パティパダー巻頭法話

No.234(2014年8月)

喜びに満たされる心

人格向上の栄養剤 Contentment incites wisdom.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章

  1. Pāmojjabahulo bhikkhu
    Pasanno buddhasāsane
    Adhigacche padaṃ santaṃ
    Sankhārūpasamamsukhaṃ
  • 悦びに満ち 心から ブッダの教え奉ず比丘
    諸行寂止の楽を得て 寂靜の境に到るべし
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 381)

喜びがなければ何も始まらない

心の成長には喜びが必要です。心が喜びを感じないならば、成長することができず、そのままの状態で変化してゆくのです。そのままの状態で変化すると言いましたが、そのまま放っておくと退化してゆくのが普通です。心の栄養剤である喜びについて、少々理解したほうがよいと思います。  ひとは喜びたいと思って、喜びを求めていろいろ活動しているので、あえて喜びについ て理解する必要はないと思っているかもしれません。そうでもないのです。たとえば、人は食事を摂らなくてはいけないのです。食べるものが美味しく感じると、楽しみも起こるのです。本当にそれだけで充分でしょうか?
食べものが美味しければよいだけの話でしょうか?
しかしさまざまな食材の特色と栄養と料理方法と食べるべき量なども理解した方が安全でしょう。美味しいという一個の条件だけを重視して食べると、危険です。これと同じく、喜びについても学ばなくてはいけないのです。

願っただけで喜びは生じない

喜びたい、喜びたい、と思っても、喜びは起きません。理解もできない、興味もない難しい本を読んで喜びたいと思っても、喜びは生じません。「どうせ面白くない話でしょう」と思って人の話を聴いていると、とても面白くなって喜びが生じる場合もあります。楽しみたいと思ってテレビを付けたが、あまりにもうるさくて消しました。ただ何となくテレビを観ていたのに、とても面白い番組だったので、楽しかった。このような経験はよくあることです。
このようなケースを考えると、喜びはやすやすと生まれる現象ではないことが理解できると思います。前は楽しかった出来事が、いまは楽しくありません。前は嫌だった出来事が、今は楽しい。ということで、心のなかでどのように喜びが現れるのかと理解したほうがよいでしょう。人間が期待する喜びとは、眼耳鼻舌身から入る情報で心を刺激することです。心が刺激を受け入れる場合は、欲が生じるのです。喜びも感じるのです。心が刺激を拒絶するならば、怒りが生まれます。そのときは喜びではなく、喜びの反対である「嫌」という気持ちが生じるのです。喜びが生じると、心は活発になって、ヤル気も起こるのです。嫌な気持ちが生じると、心は機能低下して、ヤル気も失ってしまうのです。

あてにならない五欲の喜び

心を活発に働かせるためには、喜びが必要です。しかし私達が知っているのは、色声香味触という五欲から得られる刺激だけです。この刺激に対して欲が生じたら、同時に喜びも生まれるのです。この場合、心は活発になるかもしれませんが、成長するという保証はありません。心を動かすために、五欲に依存しなくてはいけないのです。五欲が必ず楽しみを引き起こす、という保証はありません。体と心の状態も関わってくるのです。何かを食べて、美味しいと感じたとしましょう。それで楽しくなったとしましょう。では同じものを繰り返し何回も食べることで、美味しさも楽しさも繰り返し起こるのでしょうか?

そうではないのです。眼・耳・鼻・体に触れる情報についても、同じ法則です。同じ美しいものを長く見ていると、退屈になります。同じ曲を聴き続けると、退屈になります。同じ香りを嗅ぎ続けると、感じなくなります。気持ちいいと思う感触も、続けると刺激も無く退屈になります。五欲にはこのような欠点があります。それで人間は、あまり集中しない、という手段を取ります。ご飯を食べる時、仲間とうるさく喋り出します。テレビを付けて番組を観ながら、世間話をします。車を運転すると、音楽を流します。集中しないで心を散乱した状態にするのです。ということは、微妙に楽しみが生じたりするが、心を成長させるための栄養剤にならないのです。ただ生き延びるだけの結果になるのです。

