パティパダー巻頭法話

No.270(2017年8月号)

渇愛の世界

無執着に達する方法 The world of attachment

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Yodha taṇhaṃ pahantvāna
    Anāgāro paribbaje
    Taṇhābhavaparikkhīṇaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
  • 世の渇愛タンハーを捨て去りて 家なく遊行を志し
    渇愛の生起尽滅す そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 416)

渇愛を捨てる

仏教を学ぶ人ならば、「渇愛を捨てるべき」というフレーズは仏教の根本的な教えであると知っているはずです。しかし、残念なことがあります。皆、渇愛を捨てるべきであると知っていますが、それで話が終わってしまうのです。「やらなくてはいけない」「やるつもりです」というような、「つもりつもりの哲学・人生論」は仏教ではありません。「つもり」だけで問題を解決できるならば、なんと有難いことでしょうか?

「つもり」で終わるならば、何を目指しても構いません。「私は日本で第一の人気者になるつもりです」「私は世界的に認められる一流の科学者・知識人になるつもりです」「私は人類が一世紀でも感動し続けるような大発明をするつもりです」「私はアメリカの大統領になるつもりです」「私は世界を制覇するつもりです」などなど、なんでもありです。「つもり」で終わるならば、なんだって可能です。現実をいうと、「つもり哲学」でいる人の人生は一寸も前に進みません。一ヶ所に留まって、腐りはてて破壊で終了します。「渇愛を捨てるべき」だけでは、精神的な成長は見込めないのです。

実行主義

どんな立派な考えであっても、実行してみなくては、良し悪しはわかりません。空中楼閣を建てる計画は、精神病・自己破壊への道であると理解すべきです。妄想にふける人にとって、仏道が説く究極の幸福は縁のない話になります。妄想は妄想であると知って、そこで止まる。理想は理想であると知って、そこで止まる。生きるうえの悩み苦しみは、妄想ではなく現実です。それを明確に知る。しかし、そこで止まりません。なぜならば、幸福になりたいという希望がすべての生命にあるからです。その希望を実現するためには、悩み苦しみを司る原因を根絶しなくてはいけない。そこで、具体的な計画を立てて、実行しなくてはいけなくなります。実行して確かめたものは、自分のものです。切り離すことはできません。実行主義で行動して幸福に達した人の安らぎは、その人と一体になるのです。

「実行したことの結果が自分のものになる」というポイントを理解するために、わかりやすい例を出しましょう。自分がアレルギー反応を引き起こすものを食べてしまったとします。隣の人にとっては美味しくて健康にいい食べ物です。それで、アレルギー反応という最悪の結果を、隣の人に譲ってあげてみてください。そんなことは不可能です。自分の行為の結果は自分で受けなくてはいけません。かといって、「素直に結果を受け止める」という態度も不要です。どうしても、結果は自分から離れないのです。目が見えない人に、色鮮やかな世界に感動することはできません。そこで目が見える人が出てきて、「あなたの代わりに私が色鮮やかな世界を見てあげます。あなたが感動してください」と言われても、それは戯言に過ぎないでしょう。

というわけで、幸福になりたい、苦しみを乗り越えたい、と思うならば、その結果をもたらす道を実践しなくてはいけないのです。この世で何一つも、「つもり哲学」では成り立ちません。この世にある「進歩」という変化は、実行したことの結果なのです。SF作家が宇宙旅行について派手に語ります。しかしそれは、ただのフィクションです。宇宙科学の研究者たちは宇宙のことを地道に調べますが、宇宙旅行する計画は無いのです。実行可能なところまで技術が発展したならば、宇宙旅行計画も策定するでしょう。「健康にいい食べ物を美味しく食べて、長生きするつもり」といっただけでは、何にもなりません。その結果を目指して、実行しなくてはいけないのです。ここで、「仏道は実行主義の世界である」と理解しておきましょう。

