No.301(2020年4月号)
似たもの同士で触れ合う
触れ合いを人格向上に繋げるべき Communication and confrontation
今月の巻頭偈
Phusatisuttaṃ(SN.1-22)
「触れる」経(相応部1-22)
- “Nāphusantaṃ phusati ca,
Phusantañca tato phuse;
Tasmā phusantaṃ phusati,
Appaduṭṭhapadosina”nti. - “Yo appaduṭṭhassa narassa dussati,
Suddhassa posassa anaṅgaṇassa;
Tameva bālaṃ pacceti pāpaṃ,
Sukhumo rajo paṭivātaṃva khitto”ti.
- (女神)
「触れることがなければ触れず
触れるならば、それより触れる
それゆえ罪過のない者に
触れるならば、触れることあり」と。 - (釈尊)
「汚れのない人、罪のない人
清らかな人を害えば、
その愚者にこそ悪は戻る
逆風に投げた微塵の如く」と。
- (経典和訳:片山一良『パーリ仏典第三期1相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版より)
謎掛けの偈
ある時、お釈迦さまのもとを訪ねた女神が、謎掛けの偈を唱えました。キーワードはphusati
、「触れる」という意味のパーリ語です。ただし、コンテキスト(文脈)によって、phusatiという動詞の意味は変わります。
Phusatiには、「何かと関わりを持つ」という意味もあります。例えば、仕事中であるならば、「いま仕事に触れている」ということになります。政治家は政治に触れているし、親は子育てに触れているのです。「ぶつかる、対立する」という意味でもその単語を使います。「人と触れてはいけません」という場合は、「人に当たってはいけません」「怒らせてはいけません」「ぶつかってはいけません」などなどの意味になります。それから、何かに触れたら何かの結果が出る、という場合もあります。看板などで「触れてはいけません」「触ってはいけません」などと書いている場合は、「好ましくない結果が起こるから止めなさい」という意味になります。それで、「触れる→結果が出る」という関係が現れるのです。業(カルマ)の話では、「行為に結果がある」と言います。それならば、「行為」という単語を「触れる」という単語に置き換えることができます。仏教用語になると、余計な結果が出る行為に対して、「触れる」という単語を使っているのです。
とにかく、「触れる」という単語はかなり面倒くさいキーワードです。仏教用語で、色声香味触法というデータが眼耳鼻舌身意に触れる(phassa)と言います。女神はこのphusatiという単語を使って、謎掛けの偈を作ったようです。
謎①
触れることがない(人)に、触れない。
Nāphusantaṃ phusati ca
女神の謎掛けには、注釈書も理解できる解説をしていません。とりあえず、触れる=業という意味で解説しようとしているのです。その解釈に乗って翻訳すると、「業になる行為をしない人は、業になる行為をしない」という訳になって、偈にはなんの意味もなくなってしまいます。もしかすると、女神が考えた意味は、「業になる行為をしない人、すなわち覚者と、関わりを持たない」ということかもしれません。その場合は、「触れる」という単語が、「業」という意味と、「関わりを持つ」という意味とになります。反語的に説かれた、「覚者と付き合いなさい」という戒めの言葉でしょう。
謎②
しかし、触れる人に触れる。
Phusantañca tato phuse
触れる人とは、業になる行為をする人々のことです。行為は身口意の三つになります。こころに貪瞋痴の煩悩がある人の身口意の行為は、必ず結果を出す業になるのです。覚者も身口意の行為をします。しかし覚者のこころに貪瞋痴はないから、行為が業にならないのです。目の前の結果だけで終わります。たとえば、覚者がご飯を食べる。壊れていく身体を修復するための物質を入れただけです。一般人もご飯を食べる。しかし、美味しい、不味い、つまらない食べ物だ、珍味だ、私の好物だ、などなどの感情も惹き起こしながら、ご飯を食べます。それは身体を修復するために物質を取り入れただけではないのです。その考えは毛頭ありません。だから、一般人がご飯を食べたら、その行為が将来結果を出す業にもなるのです。
もしかすると、女神がこのように考えたかも知れません。一般人は一般人と関わりを持って付き合っています。(ほんとうは覚者と触れてほしかったのに。)要するに、人が人と付き合う場合は、両者の業を惹き起こすのです。母親が我が子と付き合う場合は、母親は母親の業を作り、子は子の業を作ります両者に貪瞋痴があるから、仕方がないことです。
