パティパダー巻頭法話

No.278(2018年4月号)

激流の渡り方

苦を司る煩悩の激流 The method of crossing the torrent of suffering

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Oghataraṇasutta 度暴流経より

  • Cirassaṃ vata passāmi
    Brāhmaṇaṃ parinibbutaṃ
    Appatiṭṭhaṃ anāyūhaṃ
    Tiṇṇaṃ loke visattikaṃ
  • 実に久しく私は見た
    寂滅しているバラモンを
    止まることなく、求めることなく
    世の執着を超えたお方を
  • 和訳:片山一良

相応部経典の構成

今月はSaṃyuttanikāyo相応部Sagāthāvagga有偈篇(一)Devatāsaṃyutta天相応の第一経を紹介いたします。相応部経典は、五つのセクションに分かれています。①Sagāthāvagga有偈篇、②Nidānavagga因縁篇、③Khandhavagga蘊篇、④Saḷāyatanavagga六処篇、⑤Mahāvagga大篇です。各篇はまた章ごとに分かれています。例えば、有偈篇の場合は、⑴Devatāsaṃyutta天(女神)相応、⑵Devaputtasaṃyutta天子相応、⑶Kosalasaṃyuttaコーサラ相応、⑷Mārasaṃyutta悪魔相応、⑸Bhikkhunīsaṃyutta比丘尼相応、⑹Brahmasaṃyutta梵天相応、⑺Brāhmaṇasaṃyuttaバラモン相応、⑻Vaṅgīsasaṃyuttaワンギーサ相応、⑼Vanasaṃyutta林相応、⑽Yakkhasaṃyuttaヤッカ相応、⑾Sakkasaṃyuttaサッカ相応です。この有偈篇全十一章の共通点は、ブッダの言葉が偈にまとめられていたり、偈として説かれていたりすることです。誰かが釈尊に質問する時も、質問は偈になっているのです。また、各相応はさらに十経典ごとにまとめたグループに分けられており、⑴Devatāsaṃyutta天(女神)相応は八つのグループで構成されています。今月、解説するのは、その第一グループNaḷavagga葦の章の第一Oghataraṇasutta度暴流経どぼるきょうです。

中村元先生(『ブッダ 神々との対話』岩波文庫)、増谷文雄先生(『阿含経典2』ちくま学芸文庫)、片山一良先生(『パーリ仏典 第三期1 相応部有偈篇』大蔵出版)といった先生方による日本語訳テキストもありますので、参考にしてください。ここでは、必要なところだけ日本語訳をいたします。

度暴流経

ある女神が夜更けに祇園精舎を照らして、釈尊のおられる場所に近づきました。そして釈尊を礼拝して、一方に立ちました。女神は、釈尊にこのように言いました。
「尊師、あなたはどのようにして、激流を渡ったのでしょうか?」
釈尊が答えます。
「止まることもなく、もがくこともなく、激流を渡ったのです。」
女神がさらに問います。
「《止まることもなく、もがくこともなく、激流を渡った》とは、どのように理解すべきでしょうか?」
釈尊がまた答えます。
「もし私が止まったら、(すぐに)溺れてしまいます。もし私がもがいたら、流されて溺れてしまいます。ですから、私は止まることもなく、もがくこともなく、激流を渡ったのです。」

日本語訳はここまでにして、経典の意味を説明したいと思います。この経典は、パーリ語を知っただけで理解できる経典ではありません。とても難解な内容なので、たとえを使った理解も難しいのです。それでも、まずはたとえで説明します。
自分が激流に落ちたとしましょう。そこで何もせずに止まっていたら、溺れ死ぬのです。興奮してハチャメチャにもがいたならば、わずかな時間は浮かぶかもしれませんが、結局は力尽きて溺れ死ぬのです。恐怖の激流を渡って安全な岸に達したいと思うならば、理性を使って精進しなくてはいけないでしょう。
残念ながら、経典はここで終わるのです。お釈迦さまの答えを聞いた女神は、このように詠います。

「実に久しく私は見た
寂滅しているバラモンを
止まることなく、求めることなく
世の執着を超えたお方を」

お釈迦さまの謎かけ

相応部の編集の仕方から考えると、有偈相応ではお釈迦さまが説かれた偈で経典が終了しなくてはいけないのに、この経典は女神の「感想の偈」で終了しているのです。お釈迦さまの明確な説法はありません。おそらく、この経典は我々に宿題を出しているのでしょう。この経典の意味を、私たち各自で解読して理解しなくてはいけないのです。この経典の注釈書は、いくらかのヒントを与えてくれます。これから、その謎ときに挑戦してみましょう。

