パティパダー巻頭法話

No.273(2017年11月号)

生死を見極めること

解脱者の行方は認識範囲に入らない Beyond the limits of relativity

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Cutiṃ yo vedi sattānaṃ
    Upapattiñca sabbaso
    Asattaṃ sugataṃ buddhaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
  2. Yassa gatiṃ na jānanti
    Devā gandhabbamānusā
    Khīṇāsavaṃ arahantaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
  • あまねく有情の死と再生 如実に知りて無執着
    まこと幸せなる覚者 そをバラモンと我は説く
  • 赴くところ人天にんでん音楽神ガンダッバさえ知るを得ず
    煩惱尽きし阿羅漢アラハンタそをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 419,420)

三種類のブッダ

煩悩を滅尽して解脱に達した聖者は、われわれ一般人とどこが違うのかと、誰だって知りたいものです。解脱に達した聖者のことを阿羅漢(arahaṃ)と言います。お釈迦さまも阿羅漢です。しかし、人類のなかで解脱に達する道を初めて発見した先駆者であり、修行者みなの指導者であるお釈迦さまに敬意を抱いて、阿羅漢と呼ぶよりは「正等覚者(sammāsambuddha)」と呼んでいるのです。正等覚者と呼ばれるためには条件が二つあります。一つ目は、人類のなかで、自分一人で解脱に達する道を発見して、解脱に達することです。二つ目は、発見した真理を一般人に理解できるように語れる能力を持っており、なおかつ他人を指導することができることです。もしも、優れた人格者が自分一人の努力で真理に達したとしても、真理は決して言葉にならないので、他人に言語を通じて伝えることは不可能です。その場合、自分の覚りの智慧は自分だけのものになります。言語能力の壁を破ることができない聖者たちのことを、独覚者(paccekabuddha)と呼ぶのです。しかし、正等覚者の教えが世にある間、独覚者は現れません。これで、覚りに達した聖者たちは正等覚者・独覚者・阿羅漢の三種類になります。みな覚者なので、ブッダという言葉は三種類の聖者たちいずれにも使えます。

解脱に勝劣はない

覚りに達する方は誰でも、ブッダと呼ぶ宗派もあります。仏教の歴史のなかでは、仏教の真理を正しく理解していない宗派仏教の僧侶たちが、ブッダに勝劣のランクをつけようと考えたこともありました。その方々は、「完全なる解脱に達したのは正等覚者のみである。阿羅漢たちの覚りは不完全なので、さらに修行する必要があるのだ」と説かれたのです。なんの根拠もないこの分析は、笑い飛ばすしかない代物です。三種類のブッダたちの間には、当然、差があります。正等覚者は真理を語る力と、他を導く力を備えています。独覚者は言語の障害を破れないので、他人に詳しく語ることはしません。阿羅漢は、正等覚者の弟子です。だから、真理について、解脱について、他人に語ること他を導くこともできるのです。それは正等覚者の教えから、正しく学んだからです。ですから、解脱そのものに差はありません。差といえば、師弟関係だけです。阿羅漢に達した聖者たちは、最上の師匠である正等覚者を尊敬しています。それは解脱に勝劣があるからではありません。お釈迦さまは、「覚りに達した弟子たちは自分と同じ阿羅漢たちである」と説かれているのです。

解脱には勝劣が成り立たないことを理解しましょう。勝劣は俗世間の、現象世界の話です。何かを何かと比較して見ない限り、勝劣は成り立ちません。勝劣は、認識能力が相対的な範囲にとどまっている時にだけ現れる概念です。一切の現象を乗り越えたならば、相対性も乗り越えて真理に達しているのです。解脱の智慧は比較対象になりません。解脱に勝劣があると誰かが議論しているとしたら、その方が相対的な範囲を超えてないことだけは確かです。要するに、語っている本人が解脱に達してないのです。

