パティパダー巻頭法話

No.258(2016年8月)

無執着の境地

安穏の極みは絶縁です Detachment

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Asamsatthaṃ gahatthehi
    Anāgārehi cūbhayaṃ
    Anokasārimappicchaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmanaṃ
  • 在家の人とも交らず また出家とも交らず
    家なき遍歴小欲者 そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 404)

肯定に導く否定形

修行を完成して阿羅漢に達した聖者とは、どのような人間であるかと説明してきました。
聖者のこころの状況を説明するのは、私たちにできることではありません。言葉とは、俗世間の人々が自分たちの経験に当てはめる音のラベルです。ですから、聖者の経験を表現するに相応しい言葉は、俗世間の言語には存在しないのです。せいぜいできることは、そうではない、そうではない、と否定形の単語を使うことです。

たとえば、「一般人は金に興味を持っている。聖者なら金に興味を持たない」と言わなくてはいけないのです。しかし、金に興味を抱かない精神とはなんなのかと理解することはできません。俗世間でも、それほど金に興味を持たない人間がいます。しかし、私たちはその人のことを変人扱いするのです。だからといって、聖者とは変人のことではないのです。正等覚者であるブッダは、言葉の正しい使い方を知っていたのです。不完全な言語を使いながらも、誤解が起きないように、完全な真理を見事に語られたのです。ですから、完全に解脱に達した聖者のこころについて、お釈迦さまが語られた言葉を学んでみましょう。

今日の偈のポイントは、無執着です。これも否定形です。私たちには、執着はわかりますが、無執着とはなんぞやとわからないのです。であるならば、どうすればよいのでしょうか?

とことん執着のことを勉強してみましょう。執着を知り尽くしたうえで、聖者にはそれが何ひとつもないと結論づけるだけです。

執着:ものに頼る

執着のいちばんわかりやすい例は、ものに頼ることです。財産、土地、家、仕事、服、食べ物、車、ペットなどなど、さまざまなものに頼って生きているのです。これらの頼っている品物が好きなのです。自分のものにしたいのです。他人にとりあげられるのは嫌なのです。他人が、自分の頼っているものをとりあげようとすると、守りに入って攻撃するのです。

それだけで終わらないのです。頼りになるものは、自然法則によって自分から離れていくこともあります。自分に、大好きなお爺さんお婆さんがいたとしましょう。しかし、年寄りです。老衰で死ぬのです。自分から離れたのです。どうすることもできません。悲しみに陥ります。手塩にかけて育てた我が子が、自分から離れて一人暮らしをするのです。結婚して、別な家族をつくるのです。口先では応援して助けてあげるが、こころのなかでは寂しいのです。退職することになると、不安にさいなまれます。それから、自然災害というものもあります。このように自然法則によって、われわれが頼りにしているものごとが離れていくと、悩み悲しみ苦しみに陥ります。こころのやすらぎと安穏が失われます。

上限がない

ものに頼って生きているから、どれぐらいものがあれば十分なのか、という問題が起きます。必ず、上限の量があるはずです。しかし、それはわからないのです。あればあるほどよい、という気持ちで頑張っているのです。ですから、頼るものを手に入れるために、終わりのない闘いをしなくてはいけないのです。ということは、ものに頼って生きていると、ものを獲得する終わりのない闘いに否応なしに嵌め込まれてしまうのです。こころのやすらぎを失って、つねに不安にさいなまれる人生になります。

執着:ひとに頼る

人間という種は、群れをつくって生活しなくてはいけないのです。単独で生きることはできないのです。それで私たちは社会を築いて、社会に頼るのです。社会という単語を使っていますが、実体のない言葉です。「グラムとはなんですか?」「カロリーとはなんですか?」と定義を聞かれると、簡単に答えられます。では、社会とはなんですか?

いろいろ意見があるかもしれません。しかし、決定的な定義はありません。では、定義します。社会とは、二人か二人以上の人間の集まりです。地球のすべての人間も「地球人」としての社会でしょうし、国別にも社会があるのです。民族別、地域別、信仰別、年齢別、性別などなどの社会もあります。子供のいない夫婦がいるとしましょう。それも二人で築いた社会です。

社会の一員でなければ、生きていられません。一員になるためには、社会に認められ、そのうえ、社会の約束を守る必要があります。それは大変な作業です。まず、社会に認められなくてはいけない。認められるために、どうすればいいかわからない。社会の定義を持っていないから、なおさら難しい。ここで書いた社会の定義を理解すれば、いくらか楽になると思います。要するに、無数にある社会組織のなかで、あなたはどんな社会に認められたいのでしょうか?