さまざまな渇愛

お釈迦さまは渇愛を三つに分けています。
一、ものに対する愛着(欲愛 kāmataṇhā)。
二、生きていきたいという感情(有愛 bhavataṇhā)。
三、破壊したいという気持ち・虚無への愛着(無有愛 vibhavataṇhā)。
完全たる自由に達するためには、渇愛を根絶しなくてはいけません。これは理論的な計画です。この計画には別のタイトルもあります。それは「無執着に達すること」です。「一切の現象に対して執着を持たない」という言葉で、よりわかりやすく語っています。一切の現象とは、存在そのもののことです。存在とは、一時的に成り立つ現象であり、瞬時に泡沫のように消えるものです。それを具体的に体験した人のこころから、「執着」という感情が根絶されてしまいます。

渇愛の発見 初級編

渇愛をありのままに発見しなくてはいけないのです。しかし、それも地道に実行しなくてはいけないプログラムになります。お釈迦さまの教えを理解するだけでは、こころの成長はありません。現実的に理解して、地道に実行しなくてはいけないのです。目的は「無執着」という境地です。「私は無執着になります」というスローガンを掲げただけでは意味がありません。何に対して無執着になるのかと、具体的に発見しなくてはいけないのです。まず、自分の身の回りの品物を見てください。一個一個に対して、どれぐらい執着がありますかとチェックしてください。具体的に実行する簡単な方法があります。何か品物を取ってみて、「これを捨てられますか? 処分できますか?」と自分に素直に問うてみる。執着が極端な人にとっては、捨てられるものは一つも見つかりません。ふつうの人間には、捨てられるものと捨てられないものという二種類が現れます。ここで、品物をとおして「こころにある執着」を発見していくのです。

執着は「もの」にあるのではありません。こころの感情です。たとえば、大人にとってはダイヤが執著の種です。子供にとっては、ちっちゃくてあまり面白くないガラス玉です。科学者には、炭素の結晶です。ダイヤ自体は何もしていないのです。それを観察する人のこころの状況に応じて、さまざまな執着が現れるのです。しかし、無知な人間は「おいしいから食べてしまった」「美しいから買ってしまった」「可愛いから結婚してしまった」などなどの言葉を使っています。その人々は、自分のこころの変化は品物・対象のせいであると思っているのです。手に取った品物を捨てられるか否かをチェックすることで、「執着はこころにあるものである」と簡単に経験することができます。

次に、捨てられないものについて観察を入れます。なぜ捨てられないのかと、具体的に発見します。やり方は簡単です。たとえば冷蔵庫があります。捨てられますか? 捨てられません。では、なぜでしょうか? 携帯があります。捨てられますか? 捨てられません。では、なぜでしょうか? このプログラムで、生きるという作業の一つの側面が見えてきます。要するに、品物に頼って生きてる、という事実です。携帯・冷蔵庫などなどは、人生に欠かせないという思いがあるでしょう。本当にそうでしょうか? 観察を変えましょう。この冷蔵庫がなければ、私は死にますか? 携帯がなければ、私は死にますか? このプログラムは各人が実行しなくてはいけない宿題なので、これ以上書きません。これらの品物がなくても、人は死にません。でも、捨てられないのです。それが渇愛です。

渇愛の発見 中級編

中級編では、自分と一緒に生活している人々や生き物に対して「渇愛の発見」を実践してみるのです。文章を短縮するために、この実践に「人物観察」というラベルを張っておきます。ここでいう人物とは、自分と一緒に生活する人間とその他の生きものになります。

ペットの猫を捨てられますか? 捨てられません。自分のペットが自分から離れたからといって、ペットが死ぬわけではありません。自分にとって、ペットが可愛くてたまらないのです。その感情が渇愛です。「ペットのことを心配して、憐れみをもって飼っているのだ」という言い訳で誤魔化してはいけません。渇愛・煩悩には、「善に化ける」という働きがあります。この観察を家族・親戚・友人などなどにも実行してみてください。残酷なことではありません。妻や夫を捨てられますか? 子供を捨てられますか? 親を捨てられますか? 祖父母を捨てられますか? 兄弟を捨てられますか? などなどです。

