パティパダー巻頭法話

No.297(2019年12月号)

生命にマイホームが必ずある

束縛が存在を形成する My home & Homelessness

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Kuṭikāsuttaṃ (SN 1.19)
庵経(相応部 1.19)

  • “Kacci te kuṭikā natthi, kacci natthi kulāvakā;
    Kacci santānakā natthi, kacci muttosi bandhanā”ti.
  • 〔神いわく、――〕
    「あなたに庵はないのですか?
    巣はないのですか?
    つなぎの糸はないのですか?
    あなたは束縛から解脱しておられるのですか?」
  • “Taggha me kuṭikā natthi, taggha natthi kulāvakā;
    Taggha santānakā natthi, taggha muttomhi bandhanā”ti.
  • 〔尊師いわく、――〕
    「たしかに、わたしには庵はありません。
    たしかに巣はありません。
    たしかにつなぎの糸はありません。
    たしかにわたしは束縛から解脱しているのです。」
  • “Kintāhaṃ kuṭikaṃ brūmi, kiṃ te brūmi kulāvakaṃ;
    Kiṃ te santānakaṃ brūmi, kintāhaṃ brūmi bandhana”nti.
  • 〔神いわく、――〕
    「あなたは、わたしに何をもって庵と言うのでしょうか?
    あなたは、わたしに何をもって巣と言うのでしょうか?
    あなたは、わたしに何をもってつなぎの糸と言うのでしょうか?
    あなたは、わたしに何をもって束縛と言うのでしょうか?
  • “Mātaraṃ kuṭikaṃ brūsi, bhariyaṃ brūsi kulāvakaṃ;
    Putte santānake brūsi, taṇhaṃ me brūsi bandhana”nti.
  • 〔尊師いわく、――〕
    「母をもって〈庵〉と言うのです。
    妻をもって〈巣〉と言うのです。
    子孫をもって〈つなぎの糸〉と言うのです。
    渇愛をもって〈束縛〉と言うのです。
  • “Sāhu te kuṭikā natthi, sāhu natthi kulāvakā;
    Sāhu santānakā natthi, sāhu muttosi bandhanā”ti.
  • 〔神いわく、――〕
    「みごとだ、あなたに庵はありません。
    みごとだ、〔あなたに〕巣はありません。
    みごとだ、〔あなたに〕つなぎの糸はありません。
    みごとだ、あなたは束縛から解脱しておられます。」
  • (和訳:1,2,5偈、中村元『ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤⅠ』岩波文庫より
    ※3,4偈、スマナサーラ長老)

必ずあるはずの「うち」

みなさまに、マイホーム(うち)が必ずあると思います。ホームとは不思議な概念です。これは物理的な建物である家を含みますが、家=ホームではないのです。わかりやすく言えば、こころの拠り所です。しか、人はこころのことを気にしないので、身体の拠り所になるのです。それが「うち」であり、ホームなのです。「うち」は人間だけではなく、他の生命たちにもあります。生命は「うち」を中心にして生きているのです。「うち」が無い状態は考えられないのです。遊牧民にも家(うち)があります。一般の人と違うところは、家(いえ)を持ち運んで引っ越しすることです。それぞれの動物たちも、自分に適した「うち」を作って生活します。砂の中や泥の中に穴を掘って住む生命もいるし、木の枝のうえに住む生命も、木に穴を開けて生活する生命もいるのです。海は広いにも関わらず、海に住んでいる生命たちはそれぞれ住む場所が決まっています。ある特定の場所ではなく、群れが家になる場合もあります。回遊魚の場合は、群れが「うち」なのです。アリ、ミツバチなどの生命の「うち」も群れになりますが、彼らは住む場所も作るのです。住む場所が無い生き方は、想像できないことです。人間の場合は、家とは長く住む場所という意味ではないのです。ひとは学校や会社で長い時間生活していて、家にいる時間は短いものです。しかし、その家がじぶんの「うち」なのです。「うち」のスケールが大きくなる場合もあります。外国で長い時間、住むことになった日本人にとっては、日本国が自分の家なのです。ちょっと大きすぎですね。しかし、日本に戻ったら、ただちに自分の家が「うち」になるのです。

こころの拠り所

「うち」という概念は、こころの拠り所になってます。どこへ行っても、なにをやっても、「うち」に戻るのです。最低、「うちに戻りたい」という気持ちをもつことで安心します。災害に遭遇して。避難所に住むことになったら、不安でたまらなくなるのです。戻れる家はないのに、「うちに戻りたい」という気持ちを抱いてしまう。新しい家をつくって引っ越ししても、その家が「うち」に変わるまで不安で過ごさなくてはいけないのです。家に両親がいるならば、また伴侶と子供たちがいるならば、安心感は強くなります。家が生まれ故郷にあるならば、安心感・安定感はさらに強くなります。

