No.276(2018年2月号)
完全な禊(みそぎ)
自らのこころを清めること Perfect ablution
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Usabhaṃ pavaraṃ vīraṃ
Mahesiṃ vijitāvinaṃ
Anejaṃ nahātakaṃ buddhaṃ
Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
- いとも気高し牛の王 勇者、大仙、征服者
不動、禊なす覚者 そをバラモンと我は説く - 和訳 江原通子/補訳 スマナサーラ長老
阿羅漢に達した聖者たちのこころについて、長く説明してきました。説明自体はほとんど終わっているので、今月も繰り返しになる恐れがあります。そこで少々、雰囲気を変えるために、アングリマーラという大阿羅漢のエピソードを思い出してみましょう。アングリマーラ聖者は八十大阿羅漢の一人です。仏教の世界では有名なエピソードなので、物語を繰り返さないで、いくつかのポイントだけ取りあげます。
犯罪と解脱
犯罪者と解脱者は正反対の存在です。アングリマーラ尊者は出家する以前、コーサラ国の国民みなを脅かした大量殺人犯でした。当時インドで最も強大な国がコーサラ国でした。その国王さえ、アングリマーラに怯えていたのです。残酷に人を殺す人、無差別殺人を犯す人は、更生不可能な精神病に罹っています。脳を正常に戻すことは不可能です。テーラワーダ仏教に伝わる物語によると、アングリマーラは九九九人の被害者の親指を切って、首飾りを作って身に着けていたそうです。仏典では、人の本名よりあだ名を使います。アングリとは指、マーラとは首飾り。指の首飾りをしていたので、アングリマーラと呼ばれたのです。本名はGagga Mantānīputtaですが、ほとんど忘れられています。精神的に完全に壊れた人ならば、解脱に達するどころか修行することもできないはずでしょう。では、なぜアングリマーラは覚りに達したのでしょうか?
生贄の供犠
当時のバラモンたちは、ヤギ・牛・馬・ヒツジ・ニワトリなどの生き物を生贄にして、自分が信じる神様を讃嘆していました。殺生は悪行為ですが、儀式を行っていたバラモンたちは敬虔な気持ちで宗教儀式として真剣に生贄を奉げていたのです。「殺される動物たちも、天国に生まれ変わるのだ」と信じていたのです。残酷な殺生や食べるための殺生と、生贄の殺生ではニュアンスが違います。頭は迷信で凝り固まっていたかもしれませんが、精神がいかれていたわけではないのです。当時のインド社会では、バラモンはエリートで知識人だったのです。
アングリマーラもまた、超エリートの学校で教育を受ける優秀な青年バラモンでした。他の生徒たちは学校を最優秀で卒業したアングリマーラのことを妬んで、師匠に彼の悪口を吹き込んだのです。我が子のように愛していた愛弟子に裏切られたと勘違いした師匠は、アングリマーラが誰かに殺されるように計画を練りました。弟子にこのように言ったのです。「わしは神様に千人の人を生贄に捧げる約束をした。しかし歳なのでその約束を守れない。わしの代わりに生贄の儀式を行ってくれれば、それがそなたの学費代わりになるだろう。」バラモン学校では、学費は卒業後に払う習慣になっていたのです。師匠を信じ込んでいたアングリマーラは、真剣まじめな気持ちで人殺し(生贄儀式)を始めたのです。彼は生まれつき武芸の才にも溢れていたので、誰にも倒すことはできなかったのです。結果として、アングリマーラはコーサラ国民みなを脅かす殺人鬼になりました。しかし、彼を精神的にいかれた人だと断定することはできないのです。
真理の探究と性格
「私は知識人だ、エリートだ」という傲慢な気持ちでこころが汚れるならば、その人に知識人になることは不可能です。自分の身についた知識も衰えていくのです。「私が知っていることより、知らない世界のほうが広大無辺である。知らないことを教えてくれるならば、たとえ相手が不可触民であっても、敬礼して学ぼう」という謙虚さがある人は、本物の知識人であり、理性のある人です。真理を発見する可能性が大いにあります。「仏教を学んで修行して解脱に達するために必要な資格はなんでしょうか?」と問われたところで、お釈迦さまは「謙虚であること」という一つの条件だけを挙げました。