この経典には、「解脱に達するために、どのように修行すればよいのか?」というポイントが説かれているのです。止まってはいけないし、もがいてもいけない。「では、どうすればよいのか?」ということが問題です。たとえだけ読んだら、「泳げばいいでしょう」と言うかもしれません。しかし、泳げない人だったらどうでしょうか? 泳げる人であっても、疲れ果てたらどうでしょうか? 仏道とは、性格的に素直な人であれば、精進すれば解脱に達する道なのです。解脱は特定の人間だけに限られた特権ではありません。釈尊は真理を梵天・神々・人類に平等に発表したのです。やってみるのは、私たち個々人の責任です。

激流

煩悩を指して「激流(ogha)」と言うのです。基本煩悩は、無明と渇愛です。無明とは真理を発見していないこと、渇愛とは存在に対する愛着です。煩悩は貪瞋痴であるとも言います。煩悩という単語は現代人のこころに響かないので、私は「感情」という言葉を使っています。

生命は感情に流されて生きているのです。判断する時は、理性を使いません。感情に判断を任せているのです。それから、理性を使ったかのごとく、たくさんの言いわけを加えるのです。たとえば人が、「金を儲けたい」と思います。判断はもう決まっている。そこで、なぜ金が必要なのかと訊けば、いろいろ言いわけを並べるでしょう。次に、その人は客観的に市場の状況を調べて、商売に励むかもしれません。儲かる可能性もあるでしょう。それで、彼は理性的で堅実に活動する人間ではないかと俗世間が判断するのです。しかし、その人の生き方の道を決めたのは、「金を儲けたい」という判断なのです。この判断は、感情の押し付けです。

この世には、政治活動、経済活動、研究活動、芸術活動などなどがあります。私たちは家族を築きます。そこに仲間も入れて、自分が住む社会を拡大するのです。まれに、国のスケールで考える人や地球スケールで考える人も現れます。社会を拡大すると、その分、成果が下がるのです。地球スケールでものごとを考える方々の場合、成果はわずかです。家族の幸福だけを考えるならば、成果を出すことはそれほど難しくないのです。ここで善し悪しの判断をやめて、別なことを考えましょう。根本的な衝動はなんでしょうか? 社会のスケールが「自分だけ」という最小のものであって、「地球」という最大のものであっても、衝動は存在欲、渇愛なのです。

ここで結論を出しましょう。生命は感情に支配されているのです。感情に流されているのです。生命はすでに激流に呑まれているのです。誰一人として、「私は激流と関係ない」と言えないのです。

輪廻も激流です

輪廻もまた、恐怖と苦しみに満ちた激流なのです。生命は生老病死を繰り返しています。こころのエネルギーは死で停止しないのです。こころは身体を支配して管理しているのです。存在欲はこころの感情です。こころは肉体を通して不死を目指しているのです。われわれは何をやるにしても、最終的には「死なないため」におこなっている、ということが理解できると思います。

簡単な質問を考えてみましょう。なぜ、呼吸しているの? なぜ、ご飯を食べているの? なぜ、水やその他の飲料水を飲んでいるの? なぜ、健康を維持しようと努力しているの? 最終的な答えは、「死なないため」です。

では、いままで誰か一人でも、死なないことに成功したでしょうか? 誰もいませんね。では、我々の「生きる」という桁外れの努力を止めてみる気持ちはありますか? ありませんね。存在欲の奴隷になっている生命は、がむしゃらに生きる努力をしているのです。獲得する結果は、悩み・苦しみ・失望・怨憎会苦・愛別離苦・老・病・死です。存在欲を断っていないので、またそのサイクルを繰り返すのです。

「輪廻転生は存在しない」「輪廻転生をしたくはない」「命は死で終わる」などなど、気休めの概念を言い張っても、流れるエネルギーに停止はありません。存在欲を断たない限り、生命は輪廻転生します。輪廻とは苦しみの回転なので、激流と言われるのです。私たちはすでに、輪廻転生という激流に呑まれているのです。

