パティパダー巻頭法話

No.612(2021年3月号)

怒りは自傷行為

妄想は怒りの燃料です Anger is inflammable

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada 1. Yamakavaggo

ダンマパダ(法句) 第一、一対の章

  1. Akkocchi maṃ avadhi maṃ
    Ajini maṃ ahāsi me
    Ye ca taṃ upanayhanti
    Veraṃ tesaṃ na sammati.
  2. Akkocchi maṃ avadhi maṃ
    Ajini maṃ ahāsi me
    Ye ca taṃ nupanayhanti
    Veraṃ tesūpasammati
  • 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
    かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
    という思いをいだく人には、
    怨みはついにむことがない。
  • 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。
    かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」
    という思いをいだかない人には、
    ついに怨みがむ。
  • 和訳:中村元『ブッダの 真理のことば 感興のことば』岩波文庫より

怒りはいろいろ

単純に「怒り」と言うのですが、怒りにはいろいろなタイプがあります。それを理解するために、一般仏教用語であるdosaを使ったほうが楽です。Dosaとは、「こころが暗くなった」という意味です。気分が暗くなるのは、誰だって嫌がります。いろいろ工夫して、明るく生きようとする努力も見えます。しかし、残念ながら怒りに打ち克った人はいません。その理由は、怒りの仕組みを理解していないことです。気分が悪くなること、こころが微妙にでも暗くなることが怒り(dosa)であると、まず理解しておきましょう。それから、怒りの種類の話をします。

自分のことを怨んでいる、自分に邪魔をしている人がいるとします。その人が話しかけてくると、気分が悪くなります。我が子がいます。言葉では「目に入れても痛くない」というほど、可愛くてたまらないのです。その子がやっていることなら、何を見ても微笑ましく見ることができます。しかし、ある時その子が大きい声で叫んだり、オモチャを叩いてうるさい音を立てたりしたらどうでしょう。自分の仕事には邪魔でしょうし、静かにしなさいと言っても反応なしです。それであなたは気分が悪くなって怒るのです。これで二種類の怒りがわかったでしょう。ライバルに対する怒りは、相手がどうなっても知ったことではない、という態度です。子供に対する怒りは正反対で、子供の幸福を願っているのです。ご飯を食べたかったのに、奥様がラーメンを作って出す。嫌な顔は相手に見せませんが、気分が悪くなっているのです。

会社に自分と同じ立場の同僚がいる。能力的には二人とも同じです。もし、相手だけが昇格したならば、一応祝福しますが、自分は落ち込んで暗くなっているのです。これも怒りです。女性の場合は、自分より美しい人を見ると、自分の姿に対して嫌な気持ちになる。嫉妬という怒りです。

出勤するため、急いで駅に向かって歩いている。ホームレスの人が自分を呼び止めて「弁当を買うために幾らかください」と言う。そうとう悪い気分になる。「なんで私が苦労して得たお金を知らない人にあげなくてはいけないのか」と思う。物惜しみという怒りです。というわけで、いろいろなタイプの怒りがあることを理解しましょう。

専門的には、怒り・嫉妬・物惜しみ・後悔という四種類に分けられています。その四つの中にも、スペクトラムによってさまざまな怒りがあります。たとえば「嫉妬」にしても、いろいろなタイプの嫉妬があるのです。これらを別々にして理解すると、怒りのタイプは数えられないほどになるので、たとえ僅かでも気分が暗くなった時点で「怒り」だと理解しておきましょう。

怒りの仕組み

ものごとを認識する時、暗い気分になったり明るい気分になったりするので、怒りも認識過程で起こるものです。生命には、ものごとをありのままに認識することができないのです。普遍的に誰の六根にも入るデータを、人は各々で合成して認識するのです。同じ音がある人にとっては音楽になるし、ある人にとっては騒音になるのです。自分のそばにいる三人の外国人が、面白い話を楽しげに自分の言葉で喋っているとします。自分にとってはうるさくてしょうがないし、楽しくないのです。しかし、三人が日本語で楽しげに面白い話をしているならば、それを聞いている自分も楽しくなるのです。実際に起きたのは、耳に音が触れたことだけです。しかし、その音を合成したところで、二つの結果が現れたのです。一番目の場合は、「わけがわからない」という結果です。二番目の場合は、「面白い」という結果です。

眼耳鼻舌身意は六根です。色声香味触法は六根に触れる六境です。すべての生命に、これは共通です。ありのままに知ることはできないので、各生命は六境を合成して認識するのです。その瞬間に、事実から離れています。そのうえ、①好み、②嫌い、③どうでもいい、という価値判断のラベルも貼るのです。自分の合成に自分でラベルを貼ることです。「嫌い」とラベルを張ったら、暗くなるので「怒り」という感情が起きます。「好み」というラベルを貼ったら、「欲」という感情が起きます。「どうでもよい」というラベルを貼ったら、「無知」という感情が起きます。評価ラベルを貼ることも自分の好き勝手な判断なので、揺らぎます。嫌いなものが好きになったり、好きなものが嫌いになったり、どうでもいいものが好きになったり嫌いになったり、その価値観がまた変わったりします。

