パティパダー巻頭法話

No.303(2020年6月号)

問題から逃げると問題が襲ってくる

こころが汚れるか否かをつねに注意するべき Mind should be guided but not controlled

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Manonivāraṇasuttaṃ
意防護経(相応部 1.24)

  • “Yato yato mano nivāraye,
    Na dukkhameti naṃ tato tato;
    Sa sabbato mano nivāraye,
    Sa sabbato dukkhā pamuccati”.
  • “Na sabbato mano nivāraye,
    Na mano saṃyatattamāgataṃ;
    Yato yato ca pāpakaṃ,
    Tato tato mano nivāraye”ti.
  • (女神)
    「意をどこにも防ぐなら
    苦はかれに達しない
    意を完全に防ぐなら
    苦はかれを完全に脱する」
  • (釈尊)
    「意をすべて防ぐべからず
    自制された意を防ぐべからず
    どこにも悪が起こるなら
    どこにも意を防ぐべし」
  • (経典和訳:片山一良『パーリ仏典第三期1相応部
    (サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版より)

目を閉じれば怖くない

ホラー映画を観ると、たびたびハイライトの画面が出てきます。監督はその場面で、視聴者に恐怖を感じてもらいたいのです。それで映画を観る気が弱い人々は、ハイライトの画面が出るたびに目を閉じます。「目を閉じれば怖くない」という考えでしょう。さて、人生も「目を閉じれば怖くない」というフィロソフィーで生きますか? 難しい言葉に入れ替えると、情報を遮断することです。情報を遮断すれば、その情報によって起こり得る問題は起こらないという話です。

漫画を見るとこころが乱れるならば、漫画を見ないことにする。ある種の音楽を聴くと悲しみに陥るならば、その音楽を聴かないことにする。なんとなく「それはそのとおりだろう」という気分になってしまうのです。わかりやすくすると、痲薬を使用することで人格が壊れて廃人になるならば、痲薬を使用しないことにする。当たり前の話のように見えますが、別な例を出してみます。糖尿病の人が一切の糖分を摂らないことにする。病気が治るどころか、人が死んでしまう可能性があります。もっと派手な例を考えましょう。自分が住んでいるアパートの周りの住民たちが、ものすごくうるさいとします。夜も寝られないほどです。そこで、耳の鼓膜を破って音を感じないようにするのです。それで問題を解決したと言えるでしょうか? やってはいけないことをやったと、誰でも思うはずです。

世の中には、「ダメ!ダメ!」と謳っている人が大勢います。あれも禁止、これも禁止、という禁止項目が憶えられないくらいあるのです。子供を育てる母親の口が、いつでも「ダメ!ダメ!」の一辺倒になることもあります。何かを「ダメ!いかん!禁止!違反!」などの単語でやめさせる方向に行くのはいたって簡単です。各国の政府も、国民に向かって無数に禁止項目を法律化するのです。それで世界は良くなったのでしょうか? 殺人は禁止です。法律違反です。犯した人に重罰が下ります。おかげさまで、この世から殺人犯罪が消えました……ではなく、昔も今も変わりなく、人々は殺されているのです。人間というのは、何かをダメと禁止されたら「いかに法律の抜け穴を探すか」と努力する生き物です。要するにこの世は、「目を閉じれば怖くない」というフィロソフィーを使っているのです。

女神の問い

神々の中にも、「目を閉じれば怖くない」というフィロソフィーを持った女神がいたのです。彼女は真剣に、ブッダの教えについて観察していた存在です。ブッダは苦しみについて語っています。「生きることは苦で成り立っているのだ」というのは、四聖諦の第一諦です。苦しみとは心に起こる現象です。石に石が当たっても、苦しみは生じません。石が身体に当たったら痛いのです。身体には感覚があります。私たちの脳味噌は、入った新たな感覚を「痛い」と解釈するのです。ふつう、「痛い」と解釈する感覚に、ときどき「気持ちいい」という解釈もします。こころが無ければ、脳味噌には何もできません。だから、感覚が痛いか気持ちいいかという判断は、こころが下すものなのです。

