No.263(2017年1月号)
知識を汚す判断
解脱を意味する不偸盗 Discerning without judgement
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Yodha dīghaṃ va rassaṃ vā
Aṇuṃ thūlaṃ subhāsubhaṃ
Loke adinnaṃ nādiyati
Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
- このいかなる長と短 細粗あるいは淨不淨*
与えられざるを取らぬもの そをバラモンと我は説く - 訳:江原通子
- (Dhammapada 409)
- ※subhāsubha は「高価・安価、美・醜」などの意味に取るべき。
因縁物語
舎衛城(Sāvatthī)にあるバラモンが住んでいました。その人は仕事を終えて家に帰ると、上衣(上半身にかける布)を脱いで外に置いたまま家の中に入る習慣があったのです。家の中で体臭が移らないように気をつけていたようです。ある一人の阿羅漢が、食事を終えて精舎に戻る途中、その上衣を見つけたのです。持ち主はいないのかと周りを見たところ、誰もいませんでした。そこで、「これは捨てられた布だろう」と思った阿羅漢は、衣の生地に使うために糞掃衣としてそれを拾ったのです。
そのときバラモンが、自分の上衣を比丘が持っていこうとしているのを見つけたのです。激怒した彼は、「禿頭め、なぜ私の上衣を盗ったのか?」と怒鳴りました。阿羅漢は「これはあなたのものですか。私は持ち主がいない、捨てられたものであると思ったので、糞掃衣として拾ったのです」と言って、上衣を返したのです。阿羅漢はそのいきさつを精舎の比丘たちに話しました。比丘たちは阿羅漢をからかおうとして、「その布は長いものでしたか? 短いものでしたか? 上質でしたか? 普通でしたか? 高価なものでしたか? 安物でしたか?」と、聞きただしたのです。阿羅漢は、「布の長短、品質の善し悪し、高価か安価か、などを全く気にしませんでした。ただ、糞掃衣という気持ちで拾っただけです」と答えたのです。
この答えに対して、比丘たちは疑問をいだいたのです。ものごとに対して区別判断しないというのは、覚りに達した聖者たちの精神です。「この比丘は覚っていると吹聴したい気持ちでいるのかもしれない」と思って、お釈迦さまにその旨を報告したのです。お釈迦さまは「その比丘は阿羅漢なので、ものの区別判断をしないのです。ものの価値判断をしないだけではなく、他人のもの、与えられてないものを取ることは一切ありません」と仰いました。これがダンマパダ四〇九偈の因縁物語です。説法の内容は四〇九偈に集約してあります。
区別判断しない
「区別判断しない」という言葉について、詳しく理解しなくてはいけないのです。区別能 力は認識能力です。ものごとを理解する能力です。智慧の開発を促す知識的な働きです。
区別ができなくなったら困ります。それは脳が色盲のような状態になることです。見るもの、聴くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるものの区別判断がなくなったら危険です。知覚障害です。ヴィパッサナー実践によって、一般人にある区別能力をさらにレベルアップして完成させるのです。ヴィパッサナー実践で阿羅漢果に達したならば、区別能力を完成したことになります。
判断は問題の種
問題は、区別能力ではなく判断することにあるのです。人間のこころは、区別すると同時に判断を行ないます。これは分離することはできないのです。認識してから判断に行くなら構いませんが、最初から判断にこころを染めて認識するのが世の常です。われわれは、スーパーに行ったら美味しい野菜を探します。食べない限り美味しいか不味いかは分からないのに、先入観で野菜を選ぶのです。その人には、スーパーでどれぐらいの野菜を陳列していたか分かりません。旬のものも発見していません。
人生は全体的にこのようになっています。おいしいもの、美しいもの、高価なもの、人気あるもの、金持ちやセレブが使うもの、ブランドの品などを探しているのです。それは「まず判断してから区別する」という区別能力の間違った使いかたなのです。結果として、自分の妄想に閉じ込められた世界で生きることになります。人生は失敗の連続になるし、不幸にも陥るのです。
それで終わればいいのに、区別能力の間違った使いかたは人生全般に行き渡っているのです。若者が大学を選ぶ時、仕事を選ぶ時、結婚相手を選ぶ時、人生を設計する時、子供を育てる時などにも、同じパターンに陥ります。結局のところ、大成功した、順調にうまく行っている、などの感想を抱くことができなくなるのです。生きる喜びを失うのです。
判断は区別してから
