パティパダー巻頭法話

No.320(2021年11月号)

高台に登って観る

智慧とは今・現在に生きることです Beyond illusive world of conceptions

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

2. Appamādavaggo
第二章 不放逸

  1. Pamādaṃ appamādena,
    yadā nudati paṇḍito;
    Paññāpāsādamāruyha,
    asoko sokiniṃ pajaṃ;
    Pabbataṭṭhova bhummaṭṭhe,
    dhīro bāle avekkhati.
  • 賢者が精励修行によって
    怠惰をしりぞけるときには、
    知慧の
    高閣

    たかどの

    に登り、
    自からは憂い無くして
    (他の)憂いある愚人どもを見下す。
    山上にいる人が地上の人々を見下すように。
  • 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より

DhammaとVinaya(理論と実践)

見出しにあげた二つの言葉は、仏道の中心になるキーワードです。詳しく解説するならば、仏道のすべてを説明することになります。まずは「仏教」と「仏道」という二つの単語について理解する必要があります。仏教とは、「存在とはなんぞや」と明確に解説する理論編のことです。仏道とは、苦を乗り越える方法が完全に説かれている実践編です。この二つを区別するために、お釈迦さまは、dhamma,vinayaという言葉を使っていたのです。このうち、vinayaは「律」または「戒律」と訳されます。しかし、それでは律・戒律を狭い範囲で理解することになってしまうのです。実際、仏教徒たちもvinayaを狭い範囲で理解しています。いわゆる戒律とは、仏道の初歩のステップです。それに対して、仏道は解脱に達するまで進む道なのです。そういうわけで、釈尊の教えは理論編たる仏教(dhamma)と実践編である仏道(vinaya)に分かれるのだ、というふうに理解したほうが良いと思います。

人の道

初期仏教では、実践編のすべてをpamādaとappamādaという二言に集約することが当たり前の話になっているのです。Pamādaは放逸、appamādaは不放逸です

Pamādaという単語について、まず理解しましょう。これは「仏道にならない道・生き方」と理解したほうが分かりやすいのです。と言っても、他宗教と仏教、という区別ではないのです。すべての人間が生きているので、皆にそれぞれの生き方があります。皆、それぞれの生きる目的も持っています。世間から教えられた情報と教えられた価値観、それから自分の感情・好き嫌い・判断などを併せて、それぞれが自分の生きる道を設定しているのです。

人々は自分に一貫した生き方・生きる道があると思っているようですが、実は違います。社会が教える情報と知識は、日々変わるものです。自分も、すべてを受け入れるのではなく、知識を得たり、無視したり、無関心になったりもするのです。自分の好みも、感情も、判断の仕方も、一貫しません。だから、人が「自分の生きる道」と言うものは、絶えず変わる無常の流れなのです。そういうわけで、「あなたの生き方は何ですか?」と訊かれても、明確に答えるのは難しくなるのです。自分の生きる道が曖昧であることは普通です。明確に定めた生き方があると思ったら、それは誤解で、自分と他人にとって危険な生き方になる恐れもあります。極論的な生き方、原理主義などは成り立たないのです。「どんな生き方であっても、人の生きる道は放逸の道だ」と言うのが、仏教の立場です。当然、納得が行かないでしょうね。

放逸 pamāda

放逸の生き方とは何でしょうか? 「どのように生きるべきか」と人に指図するのは、各個人の感情です。人はそれぞれ自分特有の感情を持っています。だから、個性があるのです。そこで、仏教は生命のこころに起こり得る感情のすべてをリストアップしているのです。一般的に「千五百煩悩」として知られています。煩悩には組み合わせがあります。一瞬のこころの中で、同時に働かない煩悩もあります。だから、人のこころに千五百の煩悩すべてが同じ時間に働くことは絶対にないのです。それから、煩悩にパターンが出来上がるのです。ひとりの人間に、一つの煩悩パターンが繰り返し起こり、活動します。その状況が「性格」と名付けられているのです。煩悩が一緒に働くパターンを調べてみると、無数のパターンは成り立つわけではないと分かります。無数の生命がいたとしても、無数の性格を持っているわけではないのです。煩悩パターンの数を調べれば、生命が持てる性格の数を確定できます。これはお釈迦さま(正等覚者)だけに固有とされる能力です。経典とアビダンマのテキストには、仏教を理解するために、また修行に必要なところに限って説明されています。結論は、「感情の指図で生きることが放逸の生き方だ」ということです。

感情が惹き起こすもう一つの問題があります。人は将来の結果を期待して行動します。「将来、この結果になりたい」と思うことは、こころに起こる現象であって、決して現実ではないのです。簡単に言えば「妄想」です。将来を期待する人は、妄想・観念に導かれているのです。要するに、現実を知らないままで生きる、という結果になります。

それから、過去の経験を活かす、という生き方もあります。過去に起きた出来事に対する反応として、今を生きているのです。言うまでもなく、過去とは現実ではありません。過ぎ去ったものです。人は、多かれ少なかれ過去の出来事を記憶しているのです。史実として記憶しているならば問題はありません。しかし、記憶にも感情が入り込んで汚染しているのです。そんな私たちが、過去の経験を活かして、今生きようとするとどうなるでしょうか? 「昨日○○さんが私を怒鳴ったので、今日会ったら言い返してやる」という具合に、過去を活かしてしまうのです。過去の記憶はこころに起こる現象で、史実かも知れませんが、現実ではありません。だから、「妄想」と言ったほうが話は早いのです。過去の出来事に感情が割り込むので、人の記憶も曖昧で中途半端でいい加減です。過去の出来事を衝動にして生きる行動を惹き起こす人々は、現実ではない妄想と感情の指図を受けているのです。要するに、現実を知らないままで生きる、という結果になります。

