No.251(2016年1月)
執着は楽しみを壊す
輪廻のなかに真の幸福はない Existence is not exciting
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Chetvā naddhim varattañca
Sandānaṃ sahanukkamaṃ
Ukkhittapalighaṃ buddham
Tamahaṃ brūmi brāhmanaṃ.
- ①紐と②皮緒と③綱④付屬⑤閂(かんぬき)をまで引拔きて
障礙滅せる覚者こそ そをバラモンと我は説く - 訳:江原通子
- (Dhammapada 398)
挨拶
仏法僧のご加護により、二〇一六年も幸福に満ちた年でありますようにと祝福と誓願をいたします。困ること悩むこと心配することが何もなく、自由な気持ちで新年を祝うことができれば幸いではないでしょうか? 悩むことがある、心配することがあるとは、こころに束縛があるという意味です。束縛は精神的な癌のように人を苦しめるのです。今月は束縛の仕組みについて勉強してみましょう。
荷車を牽く牛
ふたりのバラモン人が「私の牝牛はあなたの牝牛より力持ちである」と自分の牛を自慢しあっていたのです。どちらも負けたくはなかったので、勝負をすることにしました。河原で荷車一杯に砂利を積んで、牛をその車に繋いで走らせたのです。すると、牛を車に繋いだ革紐が切れて、くびきも壊れてしまいました。二台の車とも、砂道の上で立ち往生してしまったのです。たまたま沐浴のため川に入っていたある比丘が、その出来事をお釈迦さまに報告しました。お釈迦さまは、この出来事を譬えとして使って仏道の心髄を語られたのです。紐が切れて二頭の牛が自由になったことに、お釈迦さまは重点を置いたような気がします。
楽しみを探す無駄な努力
生きることは大変で苦しいものであると、ある程度で分かっていても、生命は生きることに対する執着を捨てません。なにがなんでも生きていきたい、という気持ちがあるのです。だからといって、やみくもに生きることからはなんの精神の安らぎも得ることはできないのです。生命は存在のなかで安らぎを探しているのです。存在そのものが、無常で、不安で、苦なのです。存在は不完全なものです。存在するならば、つねに不満足を経験しなくてはならないのです。ですから、存在のなかには、真の安らぎはあり得ないのです。
水におぼれかけている人がいるとしましょう。水が少々固く感じられたとしても、水の上を歩くことは不可能です。歩こうとしても、さらに苦しむだけで、身を守ることはできないのです。溶岩のなかで氷を見つけることも、雪のなかで火を見つけることも不可能です。生きるというこの流れのなかで、真の幸福を得ようとすることも、このような無駄な努力になるのです。
割に合わない生きる楽しみ
なぜ人は、存在のなかに真の安らぎがあると勘違いしているのでしょうか? それは、生きるなかで、たまたま楽しみを感じるからです。その楽しみも無常なので、満足することはできません。たとえば、冬に外を歩いてきた人の身体は寒くて震えているのです。暖かい家に入った途端、気持ちよくなります。しかし身体が充分暖まったところで、「はあ、暖かくてよかった」という感情が消えてしまうのです。家のなかで、別な楽しみを探すはめになります。病気で苦しんでいる人が治療して病気が治った時は安らぎを感じますが、健康でいる時、その安らぎは感じません。代わりに、他の楽しみを探すのです。お腹が空いている時、ご飯は美味しいですが、満腹の時は美味しくないのです。
理論は、「苦がなければ楽もない」ということです。人間が思う安らぎは、苦と対照的なものです。人間の考えが正しいと思うならば、究極の安らぎを得るためには究極の苦に陥らなければいけなくなるのです。一円もなくて二日三日も食べることもできなかった人が一万円を貰ったら、天にも昇るほどの幸福を感じるでしょう。しかし億万長者だったら、一万円を貰ったところでなんの刺激も起きないのです。世間でいう楽しみ、幸福、安らぎというのは、このようなものです。それらは、苦の上に成り立っているのです。
世間の楽しみはただではありません
さらに考えなくてはいけないポイントがあります。世間的に得られる楽しみも、ただではないのです。生まれつき付いてくるものでもないのです。努力して、苦労して、獲得するものです。医者・弁護士など収入の高い仕事をして、楽をしようと思っても、その資格を取るために苦労しなくてはいけないのです。同じ能力を持っている仲間と、競争しなくてはいけないのです。オリンピックで金メダルを取ることができれば最高だと思うアスリートには、地獄のような苦しみが待っています。メダルを獲ることに成功しても、その幸福感はそれほど長持ちしません。年を取ったら、過去の自慢話だけになるのです。人間が考える成功・幸福・楽しみ・人気・権力などなどのすべてを一つ一つ調べてみると、長い苦しみの過程のうえで現れる一時的な結果であると発見することは難しくありません。人生とは、十万円を払ったところで、見返りとして十円をもらうような仕組みです。割に合わないほど苦が多く、楽しみは小さいのです。ですから、本当のところは「苦があれば楽がある」ではないのです。苦が多ければ少々の楽がある、という話になります。
