No.240(2015年2月)
輝ける人生を目指して
心配しなくても生きられる Glory of life
経典の言葉
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Divā tapati ādicco
Rattimābhāti candimā
Sannaddho khattiyo tapati
Jhāyī tapati brāhmano
Atha sabbamahorattim
Buddho tapati tejasā
- 日、昼に輝き 月、夜に照る
王族、武装に輝き バラモン、禅思に輝き
ブッダ威光もて、昼も夜も すべての時に光り輝く - 訳:江原通子
- (Dhammapada 387)
生かす力は業
生命は、いったん生まれてから死を迎えるまでの間、生き続けるために必要な能力を持って生まれるのです。その能力に、仏教用語で業・kammaと言います。業とは、他人に与えることは不可能な個人財産です。輪廻転生する時は、自分の業のみを持って転生するのです。業とは固定したものではなく、身口意の行為により心に溜まるポテンシャルなのです。増えたり減ったり無くなったりするものです。
どのように生まれても、その生を全うするまで生かす力が業にあるならば、生きることについてそれほど心配する必要も無いのです。しかし、その時点で私たちは、大いに心配するのです。将来どうなるのか、健康でいられるのか、災難に遭遇したらどうしようか、長生きできるのか、云々について心配します。その心配だけでは足らないと思っている人々は、家族はどうなるのか、子供の将来はどうなるのか、国の将来はどうなるのか、世界は大丈夫なのか、資源が無くなったらどうしようか、などなどと心配項目を増やして、さらに心配するのです。悩むのです。
影響を受けて業が変わる
とはいっても、すべてを業に任せて何の努力もしない生きかたは、決して良くないのです。暗い運命主義者になるのです。増やそうとすれば、心配項目は無限に増やせます。それでは、生きられなくなります。生まれを司った業に、正しく働けない条件をつくったことになります。私たちは、心配項目を増やす努力ではなく、減らす努力をしなければいけないのです。減らしていくと、どうしても減らせない具体的な心配事、悩み事だけ残ります。運命論者にならないで、その悩み事を無くすために努力するのです。努力したからといって、悩み事は簡単には消えません。我々の努力が、私たちの命を司る業に影響を与えなくてはいけないのです。影響を受けて業が変わらないと、人生は変わらないのです。悩み事は無くならないのです。
人々はみな、努力して生きているのです、しかし頑張っただけでは物事はうまくいかないのだと、みな知っているはずです。努力が業に影響を与えたならば、人生は変わるのです。みな実感できないので、業の働きを無視するのです。生きるうえで、業のことも気にしたほうがよいのです。貪瞋痴、怒り恨み憎しみ、嫉妬、傲慢、などの感情で努力すると、業が悪影響を受けて変わります。生きかたもそれに適応して変わってしまいます。慈しみの気持ちで努力するならば、業がとても善い影響を受けます。業がつよくなるだけではなく、浄化もします。それなら、希望どおりに幸福に生きていられます。
生まれつきの生きる力
それから、生まれつき付いてくる業について、少々、考えましょう。動物を観察すると、この働きは簡単に理解できます。ヘビは毒を持って生まれる。それで餌をとることも、敵から身を守ることもできるのです。カメレオンは環境に合わせて身体の色を変える。三百六十度見られる眼を持っている。眼に見えない早さで伸びる舌を持っている。これで心配なく生きられます。このようにどんな生きものを調べても、生存するために必要な能力を持って生まれていることが分かります。生きることは誰にだって大変な闘いになりますが、あえて困ることはありません。空を飛ぶ鳥たちは、馬のような速い脚がついていないことに困らないのです。速く走れる馬は、翼もついていたほうが良いのではないか、と困ることもありません。シマウマの身体が孔雀のように美しくなったら、大いに困るはめになります。それぞれの生命は、困ることなく、各自の生きる闘いに挑んだほうが良いのです。
生きる力を悪用している
問題は人間です。人間だけが、「鳥のように空を飛べればいいなぁ」と思う存在です。余計なこと、不自然なことを考えるから、人間が生きる世界は余計なことばかりに溢れているのです。不自然でたまらないのです。あってはならない争い、戦争、自然破壊などが起きているのです。人間という種が、持って生まれる能力は何でしょうか?