止まること

激流に呑み込まれている生命は、止まってはいけないのです。溺れ死ぬからです。止まったら、安全な岸に達することはできません。これは謎の言葉です。本当の激流に流された人は、激流の中で何かにつかまってみようとします。それに縋れば、安心だと思ってしまうのです。

このたとえを生命に当てはめてみましょう。我々はさまざまなものに執着しています。あらゆるものに依存して、「これで安心だ、これで安心だ」と思うのです。国家は軍事力を増強すれば安心だと思っています。ひとには、大富豪になれば安心だ、マイホームがあれば安心だ、知識人になれば安心だ、結婚できれば・家族がいれば安心だ、などなど縋る対象はいくらでもあるのです。量を知って食べれば健康で安心だ、菜食主義なら健康にいられるのだ、環境がきれいなところに住めば安心だ、と思う人もいます。しかし、彼らは本当のことを言っているのでしょうか? なにに縋ってみても、生老病死の悪循環から抜けていないでしょう。

止まるとは執着

家族に執着すると、その人の人生はそこで止まるのです。その人は家族のために、死に物狂いで頑張ります。得られる結果は、自分が苦労に苦労を重ねて老いて死ぬだけです。病に侵されて死を迎えるとき、「生きていたい」と渇望する彼を助けることは、家族にもできない話です。他になにかに執着して縋っても、それが本人を救ってくれることは無いのです。無駄に苦労しただけのことです。しかし、存在欲がある限り、執着しないでいることも不可能なのです。

宗教に縋る

人類は、信仰する宗教がなければ生きていられないと思っているようです。信仰があっても、無宗教だと言い張っていても、結局なにかを信仰しているのです。「肉体が滅びても魂は永遠だ」という宗教的観念を考えてみましょう。鵜呑みで信仰すれば、精神的に安心します。毎日、経験する生きる苦しみを無視できるのです。人生は大失敗しても、自分が事故を起こして障碍者になっても、安心することができます。その人はある宗教的な観念に執着して、空虚な安心を感じているのです。それでも、本人には悩み苦しみ不安が付き纏うのです。

ポイントをわかりやすくするために、とても失礼な言葉を書きます。「魂は永遠不滅だ」と、真剣まじめに信じている人を見つけましょう。その人に、このように言ってみましょう。「あなたは、魂が永遠不滅だと言い張っています。生きることは苦しいと知っています。病気に罹ること、仕事を失敗すること、十分な収入が得られないこと、敵の攻撃を受けること、などなどは大変だと知っています。苦の巣である、この身体を苦労して維持し続けることは無意味でしょう。いますぐ死んで、永遠不滅に帰ったらいかがでしょうか?」直ちに死になさいと言われたら、必ず相手は怒ると思います。それから、言いわけを羅列するでしょう。

お釈迦さまの時代にも、宗教がたくさんありました。どんな宗教家も、この世が幸福に満ちているとは思っていなかったのです。多かれ少なかれ生きることの苦しみを知って、不安・不満を感じていたのです。そこで彼らは、思考を働かせて宗教的な観念を作りました。自分で作った宗教哲学に徹底的に執着して、他人にも信仰させることにしたのです。宗教も一つの執着対象です。信仰する宗教があるならば、その人も激流の中で止まっているのです。家族に執着したら、家族のために苦労するでしょう。信仰観念に執着したら、当然その信仰観念のために苦労するはめになります。家族に自分を救うことはできないのと同じく、信仰観念にも人を救うことはできないのです。

もがくこと

激流に呑まれてもがく人は、そのまま止まっている人よりはマシに見えます。しかし、結局は溺れ死ぬのです。この世の中には、なんでも否定する虚無主義者たちがいます。派手に無神論を語る人々、唯物論を信じる人々もいるのです。「生命は突然現れたもので、死によってその生命は終わるのだ」と説く人々もいる。これらの人々は自分たちの観念を喋っているだけで、はっきりした証拠に基づいて語っているわけではありません。彼らには、生きるためのしっかりしたガイドラインがないのです。無神論を奉じる人々は、信仰を持つ人々よりも真面目に生きようと努力しています。しかし、「死で終わるこの人生ならば、何をやって生きても構わないでしょう」と訊かれたら、納得できる答えを出せないのです。