区別してから判断するならばリスク・マネジメントできるのに、こころが感情に拉致されているので、その能力はほとんどないのです。区別してから判断に進む場合は、こころが柔軟です。しかし、ひとは判断してから行動するのです。最初から判断してものごとに取り組むと、こころが固くなって変化に対応できなくなります。生まれてきた子供を、医者として育てると決めたとしましょう。子供の将来について瞬時に判断し終えたのです。
それから区別能力を活かして、教育に励むのです。最初に判断してしまった場合、子供の能力、好み、自尊心などなどを無視して、無理に教育するでしょう。最悪の結果になるに違いありません。逆に、子供の能力、好み、性格などなどを区別しながら将来性を判断したならば、子育てはスムーズに進むのです。その場合は、赤ちゃんが将来、医者になろうが、弁護士になろうが、サラリーマンになろうが関係ありません。本人が進みたい道を歩んでいるのです。
人生を幸福に導きたいと思うならば、最初から判断を下してものごとに取り組むことは控えるべきです。判断とは、それほど簡単なことではありません。なぜならば、判断を下すのは貪瞋痴の感情です。こころは感情に拉致されているのです。感情で判断しないようにと戒めていくならば、区別してから判断する方向へと、こころが成長するのです。
判断を切り捨てる訓練
ヴィパッサナー実践で区別能力が向上すると、さらに上の次元が明らかになります。
ヴィパッサナー実践とは、いかなる現象も判断しないで、そのまま観察する訓練なのです。ヴィパッサナー実践を行なう人にとっては、判断することが修行の障害になります。判断することで、成長が止まります。純粋に区別能力のみを育てて、完成させるのです。その時、ありのままに現象を観察することができるようになります。そして、徐々に真理を発見します。何も判断していないのに、一切の現象は無常・苦・無我であると発見するのです。仏教を学ぶ人々の場合は、一切の現象は無常・苦・無我であると無理に判断します。実践を成功に導いた人は、真理を判断するのではなく、発見するのです。
解脱に達した人々にとって、ものごとが長いか短いか、大きいか小さいかは関係ありません。価値があるか否かも関係ありません。すべての現象は因縁によって生じて、因縁によって消えてゆく無常の流れです。瞬間の出来事に、判断という値札を付けるのは不可能なことです。瞬間しか存在しない現象に値札を付けてみても、なんの意味もありません。
たとえば、雨の日に空を見てみましょう。美しい稲妻が大空を切り裂くのです。瞬間の出来事でしょう。その現象を一億円、十万円、千円などの価値判断で見たところで、何か役に立ちますか?「一切の現象は稲妻のように瞬間のものである」と発見した人のこころは、当然、一般人の認識次元を超越しているのです。判断を起こさずどのように生きているのかと、一般人に理解することはできないと思います。
聖者の判断
聖者は判断する次元を超えたのです。判断は不可能であると発見しているのです。それでも、日常生活においては最小限の判断をするのです。朝、昼、晩などを区別して、時期に合わせた行動の判断が必要です。托鉢の時間、いただく食べものの量などを判断しなくてはいけないのです。ひとに説法する時も、相手がどの程度で理解しているのかと判断します。阿羅漢は自分の身体を観察して、機能が衰えて寿命が尽きてくると、「涅槃に入らなくては」と判断するのです。これらは最小限の判断で、生きるうえで欠かせないものです。しかしその場合も聖者は決して、判断してから区別することはしないのです。どちらかというと、仕方がなく判断するような生き方です。
今日は白いご飯をいただきましょう、今日は玄米ご飯をいただきましょう、という判断をしてから托鉢に出かけることはしないのです。托鉢で玄米ご飯をいただいたとしましょう。しかし、自分の肉体にとっては適合しない品物です。その時、「これは食べない」という判断をするのです。今回の因縁物語の主人公である阿羅漢も、衣に必要な生地を探そうと出かけたわけではないのです。生地を見つけた。持ち主がいるか否かを調べた。ひとの気配はなかった。それなら捨てられたものだろう、と判断した。次に、糞掃衣として使える品物であると判断した。それから、拾ったのです。次に、持ち主を見つけた。その瞬間に、上衣は他人のものであると発見した。他人のものは持ち主に返してあげた。阿羅漢のこころの働きは、これで終了です。「いい生地でした。けっこう大きいものでした」などの判断は、最初からなかったのです。
与えられてないもの
