パティパダー巻頭法話

No.256(2016年6月)

生きるとは多重債務に陥ること

生命の順位づけ Difference and discrimination

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Yo dukkhassa pajānāti
    Idheva khayamattano
    Pannabhāraṃ visamyuttaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmanaṃ.
  • 現世に於て己が苦の 滅尽悟り荷を下ろし
    とらわれる事あらぬ人 そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 452)

奴隷の出家

ある奴隷が主人の家から逃げて出家したのです。これはお釈迦さまが戒律を定める以前の出来事でした。後に定められた戒律によって、俗世間の約束で身の自由がない人々は出家できません。まず俗世間的な約束を解除してもらわなくてはいけないのです。このように戒律を定めたのは、仏道を実践することができないからではないのです。奴隷・軍人・囚人・死刑判決を受けた人などなどが逃げて出家したならば、俗世間の手におえない存在になるのです。王様たちに国を治めることができなくなります。結婚して所帯を持っている人々も、相手のことが気に入らなかったら、出家として逃げることも可能です。そうなると、社会の迷惑だけでは済みません。輪廻を脱出しようという、最高に清らかな気持ちで出家するサンガの社会も、犯罪者・負け犬たちであふれるのです。その状況は、聖なるサンガ組織にも良くないことです。解脱に達する能力を持っている人にとって、乗り越えられない障害になってしまうのです。ですから、出家する前に社会との約束・契約などを解除してもらわなくてはいけないのです。妻帯者も、相手の許可を得なくてはいけないのです。

身売りされると自由がない

出家したこの奴隷は、まじめに修行して阿羅漢果に達しました。聖者になったのです。ある日お釈迦さまは、この人と一緒に托鉢にでかけました。釈尊がある家の前に立つと、その阿羅漢は自分の衣で身体を締め付けて、動かなくなったのです。お釈迦さまが「どうしたことですか?」と尋ねたところ、「尊師、私はこの家のバラモンに身を売られた存在でした」と答えたのです。身を売られた人には、死ぬまで自由はないのです。逃げても引き戻されます。主人に殺されても、親戚には訴える権利さえもないのです。

釈尊は言葉の定義を変える

貧しい人々は、子供を育てることができないので、金持ちに売ることをするのです。金持ちはその人を奴隷として使います。売られた人には、たとえ大人になっても身代金を払えるはずはないのです。奴隷なので、仕事をしても個人で収入は得られないからです。このような奴隷たちは、パーリ語で pannabhāra (パ ン ナ バ ー ラ) と言います。命が担保になった、という意味です。しかし、pannabhāra という言葉は、お釈迦さまが意図的に変えた可能性があります。命が担保になった、という場合は、正しい単語は pānabhāra か pannabhāra であるべきと思います。
Panna という場合は、捨てた、置いた、という意味もあります。言語とは人々が日常使うものなので、訛(なまり)が入ることは避けられませんね。ですから、 pānabhāra という言葉が、pannabhāra として使われたこともあったのではないかと推測できます。

阿羅漢は、自分がこの家の人の pannabhāra であると言いました。それに対してお釈迦さまは、 pannabhāra とは arahaṃ という意味だと説かれたのです。釈尊は言語の元の意味を変えたのです。
Panna とは、「捨てた、置いた」ということです。
Bhāra とは、「荷」です。五蘊に対する執着に「荷」というのです。人々は五蘊に執着しているので、生きることは苦になるのです。執着を捨てたことは、苦がなくなったことを意味します。

生きるとは借りを作ること

Arahaṃ は、完全たる解脱に達した、という意味で使いますが、完全たる資格を持っている人、という意味もあります。輪廻転生する生命は、みなに借りがあるのです。自由の身にはならないのです。五蘊に執着しているのです。五蘊を維持しつづけるためには、様々なものに頼ったり依存したりしなくてはいけません。我々が食事をとることでさえ、借りを作ることです。たとえキャベツを食べて生きていても、キャベツはその人に食べてもらうために育ったものではありません。キャベツは自分のために育つのです。それを人間が取るのです。空気と水以外は、すべて借りたものなのです。現代人は空気を汚したり水を汚染したりするので、ただで使えるものに対しても、返しきれない借りを作っています。昔の人間ならば、大自然に対して尊敬と感謝の意を持っていたのです。完済とは、阿羅漢になることです

阿羅漢になったとは、すべての借りを返したことになります。その方の命を支えたものの立場から考えると、生命としてゴールに達した人なので、自分たちが協力できてよかった、という気持ちになるでしょう。これは譬えで説明すれば理解できるでしょう。親が自分の子の学費を払います。その子はまじめに勉強して最優秀で合格します。もしかすると学術において金メダルを獲るかもしれません。では親は、自分が払った学費に対して借りだと思いますか?