このややこしい仕組みは人には理解しがたいので、私はある日、ある子供に「あなたが次に泣き出すのはいつですか?」と訊いたことがあります。子供の答えは、「わかりません。その時その時、我慢できずに泣いちゃいます」とのことでした。気分が良くて泣くわけではないので、泣くことも怒りから出る反応です。

怒りの仕組み2

眼耳鼻舌身意を備えている生命は、色声香味触法に触れます。生命の種類によって、好みと嫌いの基本判断パターンがあるのです。人間にとって気にいる対象を、猫も気に入るわけではありません。人間にとって美味しい焼き肉も、うさぎちゃんは嫌いです。これは存続にかかわる問題でもあります。ラクダが美味しく食べているからといって、人間も同じ餌を食べたら消化不良で病に罹るでしょう。やめないと死ぬのです。鹿が虎を見て「なんて可愛い仲間でしょうか」と思ったら、終わりです。鹿が虎を見たら、必ず怯えなくてはいけないのです。そういうわけで、各々の生命に、好む色声香味触法と嫌がるべき色声香味触法のセットがあります。好むセットは、どんな生命であってもかなり狭いのです。嫌いになるべきセットは、把握できないくらい広い。怯えるべき、嫌がるべき、機嫌が悪くなる対象は溢れるほどあるのに、好むべき対象はあまりにも少ないのです。そこで結論として言えるのは、「生命はほとんど怒りで病んでいる」ということです。嫌な対象なら、見渡す限りいくらでもあります。好きなものは極めて少ないのです。そのうえ、人間にもう一つ問題があります。人間には思考する能力がついていることです。その能力を自分と他人に役立てるために使用する人々は僅かです。何の役にも立たないが、絶えず思考だけするのです。仏教はそれを思考とは呼ばず、「妄想」と言っています。こころには大量の好まない認識データが溜まっていて、それを繰り返し思い出しては妄想に耽るのです。結果として、怒りで燃えるはめになります。動物は妄想しない可能性がありますが、おそらく思考もしていないでしょう。動物の場合、怒りで病んでいる暇がないのです。怒りは瞬時に恐怖感に変わります。ゆえに、常に怯えて生活しているのです。人間は文化と文明の発展によって、恐怖感を極力減らしてきました。恐怖の減少と引き換えに、人間は怒りの王様になってしまったのです。最近流行っている新型コロナウィルスは、人間にもう一度恐怖を教えているようです。

怒りを無くすと安穏に達します

人間はさまざまな発明、科学発展などで恐怖感を減らしてきました。動物には、獲物を捕れるか、獲物になるかという強烈な恐怖感の問題があります。人間はその問題に勝利したのです。しかし、その戦いは一年二年で勝ち取ったものではありません。未だに「怒りに克つ」努力はしないのです。敵を倒すために、ライバルを負かすために、怒りを使っています。この点で、人類は品がない生物なのです。シカの敵はトラなどの肉食動物です。シカにとってシカは敵ではありません。人間の場合、敵は人間です。同類で互いに殺し合うことは、品のない行為です。「正当な怒りもある」というのはまっかな嘘で、人間同士の戦いを自分勝手に正当化しようとする企みに過ぎません。COVID-19は人間の命を危うい状態に陥れていますが、それに対して「正当な怒り」を持って対抗しても、何の意味もないのです。必要なのは、問題に理性をもって対応することだけです。もし、人間が理性的な生命に進化すれば、怒りも極力少ない安穏な世界を築くことができるのです

怒りを極力減らしたとしても、寒さに触れると嫌な気分になること、蚊に刺されたくないと思うことなどなどは残ります。その場合は、「人間という生命のプログラムはこのようなものになっているのだ」と理解して、悪条件に遭遇しても怒らないで忍耐を実践するべきです。仏道はその道を明確に説いています。こころの安らぎ、幸福を期待するならば、仏道を実践してみることです。

意図的に憎しみをつくる

人は妄想して意図的に怨み憎しみをつくるのだと、お釈迦さまが説かれたのです。人類が怨みで、憎しみで、苦しみに陥っていることを覚っていたので、余計な妄想をすると怒りの罠から抜けられないのだと説かれたのです。「あの人がわたしを罵った」と延々と妄想すると、怨みで燃えることになります。「罵った」とは、自分が貼った価値判断のラベルです。その人は相手が○○のような言葉でわたしに喋るべきだと勝手に思っていたでしょう。しかし、相手の言葉はそうではなかった。そこで、「罵った」とラベルを貼ったのです。このような人は、「汝らはわたしを罵るべきではない」という勝手な決まりで生きているのです。他人を管理することなど不可能です。不可能な決まりの代わりに、ブッダは「わたしは他を罵ることをやめる」という戒めを教えるのです。それが自己管理です。「罵った」とラベルを貼った時点で、人は大きな間違いを犯しているのです。

