パティパダー巻頭法話

No.292(2019年7月号)

首長の座を決める

人気より能力が優先 Who is the best?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

SN 1-14. Khattiyasuttaṃ
相応部1-14「王族経」

  • Khattiyo dvipadaṃ seṭṭho
    Balivaddo catuppadaṃ
    Komārī seṭṭhā bhariyānaṃ
    Yo ca puttāna pubbajo
  • 二足者のなかで一番は王族です。
    四足者の一番は牛です。
    妻のなかの一番は若妻です。
    子供たちのなかの一番は長男です。
     
  • Sambuddho dvipadaṃ seṭṭho
    Ājānīyo catuppadaṃ
    Sussūsā seṭṭhā bhariyānaṃ
    Yo ca puttānamassavo
  • 二足者のなかで偉大なる存在は正等覚者である。
    四足者のなかで一番は駿馬である。
    妻のなかで一番は柔順
    にゅうじゅん

    な妻である。
    子供たちのなかの一番は孝順者である。
  • 日本語訳:スマナサーラ長老

リーダーは必要不可欠

グループを組んで活動する時はリーダーが必要です。グループのメンバー一人ひとりが自分の意見・見解だけ主張すると、まとまった活動は何一つできなくなります。だから、皆の意見をまとめて正しい判断をおこなってグループをガイドするリーダー役は欠かせないのです。生命が平等であるならば、皆に平等な人権があるとすれば、首長という役割は無くなるはずです。しかし、首長がいない組織には何の活動もできなくなります。ゆえに、いかなる組織にも首長が必要になるのです。

群れで生活する生き物たちはたくさんいます。動物の群れには、かならずボスがいるものです。ミツバチには女王蜂がいます。女王蜂以外は皆、働き蜂と言われています。「だったら、女王蜂は怠け者なのか?」という反論も成り立ちますが、実は、女王蜂には群れの繁栄のために必ず行わなくてはいけない仕事があるのです。女王蜂は独裁者ではありません。群れで活動する鳥たちにも、リーダー役がいるような気がします。真っ先を飛ぶ、飛ぶ方向を決める、危険を見つけたら警告する、程度の仕事しかしないようなので、鳥たちの群れでは際立った上下関係はありません。他にも、猿の群れにボスがいることは皆さんご存知のとおりです。

さまざまなリーダーな選ばれ方

ボスはどのように選ばれるのでしょうか? 女王蜂の場合、意図的に将来の女王蜂となる幼虫を育てます。そこで、働き蜂たちは女王蜂予備軍の数が必要以上に増えないよう管理しているのです。働き蜂が女王蜂に変わることも、女王蜂が働き蜂に戻ることもできません。猿の場合、体力が弱ってきたボスと若い雄猿が闘うのです。若造が勝ったならば、交替して新しいボスになります。象の群れのボスは雌像です。経験のある雌がボスになるので、雌象同士のボス争いはなさそうです。われわれ人間は、動物たちのことを推測でしか理解できません。しかし、一つの特色が見えてきます。ボスは群れのことを心配します。ボスは群れを守ります。ボスのおかげで群れが繁栄するのです。

人間の社会にも必ずボス役がいるのです。人間がつくる組織の構成に合わせて、ボスの選び方も変わります。たとえば、学校のボスは校長先生です。子供たちには校長先生を選ぶ権利は一切ありません。教師としてのキャリアを積み、さまざまな試験を合格した人の中から、自治体の教育委員会によって選ばれるのです。国のボスは国会議員たちです。国会議員の中から総理大臣というボスが選ばれるのです。国民にはそれほど簡単に議員を選ぶことはできません。何人か立候補した中から好みの人を選ぶしかないのです。会社などにもボスがいるし、家族にもボスがいます。人間社会にたくさんのボスたちがいることも、ボス無しに人間社会が回らないことも事実ですが、ボスの選び方となると様々です。選び方がよくわからない場合もあります。国会議員を選ぶ場合、建前で国民の判断結果だというのですが、実際にはそうではないのです。候補者を出すのは、あくまで政党なのです。

