No.242(2015年4月)
聖者をモデルにして生きる
聖者と付き合うことで幸福になる Follow the footsteps of the enlightened ones.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Na brāhmanassa pahareyya
Nāssa muñcetha brāhmano
Dhī brāhmanassa hantāram
Tato dhī yassa muñcati - Na brāhmanassetadakiñci seyyo
Yadā nisedho manaso piyehi
Yato yato himsamano nivattati
Tato tato sammatimeva dukkhaṃ
- バラモンを打つことなかれ
バラモンに憤り放つことなかれ
バラモンを打つは厭 わしい
〔バラモンに〕憤り放つことはさらに厭わしい - それよりも優れたことあり
〔バラモンに〕好意を持ち心制御すること
〔バラモンへの〕害意を消してゆくこと
その度に苦しみは消えてゆく - 訳:アルボムッレ・スマナサーラ
- (Dhammapada 389,390)
釈尊の出家比丘弟子たちの僧長(aggasāvaka)は、サーリプッタとモッガッラーナという両尊者です。お釈迦様は、サーリプッタ尊者に智慧第一という称号も与えたのです。
ということは、釈尊以外すべての生命のなかで、智慧が一番優れた方でもあります。サーリプッタ尊者は、とても面白い聖者なのです。謙虚な生き方をするにあたっては、サーリプッタ尊者の右に出る人はいません。その謙虚ぶりは、お釈迦様も少々困ったほどでした。釈尊はサーリプッタ尊者に、ご自分と同じく弟子たちを厳しく躾するリーダーとして活躍して欲しかったのですが、尊者は一度たりとも上位の立場でものを言わなかったのです。
サーリプッタ尊者が、何が起きても気にせず落ち着いていることは、弟子たちの間で話題になっていました。比丘たちは「サーリプッタ尊者は何があっても怒りません。怒らせることは不可能です」と言うのです。阿羅漢が怒らないのは当然のことです。怒らせることも不可能です。しかし、他の阿羅漢たちと違った何かが、尊者にあったのです。それは、何が起きても気にしない、ということではないかと思います。
尊者を試そうとしたバラモン
ある時、比丘たちのこの話を聴いた一人のバラモンが、「怒らせることが不可能ということはあり得ない」と思って、尊者を怒らせてみようと決めたのです。バラモンは、朝、托鉢に出かける尊者の後ろからこっそり近づいて、力いっぱい尊者の背中を殴りつけました。そして、尊者の反応をうかがっていたのです。しかしサーリプッタ尊者は、振り向くことも止まることも、足を速めることもなく、そのまま進んでいく。何ひとつも起きなかったような感じです。
バラモンは心底、驚きました。身体が燃えるような感じがして、汗がダラダラと流れたのです。バラモンたちは仏教徒ではないが、修行者を非難・侮辱することを避けます。仙人を怒らせることで、子々孫々、ひどい罰を受けるはめになると信じているからです。震えるバラモン人は尊者の前に回ると、土下座して謝りました。「どういうこと? 何かあったのですか?」と訊く尊者に、そのバラモンは「尊師、私は後ろから尊師を殴ったのです。その罪を許してください」と返事したのです。「そういうことなら、あなたを完全に許します」と尊者が答えると、バラモンは「私を本当に許していただいたなら、尊師の鉢を私に預けてください。私の家で食事のお布施を受け取ってください」と請願しました。尊者は願いを受け入れ、そのとおりにしたのです。
この事件を目撃した一般人は、バラモンが修行者を苛めたことに激怒しました。そして抗議するべく、そのバラモンの家を包囲したのです。しかしサーリプッタ尊者は、食事の布施を受けた後、そのバラモンの手を取って外に出たのです。激怒している人々は、「尊師、バラモンの手を離して、私たちに引き渡してください。聖者を殴ってただで済むわけはありません」と訴えます。尊者は「殴られたのはあなたがたですか? 私ですか?」と問いかけます。「尊者です。私たちではありません」と答えると、尊者は「そういうことなら、私はこの人を完全に許しました。問題は見事に解決しました。もう彼は悪人でも何でもないのです」と答えました。偉大なる方々の性格とは、このようなものなのです。
