No.288(2019年2月号)
美しく生きる
真の輝きは清らかなこころです Radiance of life
今月の巻頭偈
Araññasuttaṃ(SN 1-10)
森林経(相応部 1-10)
- 10. Sāvatthinidānaṃ .
Ekamantaṃ ṭhitā kho sā devatā
bhagavantaṃ gāthāya ajjhabhāsi -
サーワッティ因縁。
一方に立ったその神は、
世尊の近くでつぎの偈を唱えた。 - ‘Araññe viharantānaṃ,
santānaṃ brahmacārinaṃ;
Ekabhattaṃ bhuñjamānānaṃ,
kena vaṇṇo pasīdatī’’ti. - 森林に住み、寂静にして
梵行をそなえている者らは
ただ一食を摂りながら
なにゆえ輝いている」と。(釈尊いわく――)
- ‘‘Atītaṃ nānusocanti,
nappajappanti nāgataṃ;
Paccuppannena yāpenti,
tena vaṇṇo pasīdati’’. - 「かれらは過去を嘆かない
未来を願うこともない
ただ現在に生きている
それゆえ輝いている - ‘Anāgatappajappāya,
atītassānusocanā;
Etena bālā sussanti,
naḷova harito luto’’ti. - 未来を願うことにより
過去を嘆くことにより
そのため愚者らは干からびる
緑の葦が刈られたように」
- (和訳:片山一良『パーリ仏典 第三期1相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇Ⅰ』大蔵出版より ※一部改変)
贅沢の苦
誰でも贅沢に暮らしたいものですが、贅沢とはかなり苦しいのです。大富豪には自分の気の向くままに生きることはできません。つねに自分の生き方をまわりに合わせなくてはいけない。周りが自分の姿を羨ましがるような生き方をしなくてはいけない。最高級品ばかりで身を飾らなくてはいけない上に、服のわずかなシワさえも許されない。自分の本当の気持ちを抑えて、美辞麗句を振りまかなくてはいけません。さらには、厳しい経済競争で戦わなくてはならないのです。一番面白いのは、毎日たくさんの権力者、財産家、有名人などに囲まれた生活をするが、自分の味方は一人もいないことです。自分の子供さえ、自分のことを心配してくれません。このような「贅沢な生き方」をみな希望しているのです。
不安の苦
貧困な人々だけが、明日の不安にかられて生きていると言われますが、事実は違います。貧困な人の明日は、今日とそれほど変わりませんから、将来が不安でたまらないという現象はありません。大富豪になるとそうは行きません。わずかな失敗で、財産を失う恐れがあるのです。政治家の機嫌をとったり、さまざまな不正行為で財産の安全を図ったりする必要があるのです。バレたら最悪にまずいという類の出来事がいっぱい重なっています。そのうえ、身の安全や家族の安全まで考えなくてはいけない。結果として、ボディガードに囲まれた生き方をするはめに陥っているのです。
享楽の苦
やりたい放題で食べたり飲んだり遊んだりすると、身体とこころがありとあらゆる病のデパートになり果てます。生きる自由が無くなって、優秀な専門医たちの監視下で生きる奴隷になるのです。現代人は医学的な知識をもっているので、贅沢三昧の生き方に対して注意深くなっています。その人々は、ごちそうがあっても食べないように我慢します。どんな遊びもできるのに、身を護るために我慢するのです。体重、プロポーション、肌のツヤなどを理想の基準で保つように苦労しなくてはいけません。享楽の苦はありますが、楽は見当たらないのです。
貧困は苦ですか?