謎③
したがって、触れる人に触れることがあるが、
触れることがない人に対立的に逆らうのです。
Tasmā phusantaṃ phusati
Appaduṭṭhapadosinaṃ
触れる人とは、貪瞋痴があり、行為が業になる人々です。その人々は同じ感情を持っている人々とよく触れ合って生活しています。しかし、触れることのない人、すなわち行為が業にならない、こころに貪瞋痴がない覚者に対しては、なんの躊躇もなく逆らうのです。
この謎掛けをさらに明確にするために、言葉を替えてみましょう。俗世間の人々は、俗世間の人々の話をよく聴いて仲良くしようと必死に努力します。しかし、出世間の境地に達している覚者と付き合おうとはしないし、覚者の話に耳を傾けようとはしないのです。覚者の言葉に逆らうことならば、なんの躊躇もなくやってしまいます。これなら、言っていることが明確になるでしょう。たとえば、「殺生をやめましょう」と言ったら、素直に賛成しないどころか、殺生を正当化するために、弁解まで始めるのです。「冷凍した魚を焼いて食べるよりは、獲れたての生きた魚をその場で締めて(殺して)焼いて食べたほうが健康に良いのだ」と言ったら、みな賛成します。べつに科学的な根拠を出す必要はありません。俗世間は、業を作りまくって輪廻転生する道を歩んでいます。輪廻を脱出する道を好まないのです。
(Bhikkhu Bodhiさんによる経典の英訳には、「この偈は謎掛けである」と脚注されていますが、謎掛けの答えは書いていません。諸先生方の日本語訳も同じです。注釈書を参考にしていますが、注釈書も謎掛けの答えは出してないので、日本語訳もパーリ語の直訳になっています。この文章で、私が謎掛けの答えを見出そうとしました。だから、日本語訳と私の訳とでは、相違点があります。)
ブッダの答え
お釈迦さまは、「触れることのない人に逆らうことは如何に危険か」と説かれるのです。要するに、覚者に逆らうことは重罪になる業なのです。一般人同士でケンカすることも、逆らうことも日常茶飯事です。人と付き合うと、当然、なんでもかんでも無批判的に賛成することはできません。人の考えや生き方に異論を持って、それを示すとケンカになります。嫌な気持ちにもなったり、怒ったりもするでしょう。それは普通の出来事だからと言って、同じ態度で聖者と付き合ってはならないのです。うかつに反対することで、無意識的に重罪を犯している可能性もあります。
逆らってはならない人に逆らう
Paduṭṭha、appaduṭṭhaという単語は、「触れる(phusati)」という単語の変化形(過去分詞)です。この場合は、「触れる」という単語が「当たる、対立する、逆らう」という意味になります。人に当たる(八つ当たり、当たり散らす)という場合は、だいたい「相手に対して怒っている」という意味になります。Appaduṭṭhassa narassaとは、怒りのない人、覚者のことです。怒りがないとは、貪瞋痴がないことです。覚者のこころには、如何なる場合でも世間に対して怒りが表れないし、対立は起こりません。同時に、世間の流れに賛成して、世間の色に染まることも一切ないのです。世間とは関わりのない境地に達している覚者に対して、世間の人々が当たる理由は何ひとつもないのです。それなのに、世間は覚者を批判します。覚者の生き方について、悪口を言いつのります。その中で、一部の人々は、悪の勇気を出して、覚者に当たってみようともするのです。(Appaduṭṭhassa narassa dussati)
その行為がもたらすものは、一般人に反抗する行為とは桁違いです。
覚者のこころ
覚者は安穏に達しているのです。世間と関わりを持たなくてはいけない場合に限って思考するが、孤独でいる時はこころが空性なのです。如何なる場合でも、こころに煩悩(汚れ)が表れない。文字どおり、清浄suddhassaなのです。煩悩のことをaṅgaṇaとも言います。Aṅgaṇaがない、という意味で、anaṅgaṇaです。当たってはならない人とは、煩悩のない、こころが完全清浄な覚者のことです。(Suddhassa posassa anaṅgaṇassa)
当たる理由が何ひとつも成り立たない人(覚者)に対して、当たってみようと思ったならば、その人は一般常識からもズレている相当な愚か者(bālaṃ)です。強烈な悪意を持たないと、覚者に当たることが出来ません。覚者が怒りの反応をしないで安穏にいるから、愚か者が相手に発した怒りが、自分自身に返ってくるのです。鏡に光を当てたような感じです。光が当たったところは暖かくなるはずですが、鏡の場合は光をそのまま反射しますから、暖かくなることすらないのです。愚か者は、自分に強烈な怒りの波長が当たったので、なおさら怒りをつのらせます。それは決して、覚者のせいではありません。それから、強度を上げて、さらに覚者に怒りをぶつけます。その怒りも反射して返ってきます。間もないうちに、その愚か者は自分が作った怒りの炎で燃えてしまうのです。(Tameva bālaṃ pacceti pāpaṃ)
