パティパダー巻頭法話

No.306(2020年9月号)

苦しみの無限回転

執着は苦の原因 Endless flux of suffering

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Sarasuttaṃ(SN 1.27)
流経(相応部 1.27)

  • “Kuto sarā nivattanti, kattha vaṭṭaṃ na vattati;
    Kattha nāmañca rūpañca, asesaṃ uparujjhatī”ti.
  • “Yattha āpo ca pathavī, tejo vāyo na gādhati;
    Ato sarā nivattanti, ettha vaṭṭaṃ na vattati;
    Ettha nāmañca rūpañca, asesaṃ uparujjhatī”ti.
  • 【女神】
    「どこからもろもろの流れは止まり
    どこで渦は起こらないのか
    どこで名【みょう】とまた色【しき】は
    あとかたもなく消滅するのか」
  • 【釈尊】
    「地と水、そして火と風が
    確立しないところあり
    そこからもろもろの流れは止まり
    ここで渦は起こらない
    ここで名とまた色は
    あとかたもなく消滅する」
  • (経典和訳:片山一良『パーリ仏典第三期1相応部
    (サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版)

輪廻転生

仏教用語では、輪廻転生(saṃsāra)に「流れ(sara, vaṭṭa)」という単語も使います。輪廻転生という用語は、ほとんど宗教的な意味合いを持っています。釈尊の時代、インドの他宗教のあいだでも、「人は死んでもまた何かの形で生まれ変わるのだ」という考えがあったのです。「人間以外の生命にも生まれ変わりがあるのか?」ということは明確に言わないが、インドの宗教の世界では、転生の概念をすべての生命に適用します。そこで、他宗教は「転生するならば、生命の何が転生するのか?」という問題も考えました。そこで、「肉体が壊れても、壊れないで転生する魂・アートマンという実体がある」と説くようになりました。アートマンという単語のおおもとは、「息」なのです。生きている生命は呼吸しているから、わかりやすい概念です。その意味がさらに発展して、「命の真髄」という意味に変わりました。一般人の会話では、何かの現象の真髄に対しても、アートマンという単語を使います。アートマンは哲学・宗教用語でありながら、一般人が日常使う単語にもなっているのです。

命は死で終わらないので、生命は死後のことを考えて自分の行為に責任を持たなくてはいけない。そこで、どのように生きるべきかという道徳的な観念も割り込んでくるのです。というわけで、輪廻転生という用語は宗教世界で使われる言葉になっています。

流れ

仏教の輪廻転生の話は、他宗教の受け売りではありません。「無常ならざる現象は一切存在しない」と語る仏教は、アートマンの概念を最初から否定しているのです。ここで問題が起きます。「変化しないものが何一つも存在しないならば、輪廻転生は成り立たないでしょう?」という疑問です。「すべての現象は原因によって生じ、原因によって滅するのだ」というのが、仏教の因果論なのです。何かの現象が、因縁が無くなって滅したならば、その「滅した」というファンクションも、一つの原因になる。その原因が、また結果を出します。このように、原因→結果→原因→結果という流れが現れてくるのです。この流れは、すべての物質においては明確に理解することも、調べることも、確かめることもできることです。生命は、純物体ではありません。精神、こころ、感覚というエネルギーも働いています。物体に感じる能力があれば、その物体は生命体なのです。生命体の感覚機能も、生まれては消える、生まれては消える、という流れです。私たちも自分の思考パターンをチェックするならば、思考は絶えず流れてゆくファンクションであると簡単に発見できます。こころの流れ、精神の流れ、感覚の流れを発見することが、物質の流れよりも簡単にできます。なぜならば、各生命にその自覚があるからです。

釈尊は、「輪廻転生」という用語も使いつつ、より高度な説法をする場合は「流れ」という用語を使うのです。「輪廻転生」と言えば、生命体に限った働きです。「流れ」という単語を使う場合は、一切現象に適用されます。ゆえに、「輪廻転生=流れ」ではないのです。流れとは、一切の現象のありさまです。原因によって生起して、原因が無くなると滅するのです。

輪廻転生は客観的な事実でしょうか?

これはよく訊かれる質問です。質問する人々にとっても、輪廻転生は宗教的な概念です。宗教が語る言葉だから、無批判的に信じるしかないのです。しかし、仏教は「根拠の無い信仰は智慧を妨げる邪道だ」と扱います。「自ら真理を確かめなさい」と説いて、そのうえ、アートマンの概念も否定するのです。そこで、仏教を学ぶ人は何か困るようです。「輪廻転生を信じなくてはいけないの?」「すべての現象は無我なので、輪廻転生は仏教の考えではなく他宗教のパクリではないのか?」「一般人はどのようにして、輪廻転生を真の仏説として理解するべきでしょうか?」

「輪廻転生」と「流れ」という用語は、同義語にはならないが類義語なのです。この区別がわかれば、仏教が宗教として語る「輪廻転生」は、仏教哲学の「流れ」という用語で理解できると思います。すべての物質現象も、止まることのない生・滅・生・滅の流れなのです。精神も、物質よりもスピーディに起こる生・滅・生・滅の流れで成り立っているのです。いまは我々に「自分がいる」という自覚がありますが、その自覚は無数の物質の流れと、無数の感覚の流れを合わせたところで二次的に起こる現象です。自覚とは、創発現象です。要するに、物質とこころの流れに、同一性を保った変わらないアイデンティティは成り立たないのです。だからこそ、「私が死んだら生まれ変わりますか?」という質問に、答えが無いのです。なぜならば、「私」は実在しないからです。「ウサギの角は長いか? 短いか?」と訊くような質問になります。しかし、一般人の生き方に役立つような道徳的な答えとして、「生まれ変わりますよ」と答えられます。