ここで、あえて捨てられない現象を対象にしています。実践の結果、残酷でわがままな人間になるのではなく、人格者になるのです。子供を捨てられますか? 捨てられません。子供に対して、果たさなくてはいけない義務があるのです。しかし、子供がいないからといって、自分が死ぬわけではありません。子供は自分の人生に楽しみを与えてくれるかもしれませんが、同時に、心配や悩みも与えてくれる存在です。この観察を行うことで、家族とはどのような組織なのかと正しく理解するのです。残酷な人間にはなりません。文句も不平不満も言わず、自分の義務を力いっぱい果たす人間になるのです。

人物観察では、「捨てられます」「捨てられれば有難いです」という結論に達してしまう人もいるかもしれません。親・妻・子供などを捨てたいという気持ちがあるならば、それは別な発見につながります。人間関係がこじれている。自分が自分の義務を果たしていない、または自分が他人に対して必要以上のことを期待している。または、親の精いっぱいの子育てを自分が誤解している。そのように、いろんなことを発見します。さらに観察しましょう。自分は「自分のこと」ばかりを中心にして生きていて、他人の気持ちを先に考える性格ではないのです。自我意識が節度を超えています。何を隠そう、これも渇愛なのです。(渇愛のたちの悪いバージョンです。)人物観察したならば、その人は自分の精神的な問題・自分の過ち・自分の間違った態度を素直に改めることになります。

家族・ペットなどの人物を捨てられません。しかし、これらの人物がなければ自分は死ぬ、ということもありません。自分の命を支えてくれる、育ててくれる、応援してくれる、協力してくれるのだから、自分には恩返しをするという義務が生じています。義務を果たすならば、人間関係は互いに迷惑にならない穏やかなものになります。ひとが完全に正しい人間関係を築いていると仮定しましょう。それでも、そこに渇愛が働いているのです。その渇愛を発見しましょう。

渇愛の発見 上級編

上級編は難しいです。直ちに解脱に達したいと、真剣に考える人に相応しい方法です。直ちに解脱に達したいと素直に感じるようになる人は、生きることについて真剣に考えているのです。人生について、さまざまな角度で観察をしているのです。「俗世間的な生き方は、苦労に苦労を重ねなくては進まないものである。努力しても、成功を収めても、最終的に死で終わる無意味なものだ」と知っているのです。

その人は、より真剣に渇愛の発見をする。品物を観察する場合は、どんなものでも捨てられると発見します。家・家具・冷蔵庫・テレビ・携帯などなどは、あってもなくても構わない、ただのアクセサリーであると発見する。捨てないことに決めたら、それらの品物の維持管理などをしなくてはいけなくなる。食べるもの、着るもの、住むところと薬、という四種類だけが、生きることに欠かせないと発見する。生きていきたいという渇愛がある場合、この四具が節度を超えてしまいます。「いくらあってもいいのではないか?」という気持ちになるのです。その気持ちになった人は、四具を得るために財産を求めて限りなく苦労するはめになります。悩んだり落ち込んだり、攻撃したり戦ったり、心配したり不安になったりします。結局は、自分で生きているのではなく、四具という財産の奴隷になっているのです。ここで、如実に観察する人は、存在に対する渇愛を発見します。解脱に達したいという気持ちがあるから、その目的に達するまで、命を維持しなくてはいけない。だから、四具に依存するのではなく、節度を知って利用することが正しい生き方なのだ、と発見するのです。

上級編を実践する人は、人物観察も行います。家族・ペット・家畜動物などなどがなくても、生きられると発見する。生きることに執着があればあるほど、それらの人物への愛着が強くなるのだと発見します。生きることに対して愛着が薄くなって、解脱に達したいという気持ちがあれば、家族さえも捨てられるカテゴリーに入ってしまうのです。

当然その人は、家族とその他の生きものに対して自分の義務を果たしています。自分が落ち着いていても、家族とその他の生きものたちが自分に依存していることを発見します。家族などが自分を束縛していることを発見します。結局は、気づかないうちに自分が奴隷にされているのです。義務を果たすからといっても、それは終わりのない仕事です。自分か相手かどちらかが死ぬまで、果たすべき義務が続くのです。よく観察すると、無意味な行為に見えてしまいます。結果は「なんとか頑張って死ぬまで生きました」ということだけ。しかし、余計なことをしなくても、生まれたものは死ぬまで生きています。当たり前のことです。そこで、その人は自分のこころに生まれる俗世間に対するさまざまな渇愛――大胆な渇愛から、微妙でわかりにくい渇愛まで――を発見するのです。