そんな気持ちは絶対に生まれません。もっと楽をさせてあげたほうが良かったと思うのです。ひとが修行して阿羅漢になったならば、一切の生命は自分たちの協力が奏効してノーベル賞でも獲ったような気持ちにならなくてはいけないのです。聖者には、生命に対して、自然に対して、なんの借りもないのです。阿羅漢に達した時点で、一切の借りを返したことになります。聖者にお布施する方々は、最高の徳を得るのです。

五蘊に対する執着を捨てることで、人は文字通りの自由になります。すべての借りを返したことになるのです。俗世間的なことを考えて身をすくめた阿羅漢に対して、お釈迦さまは pannabhāra とは arahaṃ ではないかと説かれたのです。この場合、pannabhāra の意味は、「五蘊に対する執着を捨てた」という意味です。ふつうの言葉に、仏教の真理にもとづいて別な意義をつけるところは、その他にもあります。結局はパーリ語で pannabhāra といえば、みな解脱に達した人という意味で理解するのです。「命を担保にし た」という意味を忘れているのです。お釈迦さまが単語の定義を変えると、それからその意味が定説になります。
Nibbāna(涅槃)も同じ単語です。もとの意味は、「(火)を消した、(火が)消えた」です。これを、「煩悩の炎を消した、煩悩の炎が消えた」という意味で使っているのです。現代では、誰も「火を消した」という意味で nibbānamnirvāna という言葉を使っていないのです。

元奴隷の身であった阿羅漢は、釈尊の pannabhāra = arahaṃ という解釈を聴いて安心しただろうと思います。借りをすべて返して、完全たる資格者になっていることを再確認したでしょう。このエピソードについて、注釈書ではそれ以上なにも書いていないのです。それから私の妄想でストーリーをくみたててみます。バラモンは元奴隷を見つけて騒いだに違いありません。しかし宗教と関係なく、修行者たちに迷惑をかけないのはインドの習慣です。出家している自分の奴隷をもとに戻してもらうことは不可能です。しかし、かわりに身代金も貰ってないのです。そこでお釈迦さまは自分の弟子の肩を持って、バラモンに真理を教えたことでしょう。その時、お釈迦さまが教えた言葉の真髄が、ダンマパダの四〇二偈になっているのです。この偈は直訳すると大事な意味が失われますので、解釈を込めてこれから説明いたします。

自分の苦を発見する

Yo dukkhassa pajānāti 「苦を知るものは」という意味です。この場合は、真理として、 生きることは苦であると自ら発見しなくてはいけないのです。知るとは、頭で概念として知ることではないのです。この意味は、idheva khayamattano というフレーズで理解できます。
Idheva とは、「ここで」という意味です。人間が苦しんでいるのだ、という全体的な軽い意味ではないのです。ここで、いまの瞬間で、自分自身が経験する苦なのです。 Khayamattano とは、「自分自身はつねに消えつつある存在です」という意味です。生滅 し続ける流れである、と言えばわかりやすいのです。いかなる存在であろうとも、一貫してあり続けるということはありません。ものごとは現れては消えるのです。消えた現象の代わりに現れた現象が似ていると思ったら、みな同じものだと勘違いするのです。朝、赤ちゃんを見る。午後も赤ちゃんを見る。そうすると、同じ赤ちゃんであると勘違いする。それでは、朝、赤ちゃんを見る。四十年経ってから、またその存在を見る。その場合は、四十年前に見た同じ赤ちゃんであると勘違いすることは不可能です。誰かが「同じ赤ちゃんである」と言っても、「そうですか」とびっくりすること以外、何もできないのです。その時は、人は変わるのだと認識せざるを得ないのです。

無常の流れに苦という

無常とは、四十年ごとに起こることではないのです。瞬間瞬間、無常なのです。生まれては消えてゆく流れなのです。一分二分の時間スパンで観察すると、それほど変わっていないのだという錯覚が生まれます。しかし、瞑想実践する修行者は、高度な集中力で瞬間瞬間に起こる生滅変化の流れを観察するのです。いまの瞬間で「自分」という気持ちがあっても、次の瞬間には別な感覚に「自分」であるとレッテルを張っていることを発見するのです。自分自身の色受想行識という五蘊に対して、この観察を実践しなくてはいけないのです。瞬間瞬間、生滅変化する五蘊に対して、執着することも、私のものだと思うことも、私がいるという錯覚も、成り立たないと発見するのです。無明で真理を発見することはしない生命が、五蘊に執着するのだとわかるのです。ありのままの真理を発見することができたならば、無明の代わりに智慧の眼が現れたというのです。それと同時に、執着もなくなるのです。それで、idheva khayamattano というフレーズによって、修行の流れを示しているのです。

苦を発見した人には、なにをしてでも生き続けたいという渇愛がなくなっているのです。ですから、世間のなににも依存する必要がなくなったのです。生きていきたいという重荷が消えたのです。ですから、「荷を下ろした、捨てた」という意味で pannabhāraṃ なのです。
visamyuttaṃ とは、「なにごとにも執着しない、関わりを持たない」という意味です。こころが本格的な自由に達したのです。
Brāhmana とは、バラモン・カーストではなく、「聖者」という意味で使っているのです。
Tamahaṃ brūmi brāhmanam  「真のバラモンとはこのような人であると私(釈尊)は説きます。」
お釈迦さまが第一人称で語る場合は、言葉に別な意味を入れたことを示すのです。要するに、世間はバラモン・カーストの人にバラモンだと言っているが、釈尊は解脱に達した聖者のことを真のバラモンであると説かれるのです。
お釈迦さまの説法に、元奴隷の主人であったバラモンも納得したのです。彼も預流果に覚りましたと注釈書に記してあります。

今回のポイント

  • 出家する前に俗世間の束縛を断たなければいけません
  • 生きるとは多大な借りを作ることです
  • 五蘊に執着がある限り、借りは消えません
  • 執着を断った聖者には借りは一切ないのです
  • 真理を明らかにするため、釈尊は言葉の定義を変えることもあります