パティパダー巻頭法話

No.236(2014年10月)

聖者になる道

修行者は不可能を可能にする Path of purity is open to all.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Chinda sotaṃ parakkamma
    Kāme panuda brāhmana
    Sankhārānaṃ khayaṃ ñatvā
    Akataññūsi brāhmana
  • バラモンよ 断ち切れ流れを 努力せよ 諸欲を離れ もろもろの
    現象の滅尽知り究め 無爲知るものたれバラモンよ
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 383)

バラモンに達する道

今回の経典は、簡単に読めるかもしれませんが内容は難しいです。
ですから、経典で使っている仏教用語に解説を加えたいと思います。お釈迦様が修行者に、「阿羅漢になりなさい」と直接、戒めているところです。こちらでは阿羅漢という単語ではなく、 brāhmano という言葉を使っています。 Brāhmano とは、ふつうバラモン人のことです。 ヒンドゥー教の聖職者カーストを brāhmana と言うのです。しかしお釈迦様は、人間は生 まれつきでは聖職者にならない、というスタンスを取られます。ひとが修行して一切の煩悩を断って、完全たる人格者にならなくてはいけないのです。心の汚れを捨てて完全たる人格者になった人こそが brāhmana である、と説かれるのです。要するに、ブッダの説かれた道を実践して覚りに達する人が brāhmana です。

Brāhmana という単語は、「優れた人」という意味です。ヒンドゥー教の聖職者たちは、その単語をカースト差別するために使っていました。
お釈迦様は「あなたがたは brāhmana(優れた人)という看板を掲げているが、心は汚れている、卑しい性格を持っている人々ではないか」というようにカースト差別を批判するのです。ですからあえて、brāhmana という単語を本来の意味で使うことにしたのです。それはヒンドゥー教の堕落した有り様に対する攻撃です。現代ではヒンドゥー教という名前が使われていますが、当時は特別な名前はありませんでした。ただ自分たちが「正統派の宗教家」という立場を取っていたのです。

バラモンカーストの家で生まれたからといって、真のバラモンにはなりません。煩悩を断って解脱に達してこそ、真のバラモンになるのです。
ひとのカーストも、人種や民族も、性別も、関係ありません。お釈迦様は「努力してこの流れを切りなさいChinda sotaṃ parakkamma」と、バラモンに達する道を説かれるのです。

「流れ」とは何か

そこで問題は、「流れ」とは何なのか、ということです。
仏教は、「ものごとが有る」という考えは間違っているのだ、と説きます。「有る」ということだけではなくて、「無い」ということも間違いなのです。ものごとが有る(存在する)という考えも、ものごとが無い(存在しない)という考えも、極論です。真理ではないのです。一切の現象は、絶え間なく変化して流れているのです。有るというのも、無いというのも、錯覚です。偏見(偏った見解)です。例えば、川のことを考えてみましょう。「川が有る」と一般的な立場から言えます。よく見ると、地表にある溝のなかで水が流れているだけの話です。溝に水が流れるだけで、川と言うべきでしょうか?

ですから、川というのは人間の勝手な考えで、実際は「川が無い」とも言えます。これはただの見方の問題であって、真理のほんとうの姿を説明したわけではないのです。川であれ、地球であれ、太陽であれ、宇宙のその他の星々であれ、すべて止まることなく変化し続けているのです。如何なる現象にも、独立して存在することはできません。様々な原因に支えられて、顕れている現象なのです。太陽というのは、個体的な物質ではなく、水素が絶え間なく核融合して莫大なエネルギーを放出している組織なのです。その働きが止まったら、太陽の存在も終わるのです。ですからお釈迦様は、「一切の現象は因縁によって顕れて、その因縁が消えると滅するのだ」と説かれるのです。その真理をより分かりやすい言葉に変えて、「一切の現象は無常である」と説かれることにもしたのです。すべての物質は無常です。私たちの身体も無常です。心も無常です。感情も思考も無常です。我々の判断も無常です。存在しないものに、無常と言う必要はないのです。例えば、「人間の翼は無常ですか?」というのは無意味な質問です。無常とも無常でないとも言えないのです。もともと存在しないからです。しかし、人間は無常です。翼という物体も無常です。「人間の翼」というフレーズは、単なる妄想の遊びです。

五つの「流れ」を切る

では、経典に戻りましょう。「流れを切る」というフレーズの意味は何でしょうか?
一切の現象は流れであり無常であるならば、「切る」は成り立たない単語になります。例として、「川の流れを切る」というフレーズを考えてみましょう。それは切れないのです。川の道を変えることはできます。ダムを作って、流れる水が貯まるようにすることもできます。しかし、水は流れるのです。頑丈なダムを作って川の流れを完全にカットしても、水は流れるのです。やがて人間に大変な損害を与えて、すべて壊す可能性もあるのです。ですから、「流れを切る」ということは、物質の場合は成り立ちません。