世界は殺人鬼アングリマーラに怯えていたが、不思議なことに超一流の知識人でもあった彼には、「謙虚さ」という解脱の条件が完璧に備わっていたのです。仲間の学生に妬まれていたが、アングリマーラはそれにも気づかないほど謙虚な人だったのです。
罪を犯しても悪人にならないこと
ひとは不完全です。貪瞋痴の衝動で生きています。だから、生きていくうえで失敗ばかりするのです。間違いを犯すし、罪も犯すのです。完全無欠な性格は誰にもありません。解脱を目指そうとする人々は誰だって、もともと罪を犯した人々なのです。こころが汚れているのです。こころが汚れてないならば、修行する必要すらないでしょう。ですから、「罪人には修行できない」という理論は成り立ちません。
ひとは罪を犯したとしても、「悪人」になってはならないのです。悪人とは、自分の罪を認めない、罪を正当化する、言いわけをする、自我を張る人のことです。自分が犯した罪を素直に認める人は、救いがたい悪人ではないのです。自分の罪を認めて懺悔することが仏教の常識です。仏教徒は、仏像の前に手を合わせるたびに懺悔をします。朝昼晩、真夜中でも、時間に関係なく懺悔をします。罪を犯したことがあっても、戒律を守って真剣に生活しても、懺悔をします。自分が気づかなかった罪に対しても、懺悔をするのです。この習慣を通して、必死に謙虚な人間になろうとするのです。謙虚でなければ、解脱に達することはできません。
アングリマーラに出会ったお釈迦さま、「君は無知ゆえに人生をあてもなく走り続けている。目的に達した私は、勝利を得て止まっているのだ」という意味の言葉を告げました。その一言で、アングリマーラの目が覚めたのです。知らないことは誰からでも教えてもらうという謙虚さがあったからこそです。釈尊の一言で、生贄のために人を殺す行為を止やめたのです。それから、ブッダの言葉を学び実践して、覚りに達しました。ひとは罪を犯しても、悪人になってはいけないのです。
悪行為の結果
罪を犯したら不幸になる。善因善果悪因悪果。これは法則です。誰にも変えることはできないことです。ひとが阿羅漢に覚ったら、輪廻転生はありません。だから、悪行為(悪業)にも、死後まで追いかけて限りなく罪を犯した生命を苦しめることはできないのです。悪行為のポテンシャルは、その結果を出すまで消えません。善行為も同じです。条件が揃ったら、過去の悪行為が結果を出したり、また過去の善行為が結果を出したりします。業の支配から自由になるためには、解脱に達して輪廻転生を中止にしなくてはいけないのです。
私たちにも、慈悲の実践を行うことで、善行為をすることで、善良な仲間とつきあうことで、自分の人生に悪業が割り込む条件を妨げることができます。そうするならば、過去の善業が割り込んで善い結果を出してくれるのです。
聖者も迫害を受ける
アングリマーラ尊者は在家の時、常識を超えるほどの罪を犯したのです。被害者の親族は当然、深い恨みを抱いていました。出家してコーサラ国王の保護を受けていたアングリマーラ尊者に対して、一般の人々は割り切れない気持ちを抱いていたのです。尊者が托鉢に出ると、石を投げられたり、怪我を負わされたりするのが常でした。托鉢から帰ると、いつでも衣が血まみれになっていたのです。解脱に達してもまだ肉体は残っているので、悪業は肉体に苦を与えるのです。誰かがカラスを追い払おうと投げた石すら、アングリマーラ尊者の身体に当たったのだと言われています。尊者は確立された忍耐によって、悪業の結果を受けていました。しかし、聖者に怪我をさせて、人々が新たな罪を犯すことに強烈な憐れみを抱いていたのです。
ある日の托鉢中、アングリマーラ尊者は難産で死にかけていた妊婦さんの姿を目にしました。その女性を助ける方法があるでしょうかと、釈尊に尋ねたのです。お釈迦さまは、「では、『生まれてからこの方は、意図的に生命を奪ったことがありません。この真理の力で苦しみがなくなりますように』と妊婦の前で唱えてください」と仰ったのです。アングリマーラ尊者は、「私はかつて殺人鬼でしたから、そのような文句を唱えられません」と答えました。お釈迦さまは文章を訂正して、「聖者として生まれてからこの方は、意図的に生命を奪ったことがありません。この真理の力によって、あなたの苦しみがなくなりますように。胎児が幸福になりますように」という文句を教えてあげたのです。尊者がその文句を妊婦さんの前で唱えると、たちまち、無事に子供が生まれました。この経典は、いまも安産のために唱えられています。