それをはっきりさせましょう。はっきりさせたところで、それは何人かで築いている社会であると発見します。制限を持たない社会という単語が何人かに制限されると、認められるために取るべき対応の仕方が見えてくると思います。

社会の決まりを守ることも大変です。各社会によって決まりが違います。サラリーマンの場合は、家族という社会と、会社という社会があります。それから、友人・仲間という社会もあります。それぞれ決まりが違うのです。それから社会は、決まりを勝手に変えたり、勝手につくったりもします。その社会の一員としては、この状況にもたいへん苦労することになります。いくら悩み苦しみの原因になっているとしても、人間は社会に頼らなくてはいけないのです。嵌め込まれているのです。

執着:知識・能力

知識と能力がなければ、生きていられないのです。たくさんの知識・能力を獲得したほうが安全に生きられるのだ、という錯覚が生じます。この場合も、あればあるほどよい、という公式が割り込みます。しかし人間に、無限・無制限に知識と能力を獲得することはできません。これ以上は進めない、という壁にぶつかります。知識・能力を得ることも、たいへん苦しい作業です。早くも壁にぶつかったら、落ち込みます。知識の壁にぶつかっていないと思っている人々もいます。それは勘違いです。実は、いままで得た知識・能力がそれほどその人の人生の役に立っていないだけの話です。

知識・能力にも敵がいます。自分より優れた知識がある人の前では、身を引かなくてはいけない。自分の知識と反対の知識を持っている人と出会うと、自分の知識が激しく揺らぎます。新たな知識が現れると、自分の古い知識がゴミ扱いされます。能力の場合も同じことです。知識・能力がある人々は、その財産を敵から守ることもしなくてはいけないのです。知識・能力に頼って生きる限り、悩み、不安、落ち込みなどは絶えません。知識・能力も、自然法則によって自分から離れていくことが必ず起こります。誰だって、年取るのです。年とともに、知識・能力も衰えるのです。

執着:悪魔

執着は悪魔です。悩み、苦しみ、落ち込み、不安などが必ず付いてくるのです。執着が命に与える助けはわずかです。多大な迷惑をかけます。しかし、私たちは生きていきたいのです。であるならば、さまざまなものに執着しなくてはいけないのです。ということは、わずかな期待を満たすために、膨大な苦しみを味わうことになるのです。たとえで説明します。真冬に人が家のなかにいるとしましょう。寒くて震えるのです。それでその人は、火を焚いて身体を温めようとする。家のなかにある古新聞から始めて、本まで燃やしていく。それから、カーテンも家具も燃やし続ける。それでも寒いのです。ドアなども外して、燃やすはめになります。やがて、家に火がついてしまいます。十分暖かくなったのですが、自分の命も失ったのです。執着から得る恵みは、このようなものです。しかしこの問題は、俗世間の人々に理解できないのです。

ですから、執着とはなんなのか、執着が与える恵みはなんなのか、執着から起きてくる悩み苦しみなどの危険はなんなのか、執着の罠に嵌められない生き方はあるのか、などなどを観察しなくてはいけないのです。

ブッダが説く道

それは無執着の生き方です。要するに、悩み、苦しみ、落ち込み、憂い、悲しみのない生き方です。その道は、理性から始まります。執着について、徹底研究をおこないます。執着を理解します。執着は、生きていきたいという存在欲があるから必然的に現れてくる悪魔であると発見します。それならば、存在欲とはなんですか?
生きるとはなんですか?
存在 欲のために限りない苦労を味わう価値があるのか?
などなどを調べなくてはいけない。こ の研究の仕方は、お釈迦さまによって明確に語られているのです。