次のステップに入りましょう。相手が自分を罵った。仕方がない。ほんの僅かな時間の出来事です。その時、怨みも起きたかも知れません。原因(罵ること)が無くなったら、結果(怨み)も無くなります。しかし、この愚か者は、過去の出来事を繰り返し思い出しては妄想するのです。そうすると、怨みも現れてきます。法則的に、怨みの感情が徐々に強烈になるのです。この流れは自己管理できないところまで、自己破壊するところまで、進んでしまいます。ゆえに、理性のある人は、罵られてもそれはその場で忘れてしまうことにします。過去の出来事にするのです。

いじめた

いじめ現象もこの世でよくあることです。いじめと人に害を与えることは悪いに決まっていますが、なかなか人間の社会から消えない現象でもあります。そこで、いじめられた人・被害者が繰り返しその体験を思い出すと、過去の出来事を妄想して決して忘れないことにすると、結果は自己破壊に陥るだけです。誰かが悪いことをしたら、その結果は悪行為をした本人が受けるのです。それがこころの法則であり、業の法則でもあります。もし、加害者に対して被害者が怨みを抱いたならば、被害者が自分自身で悪行為をしていることになります。その結果は自分が受けるべきものです。加害者が有罪になるべきところで、被害者が有罪になって罰を受けるような不条理な話です。過去の出来事を怨むことなく、「いじめられて被害を受けたことも、それはその時の出来事だ」ときれいさっぱり忘れる人こそが、幸福という勝利を得るのです。

負けた

人間は競争社会をつくっているのです。それには避けられない理由もあります。仲良し生活する動物も、餌を取ることになると互いに競争します。弱いものから奪ったりもします。サルは仲良しグループです。しかし、サルの群れに餌をあげると、オスザルたちが先に食べます。力の強いメスザルたちが次に食べます。赤ちゃんを抱いているメスザルさえも、餌を自分で取って食べるのであって、子供にはあげません。みんな食べ終わってから、サルの子供たちが残った残飯を食べなくてはいけない。この現象をそのまま、人間は文明の衣装で飾って実行しているのです。力のある少数の人間が地球の財産を独占していて、大多数の力のない人間はやっと生きているだけです。厳然たる事実として、われわれは競争社会に生きているということを忘れてはならないのです。勝つ人がいるならば、必ず負ける人もいます。数字的にいえば、ほとんどは負ける人で、勝つ人はほんの僅かです。そう言われても、負けることは気持ち良いことではありません。スポーツ世界では、競争の心理は不可欠な条件です。スポーツマンは相手に勝たなくては始まりません。負けたら、決して良い気持ちになれないのです。そのような環境の中で、人が「相手に負けた」「相手がわたしに勝った」と延々と妄想を続けると、怨みが燃え盛って自己破壊に陥ります。競争がない社会は成り立たないので、誰にでも「負けた」憶えはたくさんあると思います。それについて繰り返し思い出すことは、進んで地雷を踏みに行くようなものです。お釈迦さまは、たとえ負けても「そんなのは過去の出来事だ」と割り切って、妄想しないことを推薦します。

盗られた

これだけでは終わらないのです。世には泥棒や詐欺師もいます。そういう人々が、自分の財産を奪いに来るのです。負けっぱなしの競争社会でやっと生きているわたしたちには、自慢できるほどの財産はありません。やっと得た僅かな財産を大事に使わなくてはいけないのです。時々、収入が生計を立てるために足らない場合もあります。その財産を泥棒に盗られたとしたら、怒ることも、落ち込むことも、耐えられない気持ちになることも自然です。しかし、その出来事を繰り返し思い出して落ち込んだり、怒ったりするならば、その人は自己破壊の門を開くのです。たとえ財産が盗まれても、その出来事を繰り返し妄想して怨みを養ってはなりません。「泥棒に財産を盗られたこともあった」と、過去の出来事にして明るく生きるより他の道はないのです。わたしたちは加害者の代わりに被害者が有罪宣告を受けるような、愚かな生き方を直ちにやめるべきです。ダンマパダの三偈と四偈では、「妄想は怨みの燃料になるのだ」と説かれているのです。

今回のポイント

  • 怒りとはこころが暗くなることです
  • 怒りは複雑なスペクトラムを持っているのです
  • 明るくなる原因は僅かです
  • 暗くなる原因はありふれているのです
  • 妄想は怒りの燃料です