命をつなぐために必要不可欠な衣食住薬が無いことは、確かに苦しいのです。衣食住薬がやっとしのげる程度にあっても皆、貧困は苦だと思っています。標準的な衣食住薬があれば、貧困の苦が無いだろうと思われます。しかし、問題は「標準」と呼ばれる基準にあります。この基準は移り変わるものです。時代とともに、どんどん高くなっていくのです。ゆえに、貧しさに悩む人々の悩みは、そのまま保たれるはめになります。貧困の人々が努力して衣食住薬の「標準」に近づいてみても、世界的な基準はさらに上がっているからです。貧困というレッテルを剥がすことは叶わなくなっているのです。限りない欲を追い求める世間と対照しても、貧困の苦を理解することはできません。だから、「命をつなぐために必要不可欠な衣食住薬が無いならば、それが貧困の苦である」と定義しなくてはいけないのです。
欲を捨てる人
享楽こそが生きる目的だ、とは思わない人々がいるのです。どんな生き方をしても、みな平等に老いて死ぬのだと理解している人々は、別な生きる目的を考えます。その人々は、物質に依存して快楽を求める生き方には矛盾があると発見して、「幸福とは精神的なものだ」と思い、ものに依存して生活することやめたのです。わかりやすく言えば、財産・家族などをすべて捨てて、何も持たない出家になることです。このような出家文化は、仏教だけに限らない現象でした。
しかし、俗世間的なものをすべて捨てて、張り切ってホームレス修行者になっただけで、ものごとがうまく進むわけではありません。精神の安らぎを経験しなくては、人生は苦のみで終わります。実際、出家生活する行者たちは、輝いている人々のようには見えなかったのです。住むところだけではなく、寝るところも無い。お腹が空いたら、拾ったものか乞うたものを食べるので、なんとか死なない程度の身体になる。俗世間の人々から見れば、不潔極まりないみじめな姿です。これが精神の安らぎを求める出家の外観だったのです。
仏教の出家
この「出家と不潔極まりない、苦しみに満ちたみすぼらしいみじめな生き方である」という先入観を見事に破ったのが、仏教の出家でした。比丘たちは、商人・大臣・王族など贅沢の頂点で生きる人々の尊敬を受け、彼らの指導者にもなりました。仏教の出家は一躍、在家の人々から羨まれる生き方になったのです。しかし、比丘とは乞食者
という意味です。俗世間に拝まれる、頼られる存在であったからといって、比丘たちは決して俗世間的な生き方に戻らなかったのです。他宗教の出家と同じく、身を護れる程度の服と、命をつなげる程度の食べ物で生活していました。晴れの日は樹の下を住居として満足しました。身体の調子が悪くなったら、牛の尿を飲んで体調を整えました。しかし、俗世間に尊敬されていたので、施しも受けていました。そういうわけで、何も持たない比丘たちの生活は、基準以下の貧困にはならなかったのです。
女神の問い
他宗教の出家と違って、ブッダはこころの究極の安らぎを経験していました。その教えを受けて修行する仏弟子たちも「すべてを捨てて良かった。この上の幸福は俗世間の誰にも享受することができない」と、喜びの言葉を発するようになっていました。したがって、比丘たちの姿は美しく輝いていたのです。こころの安らぎが、身体に影響を与えていたのです。そこで、「何も持たずホームレス生活をしている人々が、美しく輝いているのは一体なぜなのか?」という疑問が生じます。
女神は釈尊に問います。「森に住み、落ち着いた行儀作法をそなえて修行するこの人々は、一日に一食しか摂りません。なのに、なぜ彼らは輝いているのでしょうか?」と。真面目に修行しているかも知れないが、ホームレス生活なのだから、身体がみすぼらしくなるのが当然ではないかと、この女神が思っていた可能性があります。だからこそ、美しく輝く秘訣を知りたかったのです。
①過去に悩まない
釈尊は、出家の身体が美しく輝く理由を順番に説明します。第一の秘訣は、過去に悩まないことです。人類の精神的な悩みの90%くらい、過去に関する悩みです。過去の悩みはいくらでもあります。親が厳しかった、家が貧しかった、勉強できなかった、教師たちが不親切だった、学校でいじめられた、クラブで試合に出れなかった、モテなかった、遊びすぎた、希望の会社に採用されなかった、などなどです。過去を思い出して悩む場合は、人の生きる力が無駄に燃えてなくなります。その結果、ゾンビのような姿になり果てます。だから、美しい体格があっても、年齢が若くても、輝かないのです。精神はゾンビですから。精神ゾンビは周りの人々の幸福をも食い荒らすのです。