出家

お釈迦さまの説かれる研究に取り組む人が、出家するのです。出家するとは、俗世間から離れることです。言い換えれば、社会から離れるのです。社会の一員にならない生き方を試してみるのです。次に、社会から離れても食べものや着るものなどのお世話にならなくてはいけない、ということが見えてきます。それらを最低限に、やっと生きられる程度にするのです。そのような生き方によって、苦しみが現れるのか、やすらぎが現れるのか、とチェックするのです。出家生活は苦しいのだと答えが出たら、自分は強い存在欲を持っているということになります。執着を決して捨てたくないのに、偽善をやっているのだと見えてきます。出家生活は穏やかなやすらぎの生き方であるという答えが出たならば、自分の存在欲が弱くなっているのです。執着も弱くなっているのです。ありのままの真理を発見しているのです。

無執着:解脱

釈尊の説かれたプログラムを丁寧に実行すると、こころが無執着という境地に達するのです。ものに頼って、なんとしてでも生きていなくてはいけない、という衝動が消えるのです。生きていきたいという存在欲が、根絶されているのです。生きていきたいという気持ちが消えたら、人は死ぬでしょうと俗世間は思います。この場合は、生きていきたいだけではなく、死にたいという衝動もないのです。肉体が壊れるまで、肉体を維持管理するために必要な部品を最低限に提供してあげるだけです。覚った聖者には、「生きていきたい」という衝動も「生きていきたくない、死にたい」という衝動もないのです。

無執着:絶縁

俗世間では、さまざまな工夫をして社会と縁を築きます。それは生きていきたいからです。聖者は、一切の縁を断っているのです。出家した時点で、社会との縁を切るが、精神的には切られていないのです。仏道を実践していくうえで、精神的にも俗世間との縁を切らなくてはいけないのです。

俗世間から離れて出家するのですが、離れた先にも出家社会があるのです。出家は出家社 会に認められ、出家社会の規則を守って生きていなくてはいけないのです。結局はそれも、存在欲から生じる一種の執着です。修行の結果として解脱に達する場合は、執着を根絶します。そうすると、俗世間と縁を切ります。出家社会とも縁を切ります。縁を切るといっても、どこかに逃げて隠れている必要はないのです。一般社会の人々とも、出家の人々とも、ふつうに仲良く生きているのです。しかし、執着は一切ないのです。意図的に縁をつくろうと努力することもないし、縁が切れたら困ると悩むこともないのです。極端に安穏な精神で生きているのです。

一般人には理解できない、不思議な生き方でしょう。お釈迦さまはこの状況を「 asaṃ satthaṃ gahatthehi, anāgārehi cūbhayaṃ 」と説かれるのです。「在家という社会、出家という社会、この両方とも関わりは持たない」という意味です。

存在欲

存在欲とは、五蘊に依存することです。われわれは何も理解しないで、生きていきたい、死にたくない、という感情に追われて生きているだけです。調べてみると、そちらにあるのは色受想行識という五蘊に対する執着です。それに気づかないので、生きていきたい、死にたくないと思っているのです。五蘊という五つの組織に、お釈迦さまは「家」という言葉を当てています。聖者は存在欲を脱したから、五蘊に依存することがないのです。ですから、家から離れているのです。「Anokasārim」とは、その意味です。

最小限

ものに依存すると、制限が成り立たないのだと前に説明しました。公式は、「あればあるほどよい」ということです。これは多大な苦しみをつかさどる気持ちです。では、修行して存在欲を根絶したらどうなりますか?

その聖者は、「この肉体が自然に壊れていくまで、適切に手入れすれば十分」という気持ちになります。ですから、すべてのものごとについて「少欲」になります。この場合の欲とは、欲ではなく「必要」という意味です。ひとにとって欲しいものは無限にあるが、必要不可欠なものといえば、それほどないでしょう。聖者は、肉体を維持管理するために必要不可欠な量だけを求めるのです。それが「appiccham(少欲)」ということです。

解脱に達した阿羅漢のこころは、このように俗世間の情況を知り尽くしたうえで、「それとは違います」という感じに理解しないといけないのです。聖者について説明するためには、否定形の単語を使わざるをえないのです。

今回のポイント

  • 聖者のこころは一般人に理解不可能です
  • 世間は執着の世界、聖者は無執着の世界
  • まずは俗世間のこころを理解するべきです
  • 「俗世間の感情が一切ない」とは、聖者のこころです