サーリプッタ尊者にまつわる、似たようなエピソードはいくつかあります。しかし、この出来事を一般の出家弟子たちが問題にしたのです。「バラモンは尊者を殴って非難を受けることさえも無く、うまく逃げおおせて無罪になった。彼や他のバラモンたちは、これから何の躊躇もなく私たちを貶したり苛めたり殴ったりすることでしょう」と。これは大きな問題です。「尊者は怒らないし、怒らせることも不可能である」と称賛していた比丘たちの態度が変わってしまったのです。
真理が真理を実践する人々を守る
この一連の出来事が釈尊に報告されました。お釈迦様は、「バラモンがバラモンを殴ることは決してないのです。これはただの在家バラモン・カーストの人がやったことです」と説かれるのです。釈尊の言葉では、バラモンとは聖者のことです。バラモンというカーストに生まれた一般人のことではないのです。聖者とは、煩悩を断って心を清らかにした方々です。ですから、バラモンがバラモンを殴る、ということはあり得ないのです。しかし、比丘たちが問題にしたことにも一理あります。仏弟子たちは、如何なる場合でも人を攻撃しないのです。敵に対しても慈しみを抱くのです。宗教の世界は、怒り・嫉妬・憎しみ・傲慢・迷信などの泥沼に生息するものです。宗教家は、愛を謳いながら何の躊躇もなく他を攻撃するために武器を持つのです。ですから、仏教徒には宗教の世界で生き延びることができなくなるのです。しかし、仏教徒が真剣に非暴力主義で忍耐と慈しみを実践するならば、その真理が真理を実践する人びとを守るのです。(dhammo have rakkhati dhammacārī.)真理が真理を実践する人びとを守ったから、他を攻撃することが常識になっているこの世で、仏教は生き延びられたのです。
聖者を非難・侮辱しない
この問題について、お釈迦様が説法なさったのです。
Na brāhmanassa pahareyya
バラモンを殴らないこと、という意味です。
Pahareyya という動詞は、殴らないこと、という意味になりますが、攻撃する、非難・侮辱する、というニュアンスも入っているのです。
Brāhmanassa とは、バラモン・カーストの人びとのことではなく、煩悩を断って解脱に達している聖者のことです。聖者を非難・侮辱することで、一般人はたいへんなダメージを受けます。真理を体験しているのは聖者だけです。一般人は迷いの世界で生きているのです。存在欲と恐怖感を破ることができず、輪廻転生しているのです。このような人々に、幸福への道案内をできる能力を持っているのは、釈尊か聖者たちなのです。その聖者たちを軽視する気持ちになったら、それはすべての幸福に鍵をかけたようなことになります。
他者を軽視する気持ちは心の毒
聖者に関わらず、他の人々に対しても軽視する気持ちは正しくないのです。我々には一般の社会からも学ぶべきことがいっぱいあります。時には子供たちの言葉からも、大事な話が生まれるのです。子供の言葉だと見下す気持ちになったら、そのポイントは頭に入らないのです。世間では、学識が無い、ふつうの労働者、社会的な立場が無い、まったく無名、などと言われる人々もいます。しかし人格は、世間の肩書に合うものではないのです。世界的に認められる大教授であっても、田舎の学問の無いおじさんおばさん達から学べるものが結構あるのです。このようなすべては人格に関するものです。ですから、他を軽視する気持ち、人を見下す気持ちは、心の毒であると捨てたほうがよいのです。完全たる人格者である聖者を非難・侮辱・見下す気持ちになることは、話にならないほど悪行為なのです。聖者を非難した人は、その過ちを改めない限り、瞑想修行しても成長は現れないのです。
聖者に対して怒るなかれ
ひとはストレスや怒りなどが溜まったら八つ当たりします。会社でトラブったら、家に帰って奥さんに当たります。奥さん達も、自分の仲間の間でトラブルが起きてストレスが溜まったら、仕事が終わって家に帰る旦那に当たります。子供たちも自分のストレス、親に対する不満などを気が弱い仲間の一人を選んで、その人に当たります。それで殺人事件まで起こることもあります。八つ当たりは愚か者の態度です。八つ当たりするためには、反撃しない人を選ぶのです。凶暴な人には誰も八つ当たりしないのです。完全に非暴力主義を実践する、慈しみに溢れている聖者と出会うことは、八つ当たりする相手を探している人にとって絶好なチャンスになるでしょう。しかしそれだけは絶対してはいけないのです。聖者は攻撃しないが、加害者は自分が幸福になる道を完全に壊すのです。
Nāssa muñcetha brāhmano とは、聖者に対して自分の怒りを発散してはいけない、という意味です。
聖者の敵視は厭わしい
Dhī brāhmanassa hantāraṃ.