暴れ象
ある日、コーサラ国王は釈尊と大阿羅漢の方々に最大スケールでお布施の儀式をおこないました。食事中の阿羅漢たちの後ろには象が一頭ずつ控えて、鼻でつかんだパラソルをかかげる手筈になっていました。しかし、そのうち一頭の象が発情期になってしまったのです。雄象は一年に一回、発情期を迎えると暴れます。その期間は、象使いの命令も一切聞かないのです。近寄ったら殺されるおそれが大です。しかし、阿羅漢一人にパラソルがないということは、王様にとって格好が悪いことです。皆で話し合った結果、暴れていた象にパラソルを持たせ、アングリマーラ尊者の後ろに立たせることにしました。(私見ですが、あるいは一般の人々は、尊者が象に殺されても構わないと思っていたかも知れません。)しかし、暴れ象は、尊者の姿を見た瞬間におそれいって震えあがり、とても丁寧に大人しく傘をさしました。アングリマーラ尊者も、何も気にすることなく食事をなさったのです。
「怖かったでしょう?」
このエピソードを聞いた一般のお坊さんたちは「暴れ象のそばで食事をしたときはきっと怖くなったでしょう」と尋ねました。尊者は、「何も思わなかったよ。静かに食事をしただけです」と答えたのです。比丘たちは、「この人は自分が覚っていると仄めかしているのではないか?」と、釈尊に報告したのです。お釈迦さまは、アングリマーラ尊者が解脱者であることを認めます。それから、覚りに達した聖者の性格について語られたのです。
王牛
インド文学の場合は、牛という単語は必ず家畜動物のために使う、という決まりはないのです。「偉大なる人」という表現の場合にも、偉大なる牛・王牛などの言葉を使うのです。一般人とは桁違いの性格を持っている人、という意味になります。ですから、阿羅漢は「偉大なる王牛(usabhaṃ pavaraṃ)」なのです。
勇者
「勇者(vīraṃ)」とは、悪条件を乗り越えて勝利を収める人のことです。一般人は、条件が悪くなると音をあげます。勇気をもって対応しないのです。何かに成功したければ、それに関連する悪条件を越えなくてはいけません。エベレストを制覇することも、世界チャンピオンになることも、金メダルを獲ることも、それほど難しくはないのです。悪条件を乗り越えることが必要です。解脱に達する場合は、こころの本能である煩悩に打ち勝たなくてはいけないのです。それは俗世間のどんな勝負よりも難しい闘いです。エベレスト制覇する人も、煩悩があるからこそ頑張っているのです。闘っているのです。ですから、勇者たちの中で本物の勇者は解脱者なのです。
仙人
俗世間から離れて修行に専念する人々のことを、一般人は仙人と呼びます。山の中に隠れて、一般人と顔を合わせることなく、木から落ちたものを拾って食べて、仙人は修行するのです。問題は、自分が決めた修行法をやたらにおこなったからと言って、こころが完全に清らかになるかどうかです。修行した分は褒められますが、ゴールに達しなければ完全に信頼することはできないのです。釈尊は、具体的に分かりやすく、解脱に達する道を語っています。曖昧な言葉を使わず、疑が起きないように明確に、完全に道を語るのです。その道順で修行すれば、人は確実に解脱に達します。(謙虚であることが唯一の条件です。)ですから、解脱に達した聖者こそが本物の「仙人(mahesiṃ)」なのです。
征服者
昔の王は、将軍を兼ねていました。生まれてから王になるまでに、政敵との権力争いに勝って国を掌握しなくてはいけないのです。自国の平和を脅かすならば、周りの国も攻めて征服するのです。実際に戦争を起こさなくても、国王に対する敬称として「征服者」という言葉が使われます。凶暴かつ残酷な性格で、そのうえ武術を学んでいるならば、他国を攻めて勝利することはあり得る話です。べつに不思議なことではないので、王様の銅像までつくって拝む必要などないのです。
