No.260(2016年10月)
自我が消えたらどうなる?
虚妄分別を破る Notion of self impedes the reality
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Aviruddhaṃ viruddhesu
Attadaṇḍesu nibbutaṃ
Sādānesu anādānaṃ
Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
- 敵意のなかに敵意なく 武器執るなかで寂靜に
取著のなかで無取著に そをバラモンと我は説く - 訳:江原通子
- (Dhammapada 406)
覚者の見分け方
この世の中には「解脱者に会いたい」と願う人々がいるかと思えば、「解脱に達した人なんかいるわけがない」と考える人々もいます。修行を実践する人々の中でも、「解脱に達するなんて遠い将来の話だ」と思っている場合もあります。また、「私は覚りました」「解脱に達しました」と公言する人々もいます。解脱者がいると聞いて、「本人が公言しているのだから、その人を信仰しましょう」と簡単に認める人々もいれば、「怪しいのではないか」と疑う人もいるのです。世界はこのような状況なので、本物と偽物を見分ける方法が必要になります。
その場合、「解脱者とはこのような者である」という人々の解釈には乗らないほうが安全です。特に「解脱に達した」と公言する人々は、解脱に関して自分特有の定義を持っているのです。その方々は、「自分の精神状態そのものが解脱である」と発表しているのではないかと思われます。これは問題です。私たちが、「解脱者はどのような方なのか」と判断しようと思ったら、お釈迦さまの定義に基づいて判断すべきなのです。なぜならば、この世で最初に覚りに達したのはお釈迦さまだからです。それから、お釈迦さまの指導のもとで、無数の阿羅漢たちが世に現れたからです。ブッダの説かれた修行法は普遍的なもので、正しく実践するならば、解脱に達する確率は高いのです。
一般の人々は、他人の表面的な姿を見て「解脱者」と決めてしまいます。有名人の誰かが弟子になったならば、それだけで師匠が覚者であると決めることもあります。誰かが巨大な宗教組織を作ったならば、その開祖様を覚者として認定する場合もある。自分が覚者であると世にアピールするために、特定の服装で身を飾る人々もいます。お釈迦さまは、「見た目はどうでもいいのだ。大事なのはこころの中身である」と説かれました。ですから、こころの中身を調べることで、覚者か否かを見分けることができるのです。
虚妄分別(こもうふんべつ)
辞書によるとこのフレーズの意味は、「物事の真相を間違えたまま理解し、判断すること」になります。仏教的には、完全に正しい意味ではありません。この言葉で問題にしているのは、物事がどうなっているのかと客観的に調べることではなく、「自分はどのように物事を認識しているのか?」ということなのです。物事を認識するところで間違いを起こすから、虚妄分別になるのです。ここでややこしい問題が起きます。自分がどれほど頑張って正しく物事を理解しようとしても、それは自分自身の認識です。自分に見えた世界になります。ですから、「私が真理をありのままに発見する」と思って頑張っても、私が発見して、私が見るものなので、私見に終わります。私見とは偏見であって、ある一人のものの見方に過ぎません。このように努力しても、真理には達しないのです。
この問題はどのように解決しますか? 私が○○を観察するのではなく、「私という実感はどのように成り立つものか?」と観察するのです。成功したならば、私と言うべき特定のものは何も存在しないと発見します。例えば、自分の肉体は地水火風でできています。世間のすべてのものも地水火風でできています。自分特有の地水火風はありません。自分の感覚も特有ではありません。生命ならすべてが感覚を持っているのです。自分の知識も特有のものではありません。すべての生命が自分なりの知識を持っています。それから、何ひとつも固定していないのです。変化して流れるのです。「いま・ここに私がいる」という実感が起きたとしましょう。その実感を惹き起こした身体の地水火風も、感覚も、衝動も、認識も、次の瞬間には別なものに変わっています。今の瞬間の自分は、前の瞬間の自分と違うものになっているのです。ものの流れは、人々に「ある」という錯覚を惹き起こします。噴水、滝などがあると思っているでしょう。でも、同じ噴水・滝を二回見られますか? 見られませんね。「私とは何か?」と観察する人は、ものの流れを発見するので、「いる・ある」という錯覚が消えるのです。言葉を換えましょう。修行の結果、「私」が消えるのです。
私が消えると言っても、透明人間になるわけではありません。水滴が蒸発するようなことが起きたわけでもないのです。五蘊でできた組織はそこにあります。しかし、固定した、変わらない「自分」という自覚はなくなったのです。これは解脱の境地ですが、一般的な知識を持っている人々には理解し難いことです。なぜならば、一般人は「私が認識する、判断する、知る」という次元を越えていないからです。
