パティパダー巻頭法話

No.324(2022年3月号)

動揺はこころの本性

こころの制御に理性が必要 Most unstable function is mind

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

3. Cittavaggo
第三章 心[チッタ]の章

  1. Phandanaṃ capalaṃ cittaṃ
    Durakkhaṃ dunnivārayaṃ
    Ujuṃ karoti medhāvī
    Usukārova tejanaṃ
  • 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。
    英知ある人はこれを直くする。
    弓矢職人が矢柄を直くするように。
  • 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より

大切だと思われているこころ

世の中では一般的に、「身体が壊れて死んでも精神は続くのだ」と思われています。その考えがあるから、人々は死後の世界に興味を抱くのです。人生が死ですべて終わるのであるならば、宗教の役割は無くなります。俗世間の決まりと法律を守って生きていれば充分です。宗教の世界では、永遠不滅の魂の存在を信じています。現代的な思考では、魂イコール精神になっているのです。「神のような超越した存在を信じて、その超越した存在に言われた通りの生き方をするならば、魂が死後、永遠の安穏に達するのだ」と宗教の世界は考えています。超越した存在に逆らった生き方をする人々の魂のために、永遠の地獄も設定されているのです。

ただし、この一般論には矛盾があります。 永遠不滅のはずの魂が、超越した存在を信じるか否かということで、本質的に変わるのでしょうか? 世間的に認められない生き方をたまたまやってみただけで、魂が変化してしまうのでしょうか? 簡単な行為で魂が変わるならば、「永遠不滅」という考えは間違っていることになります。

理論の中身はともかく、宗教を信じる人々は、肉体より精神を大事にしているのです。信仰を持たない人々も、同様にこころを大事にして生きています。「物質的に豊かになるだけでは、人は幸せにならないのだ」と思っているのです。「死後、すべて消えて虚無になるとしても、生きている間は充実感を持って楽しく過ごしたい」と言って、明るいこころを期待しています。そういうわけで、「こころ・精神が大切だと、誰でも思っている」と言わざるを得ないのです。

当てにならない

ブッダの教えを調べると、こころは大切な宝物ではなく、当てにならない、ほとんど管理不可能な働きだと分かります。こころは実体として存在するものではなく、勢いをもって変化して流れる働きなのです。身体ならば、短い時間でも安定させておくことができます。身体をストップすることはできても、こころをストップすることはできないのです。

こころ・精神を生命の魂と見なす思想は、死を嫌がる人々の願望に基づく妄想以外の何者でもありません。客観的に観れば、こころほど早く変わるものは存在しないと分かるのです。私たちは、身体を当てにしていろいろと計画を立てます。「この仕事は一時間で終わります」「三時間くらいかかります」などなどと言う場合は、体力を当てにしているのです。ものごとはその通りに運びます。しかし、こころの場合は話になりません。たとえ一分でも、何も考えないでこころを安定した状態に保つことはできないのです。一分もあれば簡単に、大量の思考・妄想をすることができてしまいす。身体のようにこころを止めてみることは、現実的ではないのです。こころは当てにならないものです。

動揺はこころの本質

こころは動揺します(phandanaṃ)。揺れ動くのです。安定することは不可能です。こころは神秘的な存在ではありません。こころとは、「知る」という働きです。物質には、「知る」働きがないのです。身体は物体ですが、そこに「知る」働きもあるので「生命」と名づけられます。「こころがある」とも言います。一つの物体がもう一つの物体に触れたとしましょう。一つの物体が触れたことを知ったならば、その物体は生命です。もう一つの物体も触れたことを知ったならば、その物体も生命です。身体に風が触れたら、身体はそれを知るのです。その〈知〉をさらに拡大して、「寒い」または「暖かい」などと言うこともできます。

身体には二十四時間、大量のものが触れます。それを「知る」のです。いったん服を着たら、人は十分ごとに自分が服を着ているのか、裸でいるのかとチェックしません。なぜならば、服という物体が絶えず身体に触れていて、こころでそれを知っているからです。二十四時間、身体にどれくらいのものが触れるのかと、測れたものではないのです。試しに、人の指のことを考えてみましょう。指にできる仕事は、数えきれないほどあります。しかし、ここで起きるのは、触れる、感じる、知る、という流れです。「知る」ことがこころの働きであるならば、身体で「知る」ことだけを考えても、こころには安らぎもないし、落ち着きもないのです。触れるものを、つねに知らなくてはいけないからです。