人の生き方は、ほとんど「過去と将来」という妄想と感情に支配されています。車を運転するような生き方ではないのです。車を運転する時でさえ、人は現実に集中することから離れています。音楽を聴いたり、行き先のことを考えたり、人と喋ったりするのです。現実に集中しようとすると、眠気に襲われる有り様です。ですから、「過去と将来」という妄想と感情に逃げているのです。まとめて見れば、これは人の生き方そのものです。「過去と将来」という妄想と感情に支配された生き方を一言にまとめて、「放逸pamādaの生き方」と言うのです。

納得が行かない?

そう言われても、納得が行かないかも知れません。「人々はしっかり生きているのだから、何の問題も無いだろう。人間は文化的・物質的に発展しているのではないか?」と思う人々も少なくないでしょう。簡単に答えることができます。そのように思うのは、単に自我の感情に支配されているからに過ぎないのです。「自分が偉い」と思っているから、問題を感じられないのです。少々、観察すれば、この存在の中で誰も偉くないこと、また誰かが卑しいわけでもないことが発見できるでしょう。皆、「過去と将来」という妄想と感情の指図で生きている現実を発見できるはずです。そういうわけで、生命の有り様はどう見ても「放逸pamādaの生き方」であると言わざるを得ないのです。

不放逸 appamāda

不放逸とは、苦を乗り越えるための生き方なのです。俗世間的な生き方とは、かなり変わった生き方になります。ポイントは、過去と将来の妄想に走らないで、現実を観察しながら生きることです。お釈迦さまは、人に「現実を発見しなさい」と戒めるのです。現実・事実を知らないとは、即ち「真理を知らない」ということです。真理を知らない人々は、こころが作り出す妄想と観念で出来上がった物語の世界に生きているのです。世にある宗教の世界は、物語の世界です。科学者はある程度で物質の存在を観察するから、人の生き方をそれなりに便利に変えることが出来ています。しかし、科学の世界もまた、物語の世界になっているのです。

仏教の観察

仏教では、科学者のやらない観察に挑むのです。それは、「生きるとは何?」という観察です。神秘・物語・感情・信仰・好みなどを一切入れないで、客観的に、科学的に、「生きるとは何?」と観察するのです。過去と将来の妄想・観念を避けて、「今ここ」という現在に集中します。今まで、命という概念は「神のみぞ知る」秘密の箱であったが、それを開けてみるのです。必要な説明はすべて、仏教の理論編(dhamma)で語られています。私たちの仕事は、理論編を参考にしながら命の箱を開けてみることです。成功者は、物質の世界のありさまも、こころの世界のありさまも、知り尽くします。こころと物質の組み合わせで起こるすべてのトラブルを解決するのです。解脱・涅槃という究極の安穏に達するのです。もう一つ、科学の方法とは違う点があります。科学発展には何百年もかかったのですが、まだ開発途上です。「生きること」の客観的な観察は、それほど時間がかかる作業ではありません。研究材料はすべて揃っているのです。するべきなのは、調べてみることだけです。なぜでしょうか? やるべきことは「生きるとは何?」という観察です。生きているのは自分自身です。ならば、その自分を観察すれば十分です。すべての生命のことを観察する必要はまったく無いのです。

智者の世界

人々は、「過去と将来」という観念・妄想に閉じ込められて生きています。客観的な現実(今の瞬間の出来事)を観察する暇がないまま、主観の世界で生きているのです。期待・希望・願望などに悩まされ、慢・怒り・嫉妬・憎しみ・欲などの感情に虐められているのです。主観の殻に閉じ込められているから、他人との人間関係も上手く行かないのです。人間関係は、理解より誤解によって成り立っているのが実状です。希望とは妄想なので、決して現実にはなりません。人は不満で生きていて、不満で亡くなるのです。生きてはいるが、生きることに納得していないのです。人は何かを探しているのですが、何を探しているのかと分かっていないのです。何かを探している気持ちは「渇愛」と名付けられています。経典には良い例えがあります。

新たな水が流れてこない小さな水溜りで、怯えて震えている魚たちのように、
〈私、私の〉という感情(渇愛)に悩んでいる人々を見よ。存在に愛着を抱くなかれ。
(『スッタニパータ』七八三偈)

現在の事実に集中して、「生きるとは何?」と観察する智者は、憂い悲しみに悩んでいる生命の哀れな姿を、智慧の高閣から見下ろすかのように、憂い悲しみ無く見ているのです。山の頂上に登ったならば、下の状況を見ることは簡単です。自己観察できる智者は、生命の生きる姿を簡単に発見するのです。

今回のポイント

  • 仏教は理論編と実践編で成り立っています
  • すべての生命は放逸の生き方をしています
  • 放逸は限りない悩み苦しみを作ります
  • 仏道は不放逸と言います
  • 不放逸の人は命の次元を破ります