苦は単なる痛みで終わる話ではありません。悩み、落ち込み、失望、恨み、憎しみ、怒りなどなどたくさんあります。傲慢であること、頑固な性格、見栄を張ることなども、苦のリストに加えなくてはいけない。ここで女神は、次のように考察したのではないかと思われます。「生命の苦しみとは、こころの問題である。こころが情報を受け取ったから、苦しみが生じたのだ。るならば、こころをその場その場で閉じてしまえば、苦が生まれてくるはずはないのだ」と。

そのように考えた女神は、こう歌ったのです。

Yato yato mano nivāraye,
Na dukkhameti naṃ tato tato;

その場その場こころを閉じてしまえば、
その場その場に応じて苦が生まれて来ないのです。

少々、解説してみましょう。人が喋っているとします。その言葉を聴いていると、腹が立ってしようがなくなります。怒りで苦に陥ります。答えは簡単。その言葉を聴かないことにしましょう。見るもの、嗅ぐものなどについても、その場その場こころを閉じてしまえば、苦が起こるはずがない。それで、女神は結論に達するのです。

Sa sabbato mano nivāraye,
Sa sabbato dukkhā pamuccati.

もし人がすべての事柄について(要するに完全に)心を閉じてしまえば、
必ず、すべての苦から解放されるのです。

この言葉も解説してみましょう。お釈迦さまは、一切の苦しみからこころを解放する道を教えていました。これを女神のアイデアに合わせてみると、こころを完全に閉じることで、苦しみから完全に解放されることになるのです。もしかしたら、お釈迦さまから「見事な観察能力だ」と認めてもらえる可能性があります。だから女神は、お釈迦さまの前で詠ったのです。果たして、お釈迦さまも「目を閉じれば怖くない」というフィロソフィーだったのでしょうか?

お釈迦さまの答え

Na sabbato mano nivāraye,

すべての事柄からこころを閉じてはならない。

お釈迦さまは、女神の話に反対されるのです。「目を閉じれば怖くない」という話は無知な俗世間の考えだと、すでに説明しました。分析してみると、意味がわかりやすくなります。眼から入る情報で、私たちのこころが相当汚れます。それに伴う悩み苦しみも起きます。盲目の人には、その煩悩が生まれるはずはない。それに伴う悩み苦しみもない。では、耳はどうでしょうか? 耳から入る情報によっても、こころが汚れて悩み苦しみが生じます。聾【ろう】の人には、その煩悩がない。眼耳鼻舌身から情報が入るのです。そのチャンネルを閉じれば、苦しみは生じません。しかし、眼耳鼻舌身が働かないならば、その人は生きているのでしょうか? 植物人間でしょうか? 植物人間は覚っているのでしょうか? それだけで話は終わりません。意門に大量の煩悩が生まれるのです。ひとは制御することなく、妄想したり考えたり想像したりします。なんの制御もなく、煩悩が生まれて苦しみが起こるのです。認識機能が無くなったら、その煩悩は現れるはずがない。でも、認識機能が無い場合は、生命ではなくただの物体です。生きている人が解脱に達するということは、感覚がある人が物体に変身することなのでしょうか? 

この解説を踏まえれば、女神の考えは完全に間違っているのだと理解できるでしょう。感覚機能を閉ざすことは、答えではないのです。鏡に気持ち悪い顔が映っているといって、鏡を壊したところで美人になるわけではありません。美人になる道は別にあります。鏡は犯罪者ではありません。

Na mano saṃyatattamāgataṃ;

こころを育てた人(覚者)に、こころを閉ざす必要は全くありません。

お釈迦さまは女神の考えに反対しただけではなく、「なんの制御もなく、こころをそのまま・ありのまま放っておいたほうが良い方々もいるのだ」と説くのです。要するに、仏道を実践して煩悩を断って、こころが完全に清らかになったならば、その方には、こころを制御することも、閉ざすことも成り立たないのです。覚者であっても、眼耳鼻舌身意はなんの問題もなく活動しています。しかし、色声香味触法を認識したからといって、こころが汚れることも、乱れることも、悩み苦しみに陥ることも無いのです。ですから、お釈迦さまは覚者について、「このうえ、やるべきことは一切無い」人になったのだと説明するのです。

Yato yato ca pāpakaṃ,
Tato tato mano nivāraye.