与えられてないものを取ることに、世間では盗みと言うのです。出家が盗みをしないことは当然の道徳です。出家する前の人は、在家仏教徒なのです。在家仏教徒も、与えられてないものを取らないという戒を守っています。しかし、ダンマパダ四〇九偈では、「与えられてないものを取らないことこそがバラモン・聖者の特色である」と説かれているのです。それなら聖者と一般在家の人となんの変わりもないのではないか、という疑問が生じます。しかし、この偈では、一般人の偸盗戒と、聖者の「与えられてないものを取らない」という超越した精神状態を区別して理解しなくてはいけないのです。
聖者は涅槃を待っている
この「涅槃を待っている」という単語を普通の言葉に変えると「死を待っている」ということになります。自分の死を待っているという気持ちは、俗世間では決してあり得ない、俗人には決して理解できない精神状態です。一般人は、生き続けることを目指しているのです。死を徹底的に避けようと努力しているのです。仕方がなく死を迎えたら、不安に陥って怯えて、暴れるのです。自分が死ぬということは、最期の瞬間であっても認めたくはないことです。阿羅漢は違います。解脱に達したら、「為すべきことは為し終えた」のです。これからどうするのかというと、死を待っているだけです。肉体は自分の寿命を全うして壊れます。その時間までは、仕方なく待たなくてはいけないのです。
死を避ける時
死を避ける努力とは、生き続けるための努力です。生き続けると言っても、人は肉体の維持管理を考えるのです。肉体は、地球から取り入れて組み立てた代物です。瞬間瞬間、壊れてゆくのです。ですから必死で修復しなくてはいけません。生きるとは、死ぬまで身体の修復を続けることです。完成はないのです。修復している過程で、肉体そのものが完全に壊れてしまうのです。ですから生きるために、修復材料に依存しなくてはいけない。食べもの、着るもの、財産などに依存しなくてはいけないのです。修復しなかったら、身体が壊れて死にます。だから、食べるものが何もなくて飢えていると、見つけたものはなんでもいいから口に入れるのです。食べるものを買うことに決めたら、誰の金であっても盗ってしまうのです。性格が悪くて偸盗に手を染める人もいるし、仕方がなく他人のものを盗る人もいます。空気と水以外は、人間の命を支えてくれるものに持ち主がいるのです。美味しそうな松茸が自分から姿を現したとしても、その土地に持ち主がいるのです。生きていきたいと思う私たちは、何らかの仕事をして品物の所有権を手に入れなくてはならないのです。コンビニ弁当の所有権を得るためにも、六百円くらい払わなくてはいけないのです。
所有権を得ないまま命を支える品物を取り入れるならば、盗人と呼ばれるのです。与えられてないものを取ろうとすると、所有権を持つ側も財産を厳しく護ろうとします。相手に分けてあげることも、所有権を渡すことも拒むのです。そうすると、その人には生きられなくなります。ですから、幸福に問題なく生きていきたいと思う人々は、「与えられてないものを取らない」という戒めを守らなくてはいけない。しかし、この戒めを守ることは簡単ではないのです。
死を待つ時
死を待っているのは阿羅漢だけです。死を待っている人には、「与えられてないものでも取り入れて生き延びたい」という気持ちは起こらないのです。死を待っている間も、最小限、肉体を維持管理しなくてはいけません。その場合は、与えられた最小限のもので済ますのです。托鉢に出て食べ物を得られなかった時も、なんの悲しみも心配もありません。
ごちそうを貰ったとしても、なんの興奮も、気持ちの舞い上がりもありません。どうにかして生き延びたいという気持ちは消えているので、聖者は与えられてないものを取らないのです。聖者の不偸盗とは、解脱を意味します。一般人の不偸盗は、幸福に生きるための道徳なのです。道徳を守る時は、煩悩という感情と戦わなくてはいけません。阿羅漢にはその煩悩がないので、こころの葛藤さえもないのです。見た目は似ていても、一般人の不偸盗と阿羅漢の不偸盗とでは、次元が違います。
偈の解説
世の中の人々は、判断して区別する、区別して判断する、という二つの生き方をしています。肉体を維持管理する目的で判断するので、長いもの・短いものが存在するのです。
宝石などの場合は、大きいか小さいか、または高価か安物かと判断するのです。人々の周りには、生きるために欠かせない品物の数より、生きることに関係ない品物の数のほうが多いのです。それは、判断して区別するからです。区別能力が乱れているので、良いものだと判断したら、それが欲しくなるのです。区別してから判断しても、判断してから区別しても、判断結果が「良いものである」となったら、欲しくなるのです。ブランドの品物を使わない人も、「あっても悪くない」という気持ちは抱いているのです。存在欲がある限り、偸盗の罪を犯す危険性は消えません。こころから偸盗を犯す危険性が完全に消えたら、真のバラモンなのです。それが阿羅漢であり、聖者なのです。
今回のポイント
- 区別は知識と智慧の元
- 判断は悩みの種
- 区別と判断は繋がっている
- 区別能力のみを育てる