刺激に飢えて妄想の罠に嵌る

五欲がじゅうぶん刺激を与えないので、人は妄想するのです。食べたもの、聴いたもの、見たもの、嗅いだもの、感じたものなどなどについて、繰り返し妄想するのです。それで心に必要な刺激が起きます。妄想は制御しにくい働きです。「必ず楽しい妄想だけします」と決めることはできません。怒り・憎しみ・嫉妬などの妄想が、止まることなく起こる場合もあります。楽しい妄想のループに入ったら、欲ばかり起こります。楽しみは減っていきます。怒りも妄想のループに入ったら、怒りの感情ばかり増して、心の機能が低下して破壊する方向へ進みます。妄想のループを自分の好きなように制御することはできません。妄想して楽しもうと思っても、法則は食べるものと同じです。最初は楽しみになるが、繰り返すと楽しみが消えて退屈になります。ご飯を食べていて退屈になったら、止めることができます。妄想で退屈になっても、止めることはできません。ループに入っているのです。

ひとは眼耳鼻舌身意という六根を使って、色声香味触法という情報から刺激を受けているのです。楽しみが生まれたり、生まれなかったり、です。
激しい依存が生まれているのです。心が成長するほどの喜びは起こりません。心を成長させる力を持っている喜びは、五欲と妄想からは生まれません。たとえ喜びが生じたとしても、その結果として心は退化してしまいます。五欲と妄想は、痲薬と似た働きをするのです。

オタクは捨てたものじゃない

心を成長させる喜びは、別な種類です。一般的な生き方では、なかなか現れないので、理解しにくいかもしれません。喜びと一緒に集中力があるならば、心の成長の栄養剤になります。ですから、集中することで起こる喜びについて学んだほうがよいのです。俗世間の喜びは、集中せずに心を散乱状態にすることで起こるのです。人気歌手のコンサートをイメージしてください。みな喜んでいると思っているのです。実際は、心を派手に散乱させて興奮しているだけです。コンサートを聴くことで、心が成長するというのはあり得ない話です。ダメな人間になってしまうことならできます。
集中して喜びか楽しみが生まれる働きについても、日常生活から理解することができます。この世で「オタク」という人々がいます。オタクとは批判的な単語かもしれませんが、実際はそうでもないのです。科学者たちも、研究者たちも、開発者たちも皆オタクです。文学者、音楽家、芸術家なども皆オタクです。要するに何かの専門家であるということは、オタクという意味です。しかしこのような人々は、コンサートを観て興奮する人間と違います。一般人と違った能力を持っているのです。傍から見て暗い人間だと勘違いして、オタクというレッテルを張っているが、このオタクの人々の能力は、皆の役に立っているのです。研究所に閉じこもって何年間も研究する科学者は、自分のことを暗いと思ってないのです。自分の人生は詰まらなくて退屈であると思ってないのです。けっこう喜んで、自分の研究を続けているのです。このようなオタクグループは、何か一つの仕事に集中しているのです。その仕事から喜びを感じるのです。その結果、プロになってしまうのです。一般人がびっくりする結果を出すのです。これで、集中力から生まれる喜びは人を成長させる、という法則を理解できると思います。

危険なオタク

しかし、オタクなら何でもいいというわけではないと、誰でも知っています。人類にとって危険なものに集中する人々もいます。大量破壊兵器、生物化学兵器などのオタクもいます。反社会的な運動に興味を持って活動する人々もいます。テロ活動も原理主義も一種のオタクです。最近はネット犯罪のオタクたちも現れています。このような人々も、自分がやっていることに集中しているのです。喜んでやっているのです。その結果は反社会的かも知れませんが、破壊的な結果になるかもしれませんが、やっている人々には一般人と違った能力があるのです。善であろうと悪であろうと、集中することと喜びを感じることで、能力が上がるのです。

能力と人格は異なります

能力向上のためには集中力と喜びが欠かせないと、これで理解できると思います。しかし、開発者・芸術家などの人々も、テロリストなども、悪のオタクたちも、感情で生きているのです。欲と怒りの感情に支配されているのです。感情は心の成長を妨げます。能力はあります。しかし、心は成長してないのです。これが結果です。優秀な科学者であるかもしれませんが、人格者とは言い切れないのです。

正しい喜びは人格向上を伴う

次に、集中力と喜びを使用して心を成長させる方法を学ばなくてはいけないのです。ポイントは明確になっていると思います。こころの成長を妨げるのは、貪瞋痴という感情です。1,500種類の煩悩です。煩悩が起こらない何かに集中して、その世界のオタクになれば、二つの結果を得られます。能力が現れます。心は成長します。