こころが悪に染まるならば、
その場その場こころを閉ざしたほうが良い。

こころを閉ざすこともなく、制御することもなく、そのまま放っておくことは危険です。しかし、こころを閉ざすことも断じて間違いです。お釈迦さまは、正しい、中正的な答えを教えるのです。眼耳鼻舌身意を通して色声香味触法を認識すると、欲と怒りの感情が現れて我を忘れてしまうことがあります。その感情の刺激で、罪を犯してしまうこともあるのです。一般の人々と修行中の人々は、とりあえず罪(悪行為)を犯さないと決めておかなければいけない。罪を犯すと、こころが堕落します。たとえば、人が修行を始めたとする。解脱に達するまで、こころには煩悩があるのです。修行中でも、感情が現れてしまう場合があります。そこで、その修行者が感情に負けて罪を犯したとする。こころが堕落してしまったのです。また時間をかけて、罪を償って修行を始めなくてはいけないのです。こんな生ぬるい調子では、修行者のこころは一歩進むと二三歩退くというパターンに陥ります。解脱に達しないことは明確になります。

お釈迦さまはこの問題に答えて、「こころが悪に染まってしまうケースが起きたら、その場に限ってこころを閉じたほうが良い」と提案するのです。お釈迦さまは修行者に戒律・道徳を推薦しています。お釈迦さまの戒律・道徳の目的は、罪を犯さず生活することです。その場合は、ケースバイケースで「目を閉じれば怖くない」というフィロソフィーも使うのです。たとえば、誰かが禁酒(不飲酒戒)を守っているのとします。彼の友達もそれを知っているのです。友達が何かの用事で宴会を開いて、自分も招待されます。宴会の目的は友人の昇進祝いです。しかし、参加してしまったら、不飲酒戒が破れてしまう恐れがあります。それで、彼は友達を先にお祝いして、プレゼントもあげて、宴会だけ断るのです。戒律を守っているから、社会から離れて逃げ隠れするという話は、ブッダの教えに反しています。お釈迦さまの結論は、「こころが汚れて罪を犯す恐れがある場合は、その場所を避けたほうがよい」ということです。または、こころを閉じたほうがよいのです。

「こころを閉じる」という言葉は、少々わかりにくいかも知れません。具体的に説明します。友達が酒を飲みながら麻雀をやっているとします。自分もそこに同席していますが、麻雀と酒には無関心な態度を取るのです。他の用事があったら、それには正しく反応します。友達の会話にも参加するし、自分の意見も述べるし、お手伝いもする。しかし、酒と麻雀という二つについては、無視・無関心という態度を取るのです。

このやり方は、けっこう役に立ちます。自分の部屋に住んでいる一人が、テレビのドラマを観たいと思っているとする。自分はその時間で瞑想したいと思っている。それならば、両者が自分のやりたいことをやればいいでしょう。瞑想している自分は、テレビの音に対して無関心・無視という態度を取れば充分です。「音、音、音」と実況することすらいらないのです。無理やり、「テレビは存在しない」という気持ちになるのです。「その場その場こころを閉ざす」場合は、このようなやり方で実践します。

今回のポイント

  • 問題から逃げることは解決ではない
  • この世で無視したほうが良い出来事もあります
  • 解決能力があるならば、問題に真っ向から当たる
  • 真の問題は自分がどう進むのか、ということです