お釈迦さまは、この働きを理解しやすくするために、「逆風に向かって塵(ゴミ)を捨てるようなもの」という喩えを使っています。自分で捨てたゴミを自分の身体でもろに浴びて、自分自身が汚れてしまうのです。(Sukhumo rajo paṭivātaṃva khitto)
解答:触れるとは怒りのこと
お釈迦さまの答えと合わせて最初の偈を読み直してみると、女神は「触れる(phusati)」という単語を「八つ当たりする」という意味で使っていたことが見えてきます。当然、行為は結果を作るので、業の話にもなります。この場合は、「悪業は悪果になるのだ」という話です。女神は、覚者に八つ当たりすることをしないで、当たってみたほうが(付き合ってみたほうが)良いのだ、という考えを持っていたのです。この経典の戒めは、「人が人に八つ当たりすることは普通ですが、覚者に対しては如何なる場合でも八つ当たりしてはいけない」ということです。
あとがき:怒りの段階
怒りの強度は人との関係によって変わります。「他人に怒ったら悪行為だよ」というふうな単純な話ではないのです。自分の主観では、母親が子供に怒ることは軽い悪だと思います。子供が悪いこと、いけないことをしようとする。納得させてやめてもらう場合ではありません。直ちにやめさせなくてはいけない場合は、どんな母でも子供に怒るのです。理性のある母だったら、怒らずに大きい声で叫んだりして子供をびっくりさせて悪行為をやめさせることもできますが、現場で戦っている母親たちにはそんな余裕はありません。だから、それは軽い悪にするしかないのです。兄弟同士でも「私の鉛筆を勝手に取るなよ」と相手に怒ることがあるでしょう。それも、「罪を犯した」というほどの怒りにはならないと思います。
それから、自分に悪いことをする人、自分を陥れようとする人に対して怒ることもあります。理由があって怒りが起きたのは確かですが、自分の怒りによって相手の悪意をさらに駆り立ててしまう危険は否めません。さらに、怒ることで相手から自分を守る理解能力も鈍ってしまうのです。
また、何に対してもネガティブ・アプローチを抱く人々もいます。それはその人の性格なので、かなり危険です。相手がいてもいなくても、自分の性格は自分自身と一体です。だから、いつも怒りから解放されないのです。それは悪い結果を出す罪になります。
さらに、一人に怒る、十人に対して怒る、などの場合でも、怒りの強度が変わります。時々人は、不特定多数に対して怒りを抱きます。そういう怒りは、簡単に自分の性格を変えてしまうので危険です。怒る人に怒り返すよりは、怒らない人に怒る場合は怒りが強いのです。怒らない人に怒ることは罪になる悪行為です。怒りが強くなると、その感情を行為で表して発散します。悪い言葉をしゃべったり、人とケンカしたりするのです。行動を惹き起こすところまで強くなった怒りは、罪になります。その場合は、犯した行為から怒りの程度を判断することができます。
ここで、「殺人者が地獄に堕ちる」というフレーズを考えましょう。犯人を地獄に落とすほど相手の命に価値がある場合も、ない場合もあります。しかし、殺人者が地獄に堕ちるのは、殺した命の価値よりも、自分自身が「殺人」という強い行動を惹き起こすほどの強烈な怒りに燃えたからです。それが重い罪なのです。基本的に、命はすべての生命に平等です。しかし、悪行為をしない人、こころ清らかな人、他人の役に立っている人などの命には、善行為による価値が加わります。そういう人々に対して怒る場合も、怒りの強弱が変わります。蚊に怒ることと、上司に対して怒ることは、同じレベルの罪にはならないのです。蚊に怒ることも悪行為には変わりありませんが、それは瞬間の出来事で、瞬間に消えます。上司に怒りを抱く場合は、自分の頭の中で思考・妄想するという仕事をしなくてはいけないのです。その分、罪が重くなります。
私たちには怒りの強度を明確なリストにすることは不可能ですが、怒りのレベルがたくさんあるということを理解したほうがよいのです。理解することで、重い罪になる怒りから、身を守ることができるようになります。
今回のポイント
- 人は人と感情で付き合うのです
- 無理をしてでも感情を乗り越えた人と付き合うべきです
- 人の付き合い方によって煩悩は一方的に増えます
- 煩悩のない人と付き合うことで自分のこころも清らかになります