現在は、人々がグローバルに行き来する時代になりつつあります。必ず自分の国で仕事に就かなくてはならない、という前提は弱くなっています。戦争や民族紛争でたくさんの人々が難民になっているのです。その人々はどこか安全な国々に避難しようとします。ヨーロッパ諸国の移民政策はほとんど開放的ですから、難民を受け入れます。しかし、それはスムーズに進まないのです。なぜならば、移民する人々は自分の「うち」も一緒に持ってくるからです。例えば、フランスにいるシリア難民はイスラーム文化に固執します。それが自分の「うち」だからです。そうすると、フランスの文化と対立が生じるのです。「うち」とは、物理的な場所・建物ではありません。自分が落ち着いて生活できる習慣・文化なども「うち」の一部です。ひとには家がなくてもそれほど困らないけれど、「うち」が無くなると途方に暮れるはめになります。ホームレス生活する人々にも、家はなくても「うち」はあります。そういうわけで、ホームレスという単語は正しくないのです。正確には、ハウスレスですね。住むところはホームです。そちらにハウスが無い可能性もあります。

女神の疑問

ある女神が、ハウスとホームの関係を考えていたようです。ハウスとホームが無ければ、生命は生きていられないと思っていたみたいです。この観察はピント外れではないのです。たとえ神々であっても、ハウスとホームが必要です。そこで、その女神がお釈迦さまの生活を調べたのでしょう。どう見ても、お釈迦さまにはホームが無さそうです。旅をする時は、いろんな所で夜を過ごしますが、そのどんな場所からも朝になったらお釈迦さまは去ってゆく。「また戻ります」という気持ちは無いのです。一般的には、それは理解できないことです。ひとにはホームが必要です。たとえ一生戻らないことになっても、精神的にでもホームが必要です。だから、釈尊にその旨を訊いてみたのです。

① Kacci te kuṭikā natthi? あなたに庵はないのですか?

Kutiとは、一人が住める程度の小さな家のことです。家としては一番小さなスケールでしょう。現代人に理解しやすいのは、カプセルホテルでしょうか? 当初のカプセルホテルは、寝るためのスペースに限られていました。庵を結ぶ人は、その場所を拠り所にして生活します。お釈迦さまには庵すら無いことが、不思議でたまらなかったのです。

② Kacci natthi kulāvakā?(あなたに)巣はないのですか?

鳥たちは巣を作るものです。しかし、鳥たちは巣の中に籠もるのではなく、大空を飛んで餌を探して生活するのです。それでも日が暮れると、巣に戻って寝ます。要するに、帰るところがあるのです。巣作りは卵を生んでひなを育てるためです。ひなが巣立つ時期になったら、木の枝や電線にとまって寝るようになるのです。それでも自分が夜を過ごす場所は決まっています。ここで女神は、「あなたに巣が無いのですか?」と訊いているのではなく、「あなたに家族(パートナー)が無いのですか?」と訊いているのです。

③ Kacci santānakā natthi?(あなたに)つなぎの糸はないのですか?

わかりやすく言えば、「あなたに子供・孫などはいないのか?」と訊いているのです。家が無いホームレスであっても、子供がいる場合は生活が子供中心になります。昼、食べるものや仕事を探しに歩き回っても、必ず子供が待っている所に戻ります。これは、人と人の絆についての質問です。子孫がいなくても、人間がグループを作って活動する場合があります。その場合は、昼、外で単独行動しても、夜、グループの仲間が一緒になるのです。たまにホームレスの子供たちの話がニュースで流れます。ホームレスの子供たちも、単独で生活するのではなく、仲間のグループを作るのです。固定した住むところが無くても、グループで一緒に行動します。互いに心配したり、面倒を見合ったりします。人には、家がなくても、絆くらいは必要です。それすらお釈迦さまに無いので、不思議に思えたのです。

④ kacci muttosi bandhanā? あなたは束縛から解脱しておられるのですか?