覚悟

上級編の観察を行う人のこころに、「執着がある限り苦しみは絶えない。苦しみを超えるためには執著を断たなくてはいけない」という発見が顕れます。仏道は実行主義なので、この人はその計画を実行することを覚悟します。執著に値する俗世間のすべてを捨てることに決めます。それを仏教用語では、「出家」と言います。「家」は俗世間を意味する単語です。現実的に言えば、親も家も家族もすべての財産も捨てることになります。しかし、これは残酷な行為ではありません。

「俗世間の生きかたこそ唯一正しい行為である」と思っている人々にとっては、家も家族も仕事も捨てることはけしからん生きかたに見えるかもしれません。出家という行為がけしからんのではなく、出家を非難する人々の感情的な哲学こそがけしからんことなのです。

捨てて出家をする

上級編の観察をおこなった人が、出家することに覚悟します。「老いて介護を必要とする親まで捨てるのか?」という異論がここで生じます。なんでも捨てられるぐらい人格向上した人が、罪を犯すといったら、それは勘違いです。介護が必要な親を捨てて出家に逃げる人は、「親が死んでも気にしません」という恐ろしく我儘な存在なのです。これは解脱に達したいと思っている人格者の問題です。自分がお世話をしなかったら、誰かが哀れにも死ぬはめになるならば、自分が責任放棄すること自体が悪行為に、罪を犯したことになります。だから、介護の必要な親などがいるならば、「在家出家」を選ぶのです。在家でありながら出家というのは、少々わかりづらい矛盾した単語です。在家として金儲けを目指して、執着や感情に負けて生活はしません。自分がいなかったら命が危うくなる人々に、欠かせない義務を果たしながら、自分自身は修行者に相応しい生きかたをする。この生きかたは仏教用語でgihībrahmacārī在家梵行者と言います。自分が捨てることで、生活できなくて死ぬほどの人物がいない場合は、すべてを捨てて出家するのです。

無執着はこころの成長

執着・渇愛などは、品物のせいでも人物のせいでもないと説明しました。品物が「私に執着してくれ」と懇願することは一切ありません。こころが勝手にものごとや人物に執着して、相手に迷惑をかけて、自分も苦しむことになります。出家した人は、ものと人物を捨てたのですが、こころにある執着した性質を無くしていません。こころはまだ、ものに依存したいという気持ちでいるのです。依存したいが依存させてもらえない、という状態も苦しみの種になります。

出家者はここで、解脱を目指して観察を進めます。節度を超えないで四具を使用します。解脱に達するまで、生きていなくてはいけないからです。出家は修行として「自己観察」を行います。品物と人物の観察は、以前おこないました。最後に観察するべきなのは、自分自身のことです。執着は自分自身にあるのです。自分自身が生きているから、執着も起きている。では、「私は何に執着しているのでしょうか? 私とは何なのか?」と観察します。私とは、肉体(色)という組織、感覚(受)という組織、概念(想)という組織、衝動(行)という組織、認識する(識)という組織で出来上がっています。結局は、色受想行識に執着していたのです。色受想行識は組織であって、変化しない個体ではありません。原因によって現れて、原因が消えると無くなるものに過ぎません。瞬時に無くなるものに執着するのは愚かなことです。生きるとは、色受想行識の流れなのです。存在欲とは、この流れをどうしても維持したいという衝動(行)です。要するに、自己回転するためのカラクリです。生きることは「苦」なので、このカラクリはいりません。すべては無常であると発見する修行者は、色受想行識の組織に対しても執著を捨てるのです。その人に、これ以上、捨てるものはありません。一切の現象に対する執著を捨てるとは、完全たる解脱・自由に達したことです。その人が本物の聖者であり、本物のバラモンなのです。

今回のポイント

  • 仏教は観念を語る哲学ではありません
  • 渇愛を捨てることを実行するべきです
  • 捨てる前に渇愛を発見する
  • 執着はこころの性質です
  • 五蘊(組織)に対する執著を捨てることが解脱