砂のお城
子供たちが砂のお城を作っているとしましょう。砂と水がうまく混ざってないと、お城は 作れません。やっと、砂のお城ができあがる。それから、どうなるでしょうか? 周りの砂 と、砂のお城は違います。お城を丁寧に扱わなくてはいけない。誰かに蹴られて壊されないように、周りに柵でも作らなくてはいけない。砂のお城を見ると、楽しくもなるのです。でも徐々に水が蒸発して、砂のお城は壊れていきます。「お城がなくなった」と言うかもしれませんが、何もなくなっていないのです。砂のお城を作ったからといって、何か新たなものを作ったわけでもないのです。そこに「砂のお城」という分別( ふんべつ)が現れて消えただけです。
自我の分別
色受想行識という五つのものを組み合わせて、自分という砂のお城が現れます。自分がいるという錯覚、虚妄分別が起こるのです。虚妄分別がある限り、自分を守らなくてはいけない。他人と戦わなければいけない。自分という砂のお城を維持管理しなくてはいけない。壊れていくと、悩んだり悲しんだりしなくてはいけない。自分という砂のお城を守ってくれる人々と諸々の物に、執着しなくてはいけない―― などなど、たくさんの問題が起こるのです。「特有の自分がいる」という虚妄分別の気持ちが消えたとしましょう。それが「解脱に達した」ということです。いままであった、すべての悩み苦しみが消えます。煩悩も消えます。自分がいる、という自我の錯覚も消えます。
競争はない
「自分がいる」という錯覚がある限り、他人と競争しなくてはいけません。この世は競争でなりたっています。無邪気に遊んでいる子供から、社会で活発に働いている大人まで、人生は競争で成り立っているのです。自分には常にライバルがいます。自分と他人は違う存在であるという、虚妄分別が働いているのです。ライバルは生命だけに限りません。物質もライバルになるのです。自分の家が雨漏りしては困ります。地震で壁にひび割れが入ったら困ります。汚れた街の排気ガスが家の中に入っては困ります。このようなこととも、戦わなくてはいけないのです。解脱に達した人の場合は「自分」が存在しないので、戦い、対立、攻撃、怒りなどは完全に消えます。聖者にとって、世界はライバルではありません。砂のお城が、もとの砂に戻ったような感じです。砂がお城の形をとっている間は、同じ仲間である周りの砂はライバルです。お城の形が消えたら、周りの砂はもうライバルではありません。これが覚者の世界観です。
Aviruddhaṃ viruddhesu 対立で成り立っている世界にあって、覚者のこころからは対立が消えているのです。
自己防衛
誰だって、自己防衛に必死です。言葉を換えると、自分を守るために武器をとる気持ちを抱いているのです。なぜでしょうか?
自分という虚妄分別があるからです。自分を守る武器は二種類です。
① 家、服、靴、帽子、傘などなどは、自然環境から自分を守ってくれる武器です。
② 蚊取り線香、殺虫剤、防犯システムなどなどは、他の生命から自分を守るための武器です。外国では、拳銃、刀などの武器も持っているのです。自分という自覚が本当は錯覚であるならば、武器を持つ意味がなくなるのではないでしょうか?
覚者には、虚妄分別がないのです。ですから、attadaṇḍesu nibbutaṃ 武器をとる気持ちが消えているのです。
自由
自由がないとは、束縛があるという意味です。自分を守るために、様々なものに依存しなくてはいけないのです。自分を守ってくれるものに執着する。自分自身の身体や、自分の知識・能力に執着する。家族、友人、財産などにも執着する。これらは、自分の命を守ってくれるものです。なぜ自分を守ってもらう必要があるのでしょうか?
自分がいるという虚妄分別があるからです。自分がいるという自覚は、真理を発見していないがゆえに現れる錯覚です。自分がいるという実感がある限り、執着はなくなりません。執着は必要な感情になるのです。執着がある限り、自由はないのです。結局は、執着するものの奴隷になっているのです。
覚者に虚妄分別はありません。自分がいる、という錯覚が消えたからです。それと同時に、一切の執着も消えるのです。世間は執着があるからこそ、成り立っています。Sādānesu anādānaṃ 執着のある世界で、覚者は執着から離れているのです。このような精神状態の人こそ、覚者です。真のバラモンなのです。
虚妄分別の正しい意味は、「物事の真相を間違えたまま理解し、判断すること」と言うよりは、「自分という錯覚に囚われていること」です。お釈迦さまのこの教えに従って、正しく覚者を見分けるべきです。覚者には「自分がいる」という錯覚がないので、決して「私が覚ったぞ」などと公言しません。ですから、ブッダの教えに従って、その人のこころの境地を調べなくてはいけなくなるのです。
今回のポイント
- 中身のない人は自分を演出します
- 見た目の壁を貫いて、こころを見るべきです
- 覚者には虚妄分別がありません
- 覚者は対立で成り立つ世界で対立なく住みます