「死ぬまで平和に、頑張って生きましょう」という考えを持っても、存在欲の問題を解決していないのです。生きる苦しみは変わりません。無神論者であっても、欲・怒り・嫉妬・悩み・苦しみ・落ち込み・などが起こるのです。病に陥ったら、信仰の有無にかかわらず苦しいのです。無神論の立場、虚無主義の立場を持っている人々は、何かに執着して止まっていないように見えますが、もがいていることは確かです。その人々には、ガイドがないのです。

また、表面的にもがく人々も見えます。たとえば、絶対神、永遠の魂などを信じて、それぞれの宗教に言われたとおりに修行する人々です。ジャイナ教では「魂は永遠不滅で至福である」と説きます。「しかし、魂に物質が付着しているがために、生老病死と輪廻転生で苦労しなくてはいけないのだ」と、さらに説明するのです。そこで彼らは、苦行を提案します。「苦行して、魂に物質が付着することを止めれば、全知全能の永遠不滅に達するのだ」と主張するのです。ジャイナ教の修行者は、苦行を実践しています。輪廻を乗り越えたいと頑張っているように見えますが、実際は激流でもがいているだけなのです。

別な解釈:有無論

こころはものごとを認識する時、「有る」という極論か、「無い」という極論に陥るのです。一般的に言えば、ものごとをイエスかノーの二つに分けてみることです。我々は真理を知らない世界にいるから、「魂が有る」と言う人にも、それなりの理由があるのです。その意見を聞いた他の人が、別な極論で「魂は無い」と主張します。その人にも、それなりの理由があるのです。どちらにも、決着をつけることはできないのです。神が存在する/存在しない、という問題も同じです。

お釈迦さまはこのように説きます。「生命は有という極論に陥るか、無という極論に陥るか、どちらかです。如来は極論を避けて、中正で真理を語るのです。」釈尊の説く中正を、一般人は理解しないようです。かえって、変な立場を作るのです。たとえば、「真理は有ると無しとの両方です」という立場。または、「真理は有るでもない、無いでもない」という立場です。屁理屈で概念を砕いても、結局は有にするか無にするか、という二つに入ってしまうのです。

このうち、「有る」という立場を取る人々は、激流で止まっているグループです。「無い」という立場を取る人々は、激流でもがくグループです。もしかすると人は、時に「有る」という立場を取ったり、時に「無い」という立場を取ったりするかもしれません。それでも大丈夫。止まったりもがいたりしているだけのことですから。決して、激流を脱出してはいないのです。

さまざまな有無論

難しい哲学思考を持ち出すまでもなく、世の中は有無論だらけなのです。道徳は必要ですか? 必要であるという人々も、必要でないという人々もいるのです。ある程度は必要だと言って、一部を取って一部を捨てる人々もいる。世の中のどんな意見も、そんなものです。

試みに、大胆な質問を出します。北朝鮮は日本を攻撃するでしょうか? 答えは? どのように答えても、有の極論に嵌るか、無の極論に嵌るか、有無の極論に嵌るか、よくわからないという無知の極論に嵌るか、いずれかにしなくてはいけないでしょう。早起きが良いでしょうか? 朝寝坊が良いのでしょうか? 真剣まじめに勉強するべきでしょうか? 気持ちよく楽しく緩やかに勉強するべきでしょうか? 身体を完璧に清潔に保つべきか? 細菌に耐えられるようにするべきか? このように、人のいかなる考えも、有無の極論に嵌っているのです。有の極論を取ったら「止まっている人である」、無の極論を取ったら「もがいている人である」と理解しておけば、謎解きは簡単でしょう。

答え

答えは、激流を渡る方法なのです。一切は因縁によって生じて、因縁によって消えていきます。すべては一時的な現象です。ものごとが生起すると、「有」だと認識してしまう。滅すると、「無」だと認識してしまう。その認識すら、相対的です。現象の因縁法則を発見する人、苦しみが執著によって現れるものだと知っている人、すべて無常なので自我・自分という観念が成り立たないと発見して、一切の現象に対する執着を捨てることに成功した人が、激流を見事に渡るのです。わかりやすい答えは、「聖八正道を実行すること」です。

今回のポイント

  • 怠けて止まることはいけません
  • やみくもに頑張っても意味がありません
  • ひとは有無の極論の間で彷徨っている
  • 俗世間のどんな思考にも決着は成り立ちません
  • 無執着の精神が仏道です