人間の生活は束縛なしには成り立たないのです。単独で一人暮らししているのだと自慢する人々もいますが、束縛から離れているわけではないのです。束縛とは不思議なものです。感情的なものに限らず、さまざまな束縛があるのです。例えば、日本人なら日本の国の法律や決まりを守らなくてはいけない。日本人のしきたり・生活習慣を守らなくてはいけない。一人暮らしであっても、守らなくてはいけない決まりはいっぱいあります。アパートの部屋で音楽を大音量で聴いてはいけないし、家で一人勝手に大騒ぎして周りに迷惑をかけてもいけない。ゴミは指定の日に指定の場所に捨てなくてはいけない。要するに、社会システムのなかで、そのシステムに合わせて生活しなくてはいけないのです。社会システムを壊す権利は誰にもありません。この状況も束縛の範囲に入ります。

仏教でいう出家は、社会システムからも離れるという意味なのです。初期時代の出家は、社会システムからも離れていたのです。しかし、仏教が知られるようになって、出家制度が一般的な現象になってくると、社会システムから完全に離れることはできなくなりました。戒律は守っていても、戒律に関係なくても法律に関係あるものを犯したら世俗の法律で裁かれます。お釈迦さまはインドのいろんな国を旅していましたが、どんな国の法律にも関係は無かったのです。お釈迦さまを管理する権利は誰にもありませんでした。人間なら、社会の束縛が必要です。糸が切れた凧のような生活はできません。だから、お釈迦さまに社会システムという束縛が無かったことが、女神には不思議に思えたのです。

お釈迦さまの答え

お釈迦さまは簡単に答えます。「あなたに庵はないのですか?」という問いには「庵はありません」、「巣はないのですか?」「巣はありません」、「つなぎの糸はないのですか?」「つなぎの糸はありません」、「あなたは束縛から解脱しておられるのですか?」「たしかにわたしは束縛から解脱しているのです」と答えました。女神の質問の言葉に、お釈迦さまが回答の言葉をぴったり合わせたのです。

女神は納得しない

「無いのですか?」と訊いたのは女神ですが、あっさり「無いのです」と答えられただけでは、納得することはできなかったのです。女神に新たな疑問が生じました。それは、ブッダの対話術のなかで説明しているポイントです。「二人の人間が同じ単語を使って対話しても、意味は同じなのか?」という疑問が生じるのです。一つの単語に、人によって違う意味をもたせる場合も大いにあります。特に宗教間の議論では、精密に注意すべきところです。例えば、別々の宗教が「束縛は良くない」と言っている場合があります。それだけでは、両者が同じ意見を持っていることになりません。それぞれの宗教家が、「束縛とは何でしょうか?」と自分の定義を提示したものを比較対照しなくてはいけないのです。誰かがお釈迦さまに「人間に魂はあるのか?」と質問したら、お釈迦さまが「あなたは何を魂だと言っているのか?」と、答える前に確認します。それから、その人の魂に関する概念について、お釈迦さまが認めるか否定するかを説明します。仏教は「無我」を説くことで知られていますが、「人に魂がありますか?」と訊いても、「ありません」という単純な答えが返ってくると期待しないほうがよいのです。言葉で対話するとき、両者で言葉の意味が同じくならないと理性的な対話は成り立たないのです。

女神はこの対話のルールを知っていたようです。だから、次の質問をするのです。経典を読む人は、言葉を繰り返しているだけではないかと誤解する可能性があります。しかし、ここでは対話のルールに基づいた偈のやり取りが行われているのです。

女神の問い

「あなたは、わたしに何をもって〈庵〉と言うのでしょうか? あなたは、わたしに何をもって〈巣〉と言うのでしょうか? あなたは、わたしに何をもって〈つなぎの糸〉と言うのでしょうか? あなたは、わたしに何をもって〈束縛〉と言うのでしょうか? 」この偈で女神は、言葉の定義を要求しているのです。

お釈迦さまは女神の問いに応じて、言葉の定義を述べます。

ブッダの答え

① Mātaraṃ kuṭikaṃ brūsi 母をもって〈庵〉と言うのです。

庵と言えば、出来上がった場所という意味になります。この世に生まれてくる人間には、自分の拠り所になる、すでに出来上がった場所があるのです。それは両親です。両親というよりも、母と言ったほうが正確です。なぜならば、父親がいなくても子供を産んだ母は「この子は自分が産んだのだ」と確実に知っているからです。母はその子を育てます。生まれてきた人間にとって、最初の拠り所は母なのです。たとえ母が産後に亡くなっても、母がいたから自分の命があるのです。

実は、「あなたに庵が無いのか?」と質問する時、女神の頭の中にあった定義は「母」なのです。女神は、人に母がいるのは当然でしょう、と思っていたかも知れません。

当然、お釈迦さまに母はいないのです。しかし、単純に「わたしの母は他界しました」と答えたわけではありません。ひとは母に対して強い愛着を持っているのです。母と喧嘩しても、母に真っ向から逆らう生き方をしても、母に対して強い愛着を持っています。お釈迦さまには、「母」という概念に対して愛着が無いのです。一般人のこころの中で、「お母ちゃん」という概念は消えません。お釈迦さまにも、母親がいたのですが、感情的な「お母ちゃーん」は無かったのです。