この行の言葉の意味は、聖者を打つことは厭わしい、ということになります。しかし注釈書は、聖者を殴ることではなく、非難することが厭わしいと解釈しています。その意味が正しいのです。殴ってはならないことは、第一行で説かれていますから。非難することよりも厭わしい行為は、聖者に対して怒りを抱くことです。聖者に当たって、自分の怒りを発散することです。これは tato dhī yassa muñcati の意味です。
聖者と付き合うことは優れた行為
聖者を非難したり軽視したりすることは、自己破壊の道になるのです。安全なのは聖者と仲良く付き合うことです。「聖者を尊敬しなさい」と突然言われても、仏法を知らない人、他宗教の人には難しいことになります。しかし人間として仲良くすること、付き合うことは不可能ではないのです。ひとと付き合うと、その人から学べるものは学んでしまうのです。聖者は完成した人格者なので、その影響力は他の人間にないのです。ですから、聖者と付き合うだけでも、自分の人格が向上するのです。悪行為をできなくなるのです。
聖者と付き合うことは優れた行為です。
以上が、Seyyo yadā nisedho manaso piyehi の意味です。
聖者たちを社会の非難から守る
ひとが行なうべき、もっとすばらしいことがあるのです。(Yato yato himsamano nivattati.)それは聖者たちを社会の非難から守ることです。「心清らかな人々を非難してはならない。軽視してはならない。その方々から、我々は学ぶべきです」という考えが社会の常識になるようにすることで、社会全体が良くなるのです。
聖者を模範として幸福を築く
心を清らかにした、人格を完成した、苦しみを乗り越えた、智慧を開発した、慈しみに溢れる聖者を人類の模範にすることで、人々にも輪廻転生という苦しみから脱出することができるのです。(Tato tato sammatimeva dukkhaṃ.)
聖者は拝むものではなく付き合うべき存在
仏教と修行者を弾圧してはならないと、世間に命令することはできないのです。非暴力主義者は、悪人の八つ当たりの対象になりやすいのです。世界の人びとが真の幸福を求めるならば、平和で皆仲良く生きていきたいと思うならば、災難を避けたいと思うならば、心清らかにした聖者たちの話を聴くか、聖者たちと付き合ってみるか、です。心清らかにする人を社会が尊敬するならば、その社会は問題の無い、良い社会になるのです。ひとは人の影響を受けて成長するものです。影響を受けるべき絶対的存在は、聖者なのです。お釈迦様は、聖者を信仰しなさい、拝みなさい、とは仰っていないのです。付き合いしなさい、仲良くしなさい、と説かれるのです。要するに聖者とは、先輩である友人なのです。
お釈迦様はこのように、事実を明らかにしたのです。人間に命令して、人間の自由を奪っていないのです。
今回のポイント
今回の389、390偈について、従来の訳の意味を採用せず、解釈を変えました。
389偈の従来の訳では、「バラモン(聖者)を殴るなかれ、殴られたバラモンは怨みかえすなかれ」のようになっています。バラモンとは怒りを根絶した聖者です。怨みかえすことはあり得ないのです。そのようなケースは仏典には一つも見当たらないのです。心に怒りがまだ残っている、預流果に達した聖者たちでさえ、怒りかえすこと、怨みかえすことなどは無かったのです。ダンマパダの注釈書でさえ、「バラモンは怨みかえしてはならない」と解釈していますが、それでは仏教の教えと全体的に合わないのです。
390偈も、既存の訳では「バラモンは怒りを抑えるたびに苦を無くしてゆくのだ」という意味にとっています。それは一般人にとっては事実ですが、心清らかにした聖者には当てはまらないのです。苦しみを乗り越えた聖者のことをバラモンと呼びます。この二つの偈では、聖者のバラモンと俗世間的なバラモン・カーストという二つの意味で理解することも不可能です。バラモンとは仏弟子のことである、という意味付けははっきりしています。
大胆に偈の解釈を変えましたが、自信があるというわけではありません。読者は既存の訳と私の訳のどちらを選んでも構わないのです。