物質の輪廻

「解脱に達した聖者たちは、どのような人格者であるのか?」というテーマについて、今月も続けて勉強してみましょう。解脱に達するために、輪廻転生を乗り越える必要があります。輪廻転生とは、生命が「生まれては死ぬ、生まれては死ぬ」というサイクルを限りなく繰り返すことです。命のことを措いて物質だけを観察しても、物質はつねに変化して別なものに変わってゆくことが理解できるでしょう。一枚の紙を例に出します。紙とは、一時的な現象です。それを燃やしてみます。紙の物質が他の物質と融合することで、紙は消えました。死んだ、ということです。しかしそれは、物質が他の形を取ったということに過ぎません。決して、完全に「無」にはなったわけではないのです。

マクロスケールの輪廻

このように、物質の変化を理解したとしても、新たな知識が生まれただけのこと。別に、こころが成長したわけではありません。ところで、生命とは一体なんでしょうか? 仏教では、物質組織の中に「こころ(感じるという機能)」が働いているから、生命と言うのです。こころも瞬間瞬間、変化して、別なこころに変わります。この働きは限りなく続くものです。仏教では、物質の輪廻を宇宙スケールで語っています。宇宙は気が狂うほど長い時間をかけて膨張するのです。その時間は、一劫(eka-kappa)と言われます。それから、膨張が止まります。時間的に、一劫かかります。それから、一劫かけて破壊していきます。破壊された状態で、空の状態で一劫とどまります。それからさらに、収縮が始まります。その間に、私たちが観察する物質宇宙が現れます。収縮が終わると、宇宙が破壊され、空の状態で一劫もちます。それから膨張のサイクルが始まります。宇宙の輪廻に対して仏教は興味がないのです。ですから、収縮破壊・膨張・膨張維持・膨張破壊・収縮・収縮維持・収縮破壊……というサイクルだけ辿っています。

生命の輪廻転生

生命とは、個人の命というよりも、「こころ」というエネルギーの流れを意味するものです。こころは物質と絡み合って活動します。だから、生命は宇宙の輪廻のサイクルに挟まれているのです。仏教では「輪廻転生」を、生命=こころの流れを指す言葉として使っています。依拠する物質の形に合わせて、こころの働き範囲も変化します。いまもわれわれのこころは、現代の物質に許される範囲で活動しているでしょう。宇宙が破壊していくと、こころの活動範囲もそれに合わせて変わります。物質がくうになったところで、こころはやむを得ず、一時的に物質に依存しないことにするのです。

ミクロでこころの流れを観察する

宇宙の生滅の流れと違って、こころの生滅の流れは、実際に理解することが可能です。こころが現れて消えるまでかかる時間は、瞬(khaṇa)です。劫(kappa)ではありません。瞬の長さは説明できないので、現代科学の概念を借りて1ナノ秒のような速さだと理解しておきましょう。こころとは何かの実体ではなく、認識する機能のことです。私たちはこころの速さをわからないのですが、次から次へと認識が変化していくことを体験できます。「手を伸ばして、カップを取る。」このシンプルな行為をおこなうために、こころは気が狂うほどたくさんの感覚データを認識して、判断しているのです。「カップを取りたい」という意思決定の認識と、「カップを取った」という意思決定の認識は、まったく違うものです。生命と定義する場合は、物質組織の中に認識機能がある、ということになります。もし認識機能が消えたならば、生命の死だと定義しなくてはいけない。もし新たな認識が起きたならば、新たな生命が生まれたと定義しなくてはいけない。では、カップを取るとき、手を伸ばすことを再び観察してみましょう。無数の感覚データが現れては消えた。認識もまた、現れては消えていった。つまり、一つの物質の組織の中で、生命が無数回、生・死・生・死の輪廻をしたということなのです。

瞬間に変身する自分

お釈迦さまが説かれた実践に取り組むならば、こころの生死の流れを体験することができます。まず、世間的なレベルの理解から始めます。生まれるのは赤ちゃんです。幼稚園には赤ちゃんではなく別な幼児が行くのです。小学生になるのは別な人間です。大学卒業して企業に就職するのは、かつて生まれた赤ちゃんではなく、別人である大人です。友達としゃべっている自分、喫茶店で一人コーヒーを飲んでいる自分、携帯でメッセージを書いている自分、仕事のために参考資料を読んでいる自分、小説に没頭している自分、などなどをチェックしてみてください。まったく同じ人間でしょうか? それぞれの瞬間に合わせて、自分という存在は変わらないのでしょうか? それぞれの瞬間で、生きている自分は、いつでも別々な人格、別々な存在なのです。知識や感情で無理をして、「すべて『私』という唯一の人間だ」と、勝手に決めつけているだけです。データを調べてみると、違う結論に達することになります。冥想実践する人々は、あえて集中して、瞬間瞬間、変身する、生まれ変わる、「自分」という現象の流れを明確に発見するのです。