お釈迦様が仰っているのは、心の流れのことです。思考の流れのことです。感情の流れのことです。それを切ることも、そうとう難しいのです。だから、努力しなくてはいけないのです。パーリ語の単語は parakkamma です。その意味は、桁外れの努力、ということです。桁外れの努力をして、解脱に達するのです。Brāhmana になるのです。

切るべき「流れ」は五つあります。ひとつずつ勉強してみましょう。

「渇愛の流れ」を切る

tanhā sota 渇愛の流れ

眼耳鼻舌身意で色声香味触法を認識するたびに、渇愛が生まれるのです。渇愛は三種類ですが、ここでは省略して、存在欲だけにしましょう。六根で六種類の情報を感じること、認識することで、「生きている」と言うのです。私たちは何かを見て、満足して終了しないのです。見続けるのです。眼があるかぎり、見続けるのです。「生きていきたい」という渇愛があって、「見たい」という意欲も起こるのです。見たら、さらに見たくなるのです。この流れはストップしないのです。眼は物質なので、その流れは切れません。眼に入る色 しきという対象も物質なので、その流れも切れません。しかし、桁外れの努力をすれば、渇愛が生まれることをストップすることができます。

私たちには、絶え間なく流れる、「生きていきたい」という意欲があるのです。存在欲があって、この世に生まれたのです。その瞬間から、渇愛が流れているのです。修行する人は、一切の現象は無常であると発見します。生きるということも、固定的なものではなく、瞬間瞬間の感覚の流れであると発見するのです。ですから、「自分が存在する」という言葉も、「自分が存在しない」という言葉も、成り立たないのです。それは邪見です。その真理を発見すると、六根の認識機能があっても、渇愛の流れは無くなるのです。川の例えでも理解できます。川の水が流れて海に注いだら、川が終わるはずです。しかし、川は消えないのです。その理由は、一滴の水が流れゆくと、新たな一滴の水がそちらに入るからです。川に外から水が入ることが無くなったら、川は消えてしまう。心のなかで、今まで絶え間なく渇愛の流れがあったのです。一つの渇愛が消えると、次の瞬間の認識から新たな渇愛が起こります。そこで、真理を発見した人は、新たな渇愛が生まれないようにするのです。智慧が顕れたら、新たな渇愛は生まれないのです。それが、渇愛の流れを切ったことになります。

「見解の流れ」を切る

ditthi sota 見解の流れ

ひとに無明がある限り、人の認識・判断は「見解」になるのです。見解とは、偏見のことです。ほんとうの姿を発見しない限りは、見解に達するしかないのです。例えば、科学世界を見てください。何かデータを発見したら、科学的な理論を作るのです。しかし、すべてのデータが分かったわけではないのです。新たなデータが入ると、前の理論を変更して、新たな理論を作るのです。新たなデータの立場から見ると、前の理論は偏見です。さらに新しいデータが入ったならば、いまの理論も偏見になります。我々はものごとを知り尽くしてないのです。それでも、知識をつくっているのです。従って、すべての知識は偏見になるのです。

人間が日常使っている偏見は、それほど大きい問題は作りません。このご飯は美味しい、この花は美しい、などの知識も偏見です。しかし、それほど問題にはなりません。足枷になる偏見は、「私がいる、私が存在する、私という実体がある」という考えです。それは、ものごとの本当の姿を分かっていないから起こる偏見なのです。その偏見は危険です。無常なる現象について、執着を作るのです。無常なる現象に執着することは不可能です。なのに、我々には執着があるのです。それによって、輪廻転生して生き続けるのです。生きることは苦なので、喜んで苦を輪廻転生させているのです。この偏見に対して、反対の偏見もあります。「私はいない。私は存在しない、私とは皆無です」という考えです。この偏見に陥る人々は少ないのですが、これも危険です。私が存在しないならば、私は何もする必要がないのです。努力する必要も、真理を発見する必要も、心を清らかにする必要も無いのです。このような邪見に陥ったら、もともとの感情である存在欲のままで生き続けるのです。努力しないから心が成長することもないし、いまある煩悩が消えることもない。仏道を実践して智慧が顕れない限り、私たちの知識はすべて偏見の流れであると理解するべきです。

仏教徒たちは、「悪を犯してはならない、善行為を行なうべきです、道徳を守るべきです」という考えを持っているのです。ブッダが説かれた言葉なので、その考えが間違っているわけではないのです。しかし一般人には、それさえも偏見になります。智慧が顕れたら、善悪という差別思考さえも無くなるのです。すべては無常、ということに達するのです。