出家の場合、きれいさっぱり過去を捨てなくてはいけないのです。気に入っていた伴侶も、目に入れても痛くなかった子や孫も、仲間も、敵も、捨てるのです。過去の生き方も、かつて身にまとった服装も、好みのご馳走も、すべて捨てるのです。「昔はこんなものも食べたなぁ」と思い出して悩むことは禁止です。「昔はご馳走でなかったら腹が立って暴言を吐いて喧嘩まで売っていたのに、いまは鉢に入れた少々の食べ物で満足している、喜びを感じている」と比較して思うことは問題ありません。そうやって過去を捨てることができれば、限りの無い精神の悩みが消えるのです。こころは安穏に満たされるのです。
「過去を捨てる」「過去を忘れる」これは同じ意味ではありません。物忘れはいいことではありません。抜群な記憶力をもって過去を精密に思い出すことができるならば、それは人の能力であって精神的な問題ではないのです。過去を捨てるとは、過去に対する愛着、未練、「昔は良かった」という考えを捨てることです。
②未来に悩まない
一部の人間は、未来のことばかり心配します。未来とは、正確に読み取れない現象です。未来を読み取るためには、過去・現在・未来の現象すべてが定まって固定している必要があります。当然、それは因果法則に反する顚倒
の異見です。だから、将来のことを考えると、必ずその人は精神的に不安になったり、悩むはめになったり、怯えたり、落ち着きがなくなったりするのです。一番ひどいのは恐怖感です。因果法則を知っている出家は、「すべては無常である」と発見しているのです。「明日の朝はお粥があればいいなぁ」という程度の期待すら無い。だから一切、不安はありません。恐怖感など起こらないのです。
過去に悩まない。未来に悩まない。この二つの条件が揃った人に、精神的な病は一切ありません。こころが常に安らぎを経験しているのです。身体とは、こころが動かす、こころが生かしている物体です。だから、身体も落ち着くのです。
③現在に生きる
過去も未来も捨てた人にあるのは、「現在」なのです。出家であろうが在家であろうが、みな現在に生きているのです。過去に生きることも、未来に生きることも、不可能です。なのに俗世間の人々のこころは、現在にあらずなのです。いま、ご飯を食べながら、「昔はもっと美味しいものを食べていた」「昔、食べたものは不味かった」などなどと思ってしまいます。そうなると、いま何を食べているか、わからなくなるのです。しかし、在家の人々にとって、いまの瞬間に限った生き方は難しいのです。いま、朝ご飯を食べながら、明日、明後日、来年などなどの食べ物についても考えなくてはいけなくなるのです。
出家の「いま」とは、とても短い時間です。修行中の「いま」とは、まさに瞬間なのです。「いま」を発見すると、人生はびっくりするほどシンプルになります。やり遂げられないことは、何ひとつも見つからないのです。難しくて失敗する恐れがあるものは、一つも無くなります。極端にシンプルな生き方ができます。だからこそ、「いま」を楽しめるのです。「いま」を楽しめる人にとっては、死ぬ瞬間も楽しくなるのです。
苦しみは俗世間の管轄
俗世間では、過去のことを参照しなくてはいけない。過去から学ばなくてはいけない。それをやろうとすると必ず、過去について悩むことになります。不満に陥るはめになります。それには理由があるのです。人間の行いは必ずしも成功しません。無数の失敗の流れで、一個二個くらいの行為が期待どおりになるだけです。無知な人間は、やることを何でも成功させたいと思ってしまいます。だから、達成感は百万分の一になります。残りはすべて、失敗の経験です。過去を参考にして生きなくてはいけないのに、皆この落とし穴に墜ちるのです。俗世間にとって、過去とは悩みの泉です。
過去を参照しながら、将来を企画しなくてはいけないのです。皆しっかりと計画を立てて生きているつもりですが、無理があります。将来はどちらに転がるかわからないのです。自分の計画は、自分の主観で推測できる範囲です。将来の計画をたてる上で、参考にできない条件がたくさんあるのです。将来を企画しても、決して「これこそ唯一な道」という明確な歩みは見えません。いつでも、いくつかの道が見えるのです。実行できるのは一つの道だけです。どんな道を選んでも、成功するかも知れない、失敗するかも知れない、という五分五分になります。だから、将来を企画するとは、余計に悩み・不満・恐怖感を招くことになるのです。
お釈迦さまは、「俗世間の人々は、過去に悩み、将来を妄想(企画)し、燃えているのだ。青い葦
を切ってしまえば、色あせていくように」と説かれています。享楽を期待する俗世間の生き方とは、刈り取られた青い葦の姿に似ています。芯から美しく輝く生き方は、俗世間では無理なのです。
今回のポイント
- 贅沢は楽を装う苦です
- 過去と将来は悩み苦しみの泉です。
- 俗世間は実在しない過去と将来に基づく
- 出家は芯から輝く世界です