マンネリの生きかたで執着が生じる
なぜ人は、この仕組みに気づかないのでしょうか? ありのままに観察しないからです、それから、楽しみを与えてくれた現象に執着するからです。まず人は、身体に執着する。楽しみを身体で感じるからです。次、知識に執着します。知識がまったくなければ、なんの楽しみも得られないからです。それから、家族・財産・権力・所有物などにも執着するのです。この執着が間違いです。役に立っていることは確かですが、執着する必要はないのです、執着しすぎると、役に立たなくなります。金に執着しすぎると、金を使う気がなくなるのです。家族・家・所有物などにも執着しすぎると、それらの品物から得られるはずの幸福も得られなくなるのです。すべては無常なので、執着する品物も無常です。自分から離れていったり、老いたり、壊れたり、消えたりするのです。自然に起こるこの現象について、執着度に見合った怒り・嫉妬・悩み・落ち込み・失望感を感じなくてはいけないのです。
究極の安穏・やすらぎを目指すならば、存在に対する執着を断たなくてはいけないのです。それは使用済みの紙コップを捨てるような感じの、簡単なことではありません。存在は執着に値しないものであると、明確に発見しなくてはいけないのです。生きるとはどのようなことかと、ありのままに観察しないから、皆に無明があるのです。無明がある限り、執着が強くなることはあっても、衰えることは決してないのです。怒り・嫉妬・憎しみ・落ち込み・恨み・失望感などは、執着と決して離れることのないセットなのです。
お釈迦さまがこの問題を解決したのです。一切の執着を捨てて、究極のやすらぎに達したのです。ですから、牽くことさえもできないほど重い荷車との束縛が切れて、自由になって楽々に走っている二頭の牛の気持ちを感じて、この偈を説かれたのでしょう。
真の自由を得るために
「Naddhim 紐とvarattaṃ 皮緒をchetvā 切って」 紐と皮緒とは、牛を車に繋ぐものです。荷車から逃げられないような束縛のことです。それを人間のこころにある瞋恚と愛執(貪欲)に例えています。存在に執着すると、欲と怒りは必ず付いてくるセットです。ひとは執着に気づかないのですが、欲と怒りがあることには気づくのです。そこで、修行する人であるならば、自分が体験している怒りと欲を戒めるのです。
「Sandānaṃ 手綱と sahanukkamaṃ その他の紐」 も切るのです。人間は、存在のなかに安らぎがあると勘違いして、様々な見解を作るのです。永遠の天国に往けば、魂を浄化すれば、○○の神に祈れば、○○の修行をすれば、などなどの見解を作るのです。存在のなかに安らぎがあると思った時点で、邪見なのです。その邪見に基づいて、どのような宗教哲学などを作っても、すべて邪見になるのです。お釈迦さまは、当時インドでは六十二種類の邪見があったと説かれています。手綱を切るとは、邪見を捨てることです。邪見は物事を観察する時、バイアスになります。生きることを観察しようとしても、主観・先入観・バイアスなどが割り込んで、ありのままに観ることを妨げるのです。ひとに信仰する宗教のような明確な邪見が無くても、主観は必ずあります。それもありのままに観る時は障害になります。その他の紐を切るとは、様々なバイアスを無くすことです。
「Ukkhittapalighaṃ 閂(かんぬき)を外す」 閂とは、荷車の部品です。それを牛の首に嵌めるのです。それを外してしまえば、牛は自由です。ここでは閂を無明に例えているのです。ありのままに現象を観察することで、徐々に無明がなくなっていくのです。無明がなくなったら智慧が顕れるといいますが、実は四聖諦が真理であると発見するのです。智慧と四聖諦の発見は、同義語です。それで修行者は、解脱に達するのです。ブッダになるのです。この偈の場合は、ブッダとはお釈迦さまに対する固有名詞ではなく、解脱者に対する普通名詞です。真のバラモン(真の聖者)とは、このように存在に対する一切の束縛を脱した人であると、お釈迦さまが説かれるのです。
今回のポイント
- 存在に執着するとは苦に執着することです
- 世間は苦があれば楽もあると思います
- 多く苦労して少々楽を感じることに意義はありません
- 一切の執着を捨てることで究極の安らぎに達します