「煩悩の流れ」を切る

kilesa sota 煩悩の流れ

基本的な煩悩は、無明と渇愛という二つです。この二つは絶え間なく流れるものです。しかしこの煩悩に、仲間が顕れてくるのです。欲・怒り・嫉妬・憎しみ・落ち込み・慢・他を見下す気持ち・自分を過剰評価する気持ち、等々が顕れるのです。煩悩は千五百です。これも絶え間なく流れるのです。

「悪行為の流れ」を切る

duccarita sota 悪行為の流れ

悪い性格、悪い生き方、という意味です。悪行為をするようになったら、やめられないのです。悪循環になるのです。ひとつ嘘をついたら、次にその嘘がばれないよう、新しい嘘もつくはめになります。次にそれを隠すために、また新しい嘘をつくのです。ほかの悪行為の場合も、必ず悪循環が生まれてくるのです。ひとは悪行為を軽んじてはならないのです。

「無明の流れ」を切る

avijjā sota 無明の流れ

これが真犯人です。無明とは、「真理を発見してない」という意味になりますので、誰にでも本来あるものです。無明があるから、生きることに執着するという存在欲が顕れるのです。無明があると渇愛がある。渇愛があるとは無明があるということです。他の煩悩の場合も同じ法則です。ひとが怒ったというならば、その人に無明があるのです。ひとが嘘をつくなどの罪を犯したというならば、その人に無明があるのです。

無明とは真理を発見してないということなので、真理を発見する努力をしない限り、絶え間なく流れるのです。例えば人が、「数学は分かりません」と言う。そのままでいるならば、ある日突然、その人に数学ができるようにはなりません。数学が分からない状態が、絶え間なく流れるのです。ですから、無知・無明とは、いとも簡単に流れるものです。根本煩悩である渇愛にしても、新しい渇愛を作って流れを作るために、たとえ微妙でも努力しなくてはいけないのです。時々、私たちは、「どうでもいいや」という気分になります。
その時、存在欲が弱くなっているのです。しかし、無明の場合は立場が違うのです。必ず流れるのです。ですから、輪廻転生の真犯人は無明です。無明は、桁外れの努力をして智慧を開発した瞬間に消えるのです。

諸々の欲を離れる

お釈迦様は、この流れを切ることを推薦しているのです。次の言葉は「kāme panuda 諸々の欲を離れ」です。
それは存在欲の仲間のことを示しています。眼で何かを見ると、無意識のところで存在欲が顕れるのです。意識するところで、見えたものが美しい、さらに美しいものを見たい、という気持ちになるのです。この二次的に顕れる感情に「欲(kāma)」と言うのです。では、見えたものが美しくない、気持ち悪い、怖い、という感情が起きたら、どうなるのでしょうか?

それは欲ではなく怒りです。しかし、こんなものは見たくない、という欲が顕れているはずです。ですから、怒りも kāma の一部です。
修行する人は、最初から kāma が顕れないように精進するのです。一般の方々には難しいことかもしれませんが、修行する人にとっては kāma が顕れないように精進することはそれほど難しくありません。修行者は精進して、智慧が顕れるようにするのです。そうしないと「流れ」は切れません。

涅槃を体験する

次の言葉は「sankhārānaṃ khayaṃ ñatvā 現象の滅尽知り究め」です。
智慧が顕れて無明と存在欲の流れを切るためには、欠かせない発見です。まず、「一切の現象は無常である」と発見する。無常とは、生じて滅する流れのことです。それから、現象の滅する姿に集中するのです。「一切は消えてゆくものである」という、さらに優れた智慧が顕れるのです。この智慧によって、すべての執着を断つことができるようになるのです。

次の単語は、「akataññūsi 無爲知るものたれ」です。
この言葉は駄洒落のようなものです。パーリ語を知っている人々は、 akataññū とは「恩知らず」という意味であると知っているのです。お釈迦様は、真理を面白く語りたいのです。ですから少々、謎かけをするのです。経典を読む人は、「恩知らず? あり得ない。この意味は何だろう?」と思ってしまうのです。
akatamとは、涅槃のことです。因縁によって顕れない、という意味です。因縁によって作られたものではありません。それを知りなさいと仰るのです。要するに、「涅槃を体験しなさい」という意味です。それで真の brāhmana になるのです。

今回のポイント

  • ひとは誰でも、努力すれば聖者になるのです
  • 無明と渇愛は絶え間なく続く流れです。断つべきものです
  • 諸々の現象も流れです。断つ必要はありません
  • 無明には煩悩という仲間がたくさんいます
  • 智慧を完成したら涅槃を体験できます