人間の場合、良いリーダーも悪いリーダーもいます。良いリーダーは自分のグループの繁栄のために努力します。悪いリーダーはグループの繁栄よりも自分の権力を維持することに興味を抱くのです。子供たちの仲良しグループであれ、家族であれ、国であれ、良いリーダーに恵まれると繁栄することは確かです。悪いリーダーに牛耳られたら、組織は衰退してしまいます。

仏弟子サンガにはリーダーがいない

釈尊の出家弟子たちも組織には違いありません。そうすると、リーダーが必要になります。にもかかわらず、お釈迦さまは、リーダーを認定しないと決定したのです。その代わりに認めたのは、先輩後輩という区別でした。修行に関しては、完成者と修行者という区別があります。新しい人々が出家する場合、必ず師匠が必要なので師弟関係が成り立ちます。俗世間では、性格の悪い師匠と性格の悪い弟子が現れる可能性があるので、出家世界ではこの問題もギリギリまで少なくしています。お釈迦さまのアドバイスはいたって簡単です。師匠は弟子を我が子のように心配するべき、弟子は師匠のことを親のように敬うべき、という戒めです。だから、師匠が病気になったら弟子が看病する、弟子が病気になったら師匠が看病する、という習慣が現れたのです。師匠といえども、釈尊のような完璧な人格者ではありません。師匠にも、できることとできないことがあるのです。ですから、弟子に学びたいことがあるならば、それを教えられる能力がある別な師匠のところに弟子入りすることもできます。しかし、出家する時の師匠との関係は切れません。学識のある優秀な出家の周りにたくさん弟子たちが集まってしまうのは普通の現象です。出家組織の場合、リーダーシップが先輩後輩の仕組みになったので、ボス役には任期がないのです。それから、仕事別に一時的にリーダーを認定する方法も釈尊が教えられました。そのリーダーの任期は仕事が完了すれば終わりです。

ブッダが教える正しいリーダーの資格

人間は組織を作って生活しています。だから、ボス役が欠かせないものになっています。しかし、ボスの選び方になると、俗世間は必ずしも理性的な態度を取らないので、失敗とトラブルも多いのです。リーダーの悪さによって国がまるごと潰れる場合もあります。家族が破滅に追い込まれる場合もあります。釈尊は人間・神々のこの上のないリーダーです。グループのリーダーが、いかにしてメンバーたちの繁栄をはかるべきかということは、釈尊が知り尽くしているのです。リーダーの資格を学ぶうえで参考になるブッダの話はたくさんあります。特に『ジャータカ物語』に出てくる菩薩の生き方を勉強すると、正しいリーダーの資格を学ぶことができるでしょう。出家サンガの組織はリーダーが成り立たない唯一のグループです。世界に類似するものはありません。

ここで、リーダーシップについてのブッダの教えをすべてまとめてみましょう。指導者の役は欠かせないが、グループのメンバーたちの権利は平等です。指導者には、仲間にない特別な権利も権限もありません。能力のある人がグループのリーダーになるべきです。リーダーは仲間のことを思いやって、彼らの繁栄を目指して指導するべきです。要するに、リーダーの指導力が純粋な慈悲喜捨の気持ちに基づいていることです。

世間の第一は誰か?――女神の発表

人間社会にリーダーがいることは自然現象です。それで人間が気休めに「誰が偉いのですか?」「誰が一番ですか?」と考えたりします。「一番の美人は誰ですか?」「最高の歌手は誰ですか?」「最優秀主演俳優は誰ですか?」などなどです。人類の繁栄には何の影響もないお遊びです。残念なことに、人類の繁栄と成長をつかさどる真のリーダーを選ぶことにそれほど興味は持ちません。誰が金メダルをとったのか、ハリウッド映画のアカデミー賞は誰がとったのか、などには興味を抱くのです。この無意味な遊びが、お釈迦さまの時代にも人間のあいだでも流行っていたようです。

ある女神が「世間の第一は誰か?」というお題について、お釈迦さまに考えを披露したのです。女神は自分の考えを四項目にまとめました。賢い考えでしょ、という気分で、お釈迦さまにその四項目を発表します。