② Bhariyaṃ brūsi kulāvakaṃ 妻をもって〈巣〉と言うのです。

女神が「巣」だと思ったのは、伴侶のことです。鳥たちの世界では、巣作りを始めたら必ず伴侶がいるということになります。人間もおとなになって巣立ちをしたら、次の目的は伴侶を探すことです。昔の生活習慣では、伴侶を見つけた巣立ちをするのです。今なら、巣立ちをしてから伴侶を探すケースが多いかも知れません。要するに、社会人になってから結婚を考えるのです。一人だけでは生活が成り立ちません。伴侶がいれば、互いに仕事を分担して楽に生活することができるのです。それは、こころが他人に依存していることになります。伴侶がいる人は、互いに依存し合うのです。それも強い束縛になります。伴侶と気が合わなかった場合、人生は苦しくなります。

③ Putte santānake brūsi 子孫をもって〈つなぎの糸〉と言うのです。

世界に人を結びつける糸(絆)は子孫です。女神が〈絆〉という単語を使った時、子孫のことを考えていたでしょう、とお釈迦さまが答えるのです。子孫がいるならば、人は一層愛着を強くして生きることに努力します。子孫が一人前になるまえに自分が死ぬわけにはいかない、と思っているのです。俗的に言うならば、子孫がいれば人に生きる目的が現れるのです。結局は、それも愛着であり煩悩です。輪廻を繰り返す原因にもなります。

お釈迦さまに、確かに愛着は一切ないのです。長生きしなくてはいけない、という義理は一切ありません。だから、執着という意味で言うならば、釈尊に子孫はいないのです。しかし、お釈迦さまにも在家の時、子供が一人いました。お釈迦さまにとってご自身の子供(ラーフラ尊者)は束縛ではなく、たくさんいた出家弟子たちのなかの一人だったのです。

④ taṇhaṃ me brūsi bandhanā 渇愛を〈束縛〉と言うのです。

女神は、人間の世界にある束縛のことを考えていたのです。ひとなら誰にでも束縛があるし、束縛無しには生きていられません。たとえ精神的な束縛が無いと仮定しても、社会的な束縛があるのです。そこでお釈迦さまは女神に、このようなニュアンスの答えを出します。「あなたは束縛という言葉を使っていますが、結局それは仏教の立場から見ると渇愛のことでしょう。」現代的な言葉に入れ替えれば、渇愛とは「生きていたい」という存在欲のことです。お釈迦さまは自分に渇愛が無いと発表するのです。

この経典を理解する場合は、逆順に考えたほうがわかりやすいと思います。ひとは解脱に達すると、渇愛を根絶します。存在欲が跡形もなく消えます。その方には、「母に依存して生き延びなくてはいけない」という気持ちも、「伴侶と相互依存して生き延びなくてはいけない」という気持ちも、「子孫を生きがいにして生き延びなくてはいけない」という気持ちも無いのです。この経典で述べているのは、解脱者には渇愛が無い、というワンポイントです。それが俗世間の立場から順番に語られているだけです。逆順にしてみれば、簡単に理解できるのです。

女神の感想

女神は、自分の考える言葉の定義にピッタリの答えがお釈迦さまから返ってきたことに感動しました。そのうえ、「渇愛」という概念によって、すべての問題がまとめられることも知りました。さらに、「渇愛さえ無ければ、自分が悩んでいた問題は一つも成り立たないのだ」と知ったのです。お釈迦さまの生き方は、不思議ではなく自然そのものであると理解したのです。お釈迦さまこそが、なんの悩み苦しみも依存も無く、安穏に生きているのだとわかったのです。そういうわけで、女神の感想はいたって簡単。「渇愛が無くて良かったね」です。それを偈にして言葉を合わせると「あなたに庵が無いことは良かった。あなたに巣が無いことは良かった。あなたに絆が無いことは良かった。束縛から解放されていることも良かった」というふうになります。

この経典は、こころの本当の自由をうたっているのです

今回のポイント

  • ひとにはハウスが無くてもホームが必要です
  • 生きることは何かに依存することで成り立っています
  • ひとは母・家族・子孫に依存します
  • 輪廻転生の衝動は渇愛です
  • 渇愛を絶たない限り生命に自由はありません