仏教は、やたらに喜びを感じなさいと教えてないのです。喜びたいと思っても、そう簡単にやすやすと喜べないことは前に書きました。何かをやっている時、喜びが生じたり、嫌な気持ちになったりもするのです。喜びだけ生じさせて、嫌な気持ちになることを無くしたいと思うならば、やっていることに集中することです。集中し始めると、まずは楽しみが生まれます。それから、それが喜びに変わっていきます。楽しみは刺激と似ていてレベルは高くないのです。喜びとは、刺激というより充実感なのです。楽しみは長持ちしませんが、充実感は長持ちします。

研究課題を選びましょう

次の問題は、煩悩が起こらない研究課題を選ぶことです。「何のオタクになればよいのでしょうか?」という話です。この問題に対する完全な答えは、仏教以外に無いと思います。宗教の世界でも、欲を無くすこと、怒りを収めること、自我を張らないことなどについて語っているようです。しかし、煩悩を退治して心を成長させる、ということに興味が無いのです。要するに、神のオタク、聖書のオタク、題目のオタクなどになるだけです。煩悩を無くす目的で、煩悩の解毒剤になる課題を選んで、そちらに集中しなくてはいけないのです。

道徳は最初の課題

適切な課題は、仏教ではいくらでもあります。誰でもよく知っている、五戒を守ることはその一つです。五戒を守ることに集中してみると、必ず人格は向上します。なぜならば、五戒によって煩悩が戒められるからです。真剣に五戒を守ると、かなり喜びが生じてくるのです。集中力がないと、五戒は守れません。五戒を守ると決めたところで、集中力も同時に実践することになるのです。ですから、見事な課題です。しかし心のなかにある煩悩も、すんなり退治されることはなく、攻撃を仕掛けてきます。煩悩が勝つと、五戒を守ることは苦痛になります。煩悩に勝つと、五戒を守ることによって喜びが生じます。充実感も生じて、人格が向上します。

慈しみから喜びへ

その他にも、たくさん方法があるのです。皆様方がよく知っている慈悲喜捨の実践は、すぐれた方法です。始めた時から、心の悩み苦しみが減って、喜びが現れてくるのです。いくらか進むと、自我という錯覚が減りつつ、智慧が現れてくるのです。人格向上は当たり前の結果です。智慧が現れたら、解脱に達することも可能です。

法随念の道

ブッダの教えを学んで理解すること、ブッダの教えが真理か否かを自分で確かめてみることも、立派な課題になります。
例えば、「すべての現象は無常である」と説かれています。自分が認識するすべてのものは無常であることを観察します。要するに、無常のオタクになるのです。
奇跡的に心と人格が成長するのです。智慧が現れるのです。無常随念という方法です。
「生きるとは苦である」と観察する苦随念、「現象には実体はない」と観察する無我随念もあります。
ひとは肉体に依存して生きるので、煩悩の泥沼に溺れているのです。成長できるどころではないのです。そこで、「肉体は不浄なものである。苦しみの原因である。病の巣である」などと観察する。不浄随念と言います。
ひとは誰でも、死ぬのは怖いのです。死にたくはないのです。決して叶わない希望なのに、その希望を捨てがたくて苦しむのです。心は決して成長しないのです。それなら勇気を出して、「生命たるものは皆、必ず死ぬのだ」と死を観察するのです。死随念と言います。
呼吸に集中して観察すると、高度な集中力が現れるのです。同時に喜悦感も起こるのです。禅定に達することもできるのです。この方法は呼吸随念と言います。

仏随念

もう一つあります。生命のなかでブッダほど優れた存在はいません。ブッダに完全たる智慧があるのです。完全な人格者なのです。ブッダに人を成長させる能力が具わっているのです。ブッダの言葉はそのとおりになるのです。完全に語るのです。語られた言葉は、誰にも訂正することはできないのです。梵天も神々もブッダの指導を仰いだのです。このように、ブッダとはどのような人格者でしょうかと観察する「仏随念」は、必ず清らかな喜びを作るのです。心は成長します。このようなさまざまな方法のなかで、「一切の現象は無常なので、いかなる現象にも執着するべきではない」という課題は、何よりも優れているのです。心が「無執着」を経験するのです。解脱に達して輪廻転生の無限の苦しみを乗り越えてしまうのです。
一切の苦しみを乗り越えて、解脱に達する道は、喜びを感じることから始まるものです。

今回のポイント

  • 心の成長に喜びが必要です
  • 喜びはやすやすと生まれません
  • 五欲に依存することで楽しみも苦しみも生まれます
  • 五欲依存の楽しみは生き延びるための刺激だけです
  • 煩悩は心の成長を妨げます
  • 煩悩の解毒剤になる課題を選んで喜びを作ります