① 二足者のなかで一番は王族です。

二足者とは人間のことです。インドはカースト制度のある国です。カーストの区別は神(梵天)が決めたそうです。インドの人々は主に四つのカーストに分けられていました。妊娠した時点でその人間のカーストは決まっているのです。大人になってから自分の意志でカーストを変えることはできません。信仰は変えることができても、カーストは変えられません。四つのなかでは、khattiyaカーストが支配者の役目を担っています。王になる人はこのカーストの生まれでなくてはいけません。王は独裁者です。国一番の金持ちです。皆、王の命令に従わなくてはいけないのです。王に命令できる人は皆無です。知識人・聖職者などは王にアドバイスします。しかし、命令することはできません。ということは、人間のなかで一番は王族だ、ということになります。

② 四足者の一番は牛です。

これも当時のインドの社会環境から現れた考えです。人間は馬も象も使っていたが、それらはほとんど王族の人々に所有されていたのです。王になれない王族の人々は、カーストの決まりで軍人として働かなくてはいけないのです。ですから、王族は馬に乗れます。牛・山羊・羊・鶏・豚は皆の家畜動物です。その中でも、一番役に立っているのは牛です。牛は田んぼ・畑を耕す時、土を鋤き起こす仕事をしてくれます。深い井戸から水を汲む時も、滑車を回して水桶を引き上げてくれます。インド人のご馳走といえるpañca gorasā牛乳の五味(khīra乳、dadhi酪、navanīta生酥、sappi熟酥、sappi-maṇḍa醍醐)は牛から頂くものです。荷物を運ぶ時、人が移動する時、牛車を牽いてくれます。ですから、人間の主観的な考えで判断するならば、四足者のなかで第一は牛になります。後世ヒンドゥー教の人々は、シヴァ神の乗り物である牛を聖なる動物として拝むことにもなりました。ブッダの時代、インド人は牛肉を食べていたのですが……。

③ 妻のなかの一番は若妻です。

現代社会では、若い子たち同士が結婚するのです。男も女もほぼ同じ年齢です。ということは、現代人は最高の女性と結婚したことになります。お嫁さんが皆若いからです。インドの社会環境はそれと違います。特にバラモンカーストの男性たちは、時間をかけて学問をしなくてはいけない。学業に励む期間、恋心は禁止です。学問が終わって、娶ることになるとある程度で歳をとっているのです。勉強を続けて知識を拡大しようとすると、結婚の時期は五十代、六十代になる可能性もあります。せっかくの結婚だから、妻が十代の女性なら大当たりです。また、金のある老人たちに、娘たちを無理やり結婚させる場合もあります。それから、当時のインドは一夫一婦制度に厳しく限定されていませんでした。一夫多妻も可能です。多くの妻の中では一番若い子が寵愛されるでしょう。このような習慣をまとめて判断してみると、妻の中の一番は若妻になります。

④ 子供たちのなかの一番は長男です。

家父長制が基本だったインド社会では、息子をありがたがりました。娘は他人に家に嫁ぎますが、息子は家の跡を継いでくれるからです。注釈書には「たとえ障碍者であっても長男が一番という意味になる」と書かれています。(辛口な注釈かもしれません。)この考えには宗教的な意味があります。親が亡くなったら、子供たちは供養の儀式を行わなくてはいけないのです。供養儀式は長男の義務です。男の子が生まれなかったらどうするのか? 長男が障碍者ならどうするのか? 長男が先立ってしまったらどうするのか? などなどは考えていなかったようです。とにかく、子供たちのなかで長男はありがたい存在です。親の死後の冥福を祈る資格があるからです。
 

世間の第一は誰か?――お釈迦さまの答え

俗世間の「一番は誰ですか?」というお遊びを投げかけられると、お釈迦さまもそれについて答えなくてはいけなくなります。しかし、お釈迦さまは感情、好み、主観では意見を述べません。事実に基づいて、factualに語るのです。それから、語った言葉は人の役に立たなくてはいけない。お釈迦さまはそのような立場から女神の偈にあわせた偈をうたわれるのです。

① 二足者のなかで偉大なる存在は正等覚者である。

ブッダは人間の次元を超えているのです。生命すべての次元も超えているのです。生命とはなんぞやと知り尽くしているのです。生命にあるすべての執着・煩悩を断っているのです。一切の生命を苦しみから幸福へと道案内する偉大なる力を持っているのです。人間・神々のこの上のない師匠です。ですから、二足者(人間)のなかで唯一無比の尊い存在は正等覚者なのです。人間の社会的な地位はなんであろうとも、感情に支配されている煩悩の奴隷です。特別な価値のある存在にはなりません。しかし、人間が真理を発見する努力をして、智慧を開発するならば、覚者にはなれます。それにも、正等覚者の指導が必要なのです。