触れるものは身体だけに限りません。耳に振動する空気が触れる。眼に光という電磁波が触れる。鼻がある空気の成分を香りとして知る。舌が触れるものを味として知る。「知る」世界は限りないほど大きいでしょう。問題は、「知らないでいることはできない」ということです。眼を開けているならば、見ないでいることは不可能です。眼を閉じても、暗闇が見えます。だから、こころに休息なんかは無いのです。触れる対象に合わせて動揺しなくてはいけない仕組みに、こころは嵌まっています。眼耳鼻舌身に絶えず色声香味触が触れて揺らいでいるのに、意でさまざまなことを考えたり妄想したりして、さらに激しくこころが揺らぐのです。動揺はこころの本質です。

気まぐれ(capala)

触れることを知って揺らぐこころは、それから〈知〉を判断に回すのです。家、花、歌、寒い、硬い、などなどの無数の判断が起きます。さらに、好き、嫌い、どちらでもない、などの判断を重ねます。それから、欲、怒り、嫉妬、恐怖、不安、などの感情も作ります。仏教用語では、感情を「煩悩」と言います。それから、触れる、感じる、知る、という機械的な流れを感情が横取りして支配します。そこで、我々がよく知って悩んでいる、トラブル尽くしの世界が現れるのです。ある時は大好きだと思っていた人を、ある時は大嫌いになる。好きなものが嫌いになる。嫌いなものが好きになる。音楽に興味あった人が、音楽が面白くなくなって哲学に興味を抱く。信仰を抱いたり、あとでその信仰を批判したりもする。そういうわけで、私たちに人を判断することは不可能です。人を正しく判断するどころか、自分自身が何者かとも自己判断できないのです。すべて、こころの仕業です。こころは気まぐれなのです。

護り難く、制し難い

「触れる」ことを「知る」ことが、こころの仕事です。色声香味触は、外の世界のエネルギーの流れです。人にそれを管理できないのです。必ず触れます。世界から情報が触れないようにして、こころを守って安穏を経験しようと思っても、実行不可能なのです。防音室で光を消してジッとしていることも可能ですが、それでも身体にものが触れるのです。稀にそこをクリアしたとしても、こころに概念(法)が触れることはストップできません。こころは護り難い(durakkhaṃ)だけではなく、情報を管理することによって制御することも難しい(dunnivārayaṃ)のです。

敗北を認めない

こころの本来の姿を読んでみたところで、「こころの管理は無理だ。そのまま放っておくしかない」と言いたくなったかも知れません。それは敗北を認めることです。例えば、大津波が来ると知ったとしましょう。津波到達まで、あと三分です。「だったら仕方がない。ここに留まって津波に流されて死ぬしかない」と諦めますか? いいえ、その僅かな三分を活かして、高いところを目指して一気に走るべきでしょう。そうすれば、命が助かる可能性があります。要するに、津波とは管理不可能な恐ろしい現象です。そのような現象に直面しても、理性と正しい判断と努力があれば活路を開くことができるのです。

仏教がこころの本来の姿を客観的に科学的に説明するのは、助かる方法があるからです。「敗北宣言しなさい」という意味ではないのです。仏教は敗北を認めません。

理性

揺らぐこころを揺らがない心に育てるために不可欠なのは、理性と正しい判断と実行力です。こころが揺らいでいるのに揺らぎに気づかない一般の人々には、「揺らがない安穏のこころとはどういうものか?」と想像することすら不可能です。しかし、「こころはなぜ揺らぐのか? どのように揺らぐのか?」と客観的に知った人であれば、安穏のこころについて仮説くらいは立てられます。理性・正しい判断と実行力が備わっている人のことを、medhāvī賢者と言うのです。

昔の人々は、狩りをするために、敵と戦うために、弓と矢を使いました。矢は木から作られます。しかし、まっすぐ垂直に伸びる木は自然界に存在しません。すべて、ねじ曲がって生えています。木の一部にまっすぐな部分があったとしても、重さは均等ではないのです。であれば、木の枝から矢を作る試みは無駄な努力に終わりそうです。しかし、現実は違いました。人々は狩りや戦いにふさわしい矢を作りました。曲がった木をさまざまな工程を経てまっすぐにして、重さ・長さのバランスの良い矢に仕上げたのです。矢作り職人には、樹木の本来の姿についての理解(理性)がありました。その理解に基づいて、「こうすれば良い」という判断をして、実行したのです。お釈迦さまは、「矢作り職人がまっすぐの矢を作るように、こころを制御して育てることです」と説かれました。

今回のポイント

  • 精神は永遠不滅ではない
  • 知る機能にこころと言います
  • こころに限りなく情報が触れます
  • 触れることによって、こころが絶えず揺れ動く
  • 触れることによって、こころが汚れて煩悩が起こる
  • それでも賢者はこころを制御する