それは考える能力です。道具を作って、自分の弱みに勝つのです。人間についている「考える」という能力は、世の他の生命が持っている全ての能力よりも恐ろしいものです。動物は、自分の能力をどの程度で使えばよいのかと知っています。命を守ること以外、決して無駄に使わないのです。ヘビが猛毒を持っていても、あらゆる生命を噛んで、毒の効き目を試してみようとは決してしないのです。人間の場合は、「思考能力を持っている。しかし、使い方が分からない」という状態です。そのうえ、その能力をみだりに使っているのです。
思考は妄想に変わる
考える能力をみだりに使うとは、妄想することです。思考にはリミットがありますが、妄想にはリミットが無いのです。自分も他人も環境も破壊するところまで、妄想の力を使うのです。業がついているから、生きることは本来、心配する必要のない出来事です。人間だけが、心配に陥るのです。自分がどう生きればよいのかと分からなくなるほど、頭で心配し続けるのです。まともな思考をすることもできなくなるまで、心配し続けるのです。寿命をまっとうするまで生きる力を持って生まれたのに、無駄に心配することで、早死にしてしまうケースも多いのです。
自分探しの意味
日本では、「アイデンティティ」という言葉をよく使っていた時期がありました。ある時期、「自分探し」という言葉も流行っていました。自分のアイデンティティが分からなくなって、その言葉まで忘れてしまいました。自分探しをしても、何も見つからなかったので、その言葉も、いまは使えなくなりました。まとめて言えば、余計なことを妄想したに過ぎないのです。能力を無駄遣いすると生命力が無くなるので、生きることが退屈になって、自分探しをやめてしまったのです。
この問題を仏教の視点から考えたことがあります。皆、大それたことを探していたわけではないのです。単純に、「私はどうすればよいのか? 私に合う生きかたは何なのか?」
と悩んでいただけです。気づくことが難しい、自分の業を探していたのです。ですから、何も見つからないままで探求が終わったのです。一般的な観察では、業を見つけることはできません。しかし、業の働きの一部である「自分を生かす力」を見つけることができれば、とても役に立ちます。悩むこと無く生きられます。
アイデンティティとキャラ
新しく定義します。「アイデンティティとは、自分を生かす力のことです。業の働きの一部です。」もっと単純に言えば、自分に適した仕事のことです。皆に自分のアイデンティティが既にあるのです。自分で自分探しをするとは、成り立たない話です。探すべきなのは、「自分がどう生きればよいのか?」ということです。猫が猫探しする必要はありません。既に猫なのです。猫としてどう生きれば良いのか、と学べば充分です。芸能人のあいだでは、「キャラ」という単語があります。キャラクターとは、人の性格のことです。しかし、キャラはその意味ではありません。キャラとは、売れるために自分で考えだして演じる、性格まがいなものです。わざと作らなくても、自分のキャラは自然に出てくる場合もあります。有名な芸能人は、その類の人々です。芸能人は自分のキャラで生きているのです。それが仕事なのです。アイデンティティという間違った単語を使って、困る必要はないのです。キャラは悪役であっても、その芸能人は決して悪人ではないのです。ですから、個人の性格と、個人がどのような能力を活かして生きるのか、という二つの現象があるのです。
性格は私 、キャラは公
社会で問題を起こさない限り、世界は人の私的な性格に対して無関心です。しかし、キャラについてはそうではないのです。キャラは個人の公 おおやけ の側面なのです。どんな人間も、仕事をして生計を立てて、生きていかなくてはいけないのです。人間として生まれたならば、人間として生きる力も、生まれつき持っているのです。それを早く見つけて、明るく生きなくてはいけないのです。能力の無い人間は生まれてこないのです。自分に適した仕事を見つけることは、それほど難しくないような気がします。先に理解して欲しいことがあります。やりたい仕事とやれる仕事は、必ずしも一致しないのです。やりたいと思って必死になっている仕事は、もしかすると妄想をみだりに使った結果かもしれません。やりたい仕事より、やれる仕事を優先したほうが良いと思います。自分の業が与える能力に適した仕事をする時、ストレスはかからないのです。簡単にできるのです。落ち着くのです。能力も無いのに、やりたい仕事に就いて一生苦労する必要はないのです。
ひとの公の側面はその人のキャラです。単語は間違っているが、その人のアイデンティティです。その人に生きるために必要な収入を与えてくれる、仕事のタイプでもあります。皆、早く自分のキャラを見つけて欲しいのです。世界は、自分をそのキャラで受け入れるのです。医者、弁護士、政治家、投資家、起業家、銀行員、公務員、教職員、サラリーマン、専業主婦などなどは、キャラなのです。その能力で生きなくてはいけないのです。他人のキャラを羨ましがったり、真似したりしてはいけないのです。自分のキャラを見つけた時点から、生きることが楽になります。それが業ということです。
輝ける人生とは?
現代社会の情況に合わせて、生きることと業の関係を説明しようとしましたが、話はややこしくなったかもしれません。お釈迦様の時代、このポイントは笑えるほど簡単に、さらに完璧に説かれているのです。
太陽のキャラは何ですか?
日中、輝くことです。
月のキャラは何ですか?
夜、輝くことです。
太陽が月の仕事を羨ましがって、月のような仕事をすれば、どうなることでしょうか?
自然の摂理はすべて壊れます。
それぞれのキャラで頑張ってほしいのです。
クシャトリヤ・カーストのキャラは、国を軍人として守ることと、政治活動です。クシャトリヤの人は、武装していると輝くのです。
大将軍は国王です。王も冠をかぶって玉座に坐っていると輝くのです。
要するに自分のキャラを発揮できる時こそ、その人は輝いて生きているのです。
出家のキャラは、修行することです。修行中である時、禅定に入っている時、出家修行者は見事に輝いて生きているのです。
各人の輝きより、はるかに優れた輝きを持っている人は誰ですか?
誰よりも優れたキャラを持っている人は誰ですか?
一切の仕事より優れた仕事をこなしている人とは誰のことですか?
太陽は日中だけ輝く。月は夜だけ輝く。日夜に関係なく、すべてを超え て輝いて生きている人とは、誰のことですか?
答えは、ブッダです。ブッダにも、正覚者というキャラがあるのです。
お釈迦様は八十歳になるまで。正覚者としてご自分の仕事をなさってきたのです。ブッダが行なった仕事に勝る仕事は、世に存在しないのです。
今回のポイント
- 生きることに心配する必要はありません
- 生きる術は皆に生まれつき付いています
- 人間だけが生きる術を悪用しています
- 余計な思考・妄想で余計な悩みが生まれます
- ひとは自分のキャラを見つけて輝いて生きるべきです