修行して解脱に達することも、厳しい戦いです。眼耳鼻舌身意という六ケ所で、こころは色声香味触法の攻撃を受けているのです。こころは汚れて、悩み苦しみに陥ります。また、罪を犯してしまいます。そのように、生命は輪廻転生の罠に嵌められているのです。修行者はその罠を突破するため、戦争に挑みます。色声香味触法の攻撃を受けても、こころが被害を受けないように、しっかり守る訓練をするのです。やがて勝利を得ます。色声香味触法がいくら攻撃をしても、自然に攻撃をかわして、こころを安全に安穏に保つことができる能力が身につくのです。それが「解脱に達した」ということです。ですから、本物の「征服者(vijitāvinaṃ)」は解脱者なのです。
不動
ふつうのこころは、決して不動にはなりません。生きるためには、絶えず認識し続けなくてはいけないのです。そのためには、色声香味触法という情報が絶えずこころに触れなくてはいけないのです。「生きていきたい、死にたくない」という根本渇愛がある生命は、いかに認識し続ければいいのかと心配しているのです。ものに依存したり、贅沢な生きかたを夢想したり、物事に執着したりするのです。執着があれば、限りなく悩みます。限りなく妄想できます。それでこころが回転します。たとえば、人は「家族を守る」というフレーズで家族に対して愛着を抱くことにする。その瞬間から彼は、どうすれば家族を守れるのかと悩まなくてはいけないのです。自分が死ぬまで頑張っても、家族を完全に守ることはできません。だから、いくらでも悩めますし、いくらでも計画を立てられます。何をやっても充分ではないから、さらに頑張らなくてはいけないのです。それで得る結果はなんでしょうか? 家族を守り切ることはできません。家族を置いて自分一人で死ぬのです。結局、本人は「生きていなくてはいけない、死ぬわけにはいきません」という感情で認識をし続けただけです。つまり、輪廻をつなげただけなのです。
認識し続けるために、色声香味触法の攻撃が必要です。執着があれば、煩悩があれば、色声香味触法の攻撃で激しくこころを揺らすことができます。俗世間で俗人として生きるためには、こころの揺らぎが欠かせないエネルギーになるのです。こころを激しく揺らしたからと言って、得る結果は悩み苦しみ不安以外に何もありません。存在欲がある限り、輪廻転生するのです。仏道の修行者はこの俗世間の道をやめて、色声香味触法によってこころが揺らがないように保つ技を身につけるのです。存在欲(渇愛)を断つのです。その結果、こころは何が起きても揺らがない安穏な境地に達するのです。煩悩によって揺らがないので、解脱者のこころは「不動(anejaṃ)」と言えますが、涅槃に入るまで普通の認識の流れがあるのです。しかし、認識してもこころが貪瞋痴の刺激を受けて揺らぐことはないのです。
禊(みそぎ)
バラモンたちは、聖なる河に入って身体を清めます。河に入って沐浴すれば、こころの汚れまで洗い流せるのだと信仰しているのです。その信仰は一般的にも知られていたので、バラモン教以外の修行者たちも、沐浴で心身を清めようと励んでいたのです。それに対して、仏教はそんな迷信を認めませんでした。「沐浴することで罪を洗い流せるならば、水に棲んでいる魚、カエル、亀、水蛇などは人間より優れているのではないか、覚っているのではないか」というツッコミを入れて迷信を笑ったのです。本当の禊とは、こころの汚れである煩悩を断つことです。煩悩を断つ具体的な方法をお釈迦さまが説かれています。釈尊の説かれたとおりに修行して、修行者はこころの煩悩を完全に洗い流すのです。智慧が顕れて真理を発見することで、こころは二度と汚れないようになります。解脱者こそが、完全な禊(nahātakaṃ)をおこなった人なのです。
解脱に達した人のことは、智慧が顕れた方なのでブッダ(buddha)と呼びます。本物の聖職者、最高に優れた人、という意味でバラモン(brāhmaṇaṃ)とも呼ぶのです。
今回のポイント
- 善悪行為は結果を出します
- 輪廻転生する限り業からは解放されません
- 罪は素直に懺悔するべきです
- 謙虚でなければ解脱に達しません
- 儀式儀礼に励んでもこころは清らかになりません