輪廻はあるが「私」はいない

瞬間瞬間、自分という現象が消えて、新たに瞬間瞬間、自分という現象があらわれてゆくプロセスを観ると、自分とはただの名札に過ぎないと発見・経験します。それがすべての生命に当てはまることも理解します。これも智慧です。ひとつの現象が消えたら、否応なしに新しい現象に置き換えられるのです。それが、「生」というものです。さらに、自分の物質組織の中に起きている出来事は、一切の生命に当てはまるのだと発見します。これも智慧です。では試みに、質問しましょう。「命とは、1ナノ秒に限られたものである」と発見した人が、どんな現象に執着するのでしょうか? どんな現象が「私」であり、「私のもの」である、と思うのでしょうか? 何に執着するのでしょうか? 答え:何もありません。その人は、解脱に達している聖者なのです。

法則を発見して覚る

ブッダの弟子である修行者は、自分という存在のなかで瞬間的に起こる生死の流れを発見して、「すべての生命は同じ法則で成り立っている」と、さらに理解します。そこで、存在への執着が消え、解脱に達するのです。お釈迦さまは、この観察を宇宙スケールで実行されました。しかし、皆にものごとをマクロに体験することは難しいので、ミクロに体験してみることを推薦したのです。生命という宇宙をミクロに体験する人には、マクロに起こる輪廻転生も理解できます。マクロを体験しなくても、それについて何の疑も起こらないのです。

完全に(sabbaso)生命の(sattānaṃ)死・消えること(cuti)と生・現れること(upapatti)を知っている・発見している(vedi)。その結果、いかなる現象にも執著は起こらないことになっている(asattaṃ)。感情に流されるままで、ロボットのように生きることをやめて、正しく存在を観察するという道を歩んだ(sugataṃ)。その結果、目覚めた人になった(buddhaṃ)。その人こそ、真のバラモン・聖者であると、私(釈尊)が説く(tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ)。

相対的な事実

現象の世界に閉じ込められて生きている生命には、相対的に様々な概念が事実として現れます。「私は東京にいる。明日、大阪へ行く。来年、外国旅行をする」などなどの概念は、相対世界に閉じ込められた人にとっては事実です。ひとは死ぬ、どこかへ生まれ変われる、という言葉も、相対世界では事実です。犬、猫、象、鯨、虫、人間、地獄、餓鬼界、天界などなども、相対世界においては事実です。一切の相対世界を乗り越えたら、その事実は一時的な現象に過ぎないと発見します。

相対性を超えると概念は成り立たない

例を出して、分かりやすくしましょう。「高い」。これは理解できますか? 理解しているつもりでしょう。しかし、「低い」という現象と、あなたは瞬間に比較してみたのです。しかし。「高い」だけでは、なんの意味もありません。ビルが高い、背が高い、などなどの概念と組み合せなくてはいけないのです。ビルが高いという場合は、比較するために頭の中に低いビルがなければ、意味が成り立ちません。ビルが一個しか存在しない場合は、高いとも低いとも言えなくなります。ビルという単語すら、他の何かのお陰で現れるのです。われわれの心のなかにあるすべての知識、すべての概念は、そのように相対的に成り立っているものです。相対性を超えたら、何一つ成り立たないのです。解脱者は、相対性を超えた人です。知識の次元を破った人です。概念の制限を破った人です。ですから、「解脱者は死後、どこへ往くのか?」という疑問は、そもそも成り立たないのです。相対性を破った人こそ、真のバラモンであり、聖者なのです。

今回のポイント

  • 解脱者は生命の生死を知り尽くす
  • 命は瞬間に限られる
  • 一切現象の命も瞬間で終わる
  • 執着に値する現象は成り立たない
  • 解脱者は相対性を超える