女神の問い

ある女神が、輪廻転生のことではなく、釈尊が直々に語る「流れ」という法門について考察したのでしょう。彼女にとって、一切の現象がエンドレスに流れるのです。物質であろうが、生命体であろうが、エンドレスに生滅変化の「流れ」に流されている。現象が無限に流れて、どうなることかと考えると不安になります。「どんな状態になったら、無限の現象の流れが止まれるのでしょうか?(kuto sarā nivattanti?)」「どうすれば、流れが流れなくなるのでしょうか?(kattha vaṭṭaṃ na vattati?)」ご自分ではまったく理解できないので、この二つの質問を釈尊に尋ねたのです。

女神は、自分の宿題をちゃんとやっていました。「流れ、流れ」と言っても、具体的には物質と精神の流れです。仏教用語でnāma(名)とrūpa(色)と言います。宇宙空間にあるすべての物質体系も、生滅の流れです。一個の太陽を見ても、生滅の流れで成り立っているのです。しかし、生命体にとっては、宇宙がどうなっても関係ありません。火山が爆発しても、地震で地殻変動が起きても、関係ないのです。自然の流れに過ぎません。しかし、ちょっと待ってください。その変動は困ります。なぜならば、「私」という生命体がいるからです。無人島が津波によって破壊されても、「ああ、そうですか」で終わりです。しかし、私たちが住んでいるところに津波が来るならば、おおいに困ったり、怯えたりするのです。

というわけで、生命は「自分」という生命体を構成している精神と物質の流れに、真剣に注意しなくてはいけない。それがnāmaとrūpaの流れなのです。仏道の実践者たちは、徹底的にnāma-rūpaの流れを観察してみるのです。Nāmaとrūpaは、互いに依存して、助け合って流れます。Nāma(精神)が壊れると、rūpa(物質)が助けて、流してあげるのです。Rūpaが壊れると、nāmaが助けて、流してあげます。人が死ぬ瞬間になったとしましょう。身体はこれ以上、機能しないで壊れます。その瞬間に、nāmaが新しいrūpaのサンプルを作ってあげるのです。新たにできたrūpaのサンプルのなかで、nāmaの流れが始まります。それに依存して、rūpaの流れも始まります。俗世間的に「転生した」と言われる出来事です。宇宙の変化は生命には関係ないのです。生命にとっては、nāma-rūpaの流れが最大の問題です。なぜならば、生まれることも、生きることも、死ぬことも、苦だからです。nāma-rūpaの流れは、結局、苦の流れだと言うべきものです。この流れをストップしたほうが良いのです。そこで、「どうすればnāma-rūpaの流れが止まるのでしょうか?(kattha nāmañca rūpañca, asesaṃ uparujjhati?)」と、女神が尋ねます。この女神は、自分の宿題をちゃんとやっていたようです。

rūpaとは

仏教用語のrūpa(色)は、すべての物質世界を意味します。物質は精密に分けると四種類です。地水火風です。生命の身体は地水火風です。宇宙のすべての物質も地水火風です。地水火風という素粒子の波長は、精神の波長に入り込むことができます。言葉を代えてみると、こころは物質に依存しているのです。こころが物質を取り入れるから、そこで地水火風が自分の法則にのっとって働き始めます。しかし、こころの影響もあるから、流れ方は純物理の流れと違うのです。こころも単独で流れますが、物質に乗ってしまったので、こころの流れも物質の流れによって管理されて制限されてしまいます。

ブッダの答え

もし、こころのエネルギーが、地水火風が入り込むように開けた窓口を閉じたならば、どうなるでしょうか? こころは地水火風と一切関係なく、自由に流れるでしょう。しかし、なぜ精神の流れはどうしても地水火風の流れに依存するのでしょうか? こころには、単独で流れることができないからでしょう。ここで、ややこしいnāmaがrūpaに依存する、rūpaがnāmaに依存する、悪循環が現れるのです。ですから、釈尊はnāmaがrūpaに依存しない状態を作ることを提案します。俗世間的に言えば、「世に開けっ放しにしている、こころの扉を閉じなさい」です。それだけで、nāma-rūpaの流れが止まります。Nāmaが単独になったところで、自由に流れることはできなくなります。Nāmaの流れも止まります。

「Rūpaがnāmaに入り込む状態を止めるべき(窓を閉じるべき)」ということが、yattha āpo ca pathavī, tejo vāyo na gādhatiという偈で説かれています。「地水火風がこころに入り込むことができない」という意味です。それで「流れ」が止まります(ato sarā nivattanti)。それから、無限に回転することも無くなります(ettha vaṭṭaṃ na vattati)。さらに、nāmaの流れもrūpaの流れも残りなく完全に消えるのです(ettha nāmañca rūpañca, asesaṃ uparujjhati)。

結論

この状況は、いまだかつて如何なる生命にも、発見することも体験することもできなかった大胆な出来事です。流れを止めただけではなく、また再び流れないようにもするのです。その状態はどんなものかと、思考して理解することはできません。なぜならば、思考とはnāmaとrūpaの流れだからです。無限に回転するnāma-rūpaの流れを止める鍵があるのです。この経典で、その鍵を明らかにしています。それは、こころが物質に依存することを一旦止めてみることです。釈尊はその状況を、「執着を捨てる」「渇愛を無くす」などの言葉でも説かれているのです。

今回のポイント

  • 輪廻転生は宗教用語です
  • 仏教用語は「流れ」です
  • 物質とこころの無限の流れを輪廻と言います
  • こころの依存する性格が輪廻の原因です
  • 依存を止めれば一切の苦が無くなります