② 四足者のなかで一番は駿馬である。

牛は人間にこき使われているかもしれませんが、それほど賢い動物とは言えないのです。駿馬とは現代語でいうサラブレッドのような馬のことです。駿馬について、いろいろと説明があります。注釈書では、ājānīyaとは、馬でも象でも賢い動物のことだと説明します。ペットであっても、賢いならばかなり愛されます。人気者にもなります。この単語は駿馬というよりは「賢い」と訳したほうが良さそうに見えます。馬たちのなかにも、力強く、足が早く、誇り高い馬がいるのです。特定の人間でなければ背中に乗ることはできません。要するに、馬が主人を選ぶのです。このような馬は調教する苦労がありません。やり方を一回見せたら、しっかり憶えるからです。馬車を牽く場合も、早く走れ、ゆっくり走れと指図する必要はありません。なぜならば、御者の気持ちは手綱の振動で理解するからです。御者は手綱を持つだけで十分です。鞭なんか使う必要は一生ないのです。そこまで賢い馬は駿馬と呼ばれます。ちなみに、全体的に頭の良い象のなかでもとりわけ賢い象がいるし、それほど賢くない牛のなかでやけに賢い牛もいます。そこで、釈尊は客観的なデータから判断して、「賢い動物が一番である」と説かれたのです。

③ 妻のなかで一番は柔順な妻である。

これは反対の性格をイメージすれば簡単に理解できます。わがままで好き勝手で相手の気持ちを完全に無視する女性(じゃじゃ馬)を誰が娶りたいでしょうか? たとえ美人であっても、おそらく嫌でしょう。女性の素晴らしさは、美貌ではありません。よく人々の気持ちを理解する。その場その場自分が何をすれば皆の役に立つのかと判断する。ひとの話を聴くだけではなく、人の気持ちもよく理解する。子供たちでも、男たちでも、感情で興奮して管理不可能な状態になったら、皆を抑えて大人しくさせる様々な技を持っている。いかなる場合でも、調和を保つことができる。要するに、社会的に認められている地位が何であろうとも、現実的に皆をリードしているのです。このように賢い妻がいる家庭は幸福です。

ある時、「どうすれば智慧が顕れますか?」と尋ねられたお釈迦さまは、Sussūsā labhate paññaṃと答えたのです。要するに、「周りのデータをよく取り入れて観察すること。それで智慧が顕れるのだ」という意味です。この場合の智慧とは、解脱に達する智慧ではなく、一般的な智慧のことを言います。妻たちのなかで第一番は、sussūsāという性格がある人なのです。

④ 子供たちのなかの一番は孝順者である。

釈尊が使った単語はassavoです。単純な意味は、「よく話を聴いて理解してくれる」です。息子であれ娘であれ、育てなくてはいけない。躾しなくてはいけない。しかし、子供たちはよく親の言葉に反対します。親が言うことを理解しようとしないのです。親に甘えたいだけで、親の話は理解したくないのです。親の言葉を理解せず、言葉どおりにやらない、わがまま好き勝手な性格を持つ子供が生まれたら最悪です。いくら頑張っても、子育ては失敗します。それでも、親だから子供のことで一生悩む羽目になります。もし子供が親の話に耳を傾けて理解してくれるならば、また、躾されるとおりに立派な大人に成長するならば、親としては最高の幸せです。そのような子であれば、親が歳をとって弱くなっても面倒を見てくれるのです。ですから、子供のなかで孝順者が一番なのです。

女神が世間一般人の感情的な考えを披露したのに対して、お釈迦さまは事実に基づいて理性的な答えを示したのです。お釈迦さまの答えは現代にも通じるものです。女神の答えは現代では通じません。「神のお告げ」は当てにならないということです。

今回のポイント

  • 生きる権利は皆に平等です
  • 仲間として活動する場合はリーダー役が不可欠
  • 本物のリーダーは慈悲喜捨を実践する
  • 感情で一番を決めることはお遊びです
  • ひとの役に立つ基準で一番を決めることです