観主義者になります