No.326(2022年5月号)
仏陀の出現
真の幸福が現れた日 Wisdom revealed
今月の巻頭偈
Vinaya,Mahāvagga
律蔵大品
- Na me ācariyo atthi, sadiso me na vijjati;
Sadevakasmiṃ lokasmiṃ, natthi me paṭipuggalo.
Ahañhi arahā loke, ahaṃ satthā anuttaro;
Ekomhi sammāsambuddho, sītibhūtosmi nibbuto.
- 私に師匠はない。私に等しい者もない。
神々・人間を含むこの世で、私に対抗できる者はない。
この世において、私は阿羅漢(完徳者)である。私はこの上なき師匠である。
私一人が、正等覚者である。私は寂静である涅槃に達している。 - 和訳:アルボムッレ・スマナサーラ長老
唯一優れた存在
仏暦二五六六年になりました。今年の五月の満月は仏教徒にとって正月にあたるので、皆様に三宝のご加護がありますようにと祝福いたします。この日は、シッダッタ(シッダールタ)という名の菩薩が無明を破り覚りに達した記念日です。この日から、お釈迦さまはシッダッタという名前で呼ばれたことはありません。仏陀・世尊・正等覚者などの敬語で呼ばれることになったのです。釈尊は自分を示す言葉として、如来(tathāgata)という語を使いました。釈尊に使う言葉は、人間という意味より覚りの智慧を表すものです。ある日、一人のバラモンから「あなたは梵天ですか? 帝釈天ですか? 神ですか? 神霊ですか? 人間ですか?」などの質問をされた時、すべてを否定されました。「人間ですか?」と訊かれた時も、「いいえ、人間ではありません」と答えました。その答えを理解できなかったバラモンは困惑してしまったのです。お釈迦さまの答えを要約いたします。〈生命として定義するために必要な条件である、煩悩、束縛、汚染などは二度と起きないようにすべて根絶したので、何かの生命として区別することは正しくありません。自分のことを阿羅漢、正等覚者と理解したほうがよいのです。〉
仏教の世界では、仏陀と阿羅漢をふつうの人間として扱っていません。他宗教では、偉大なる存在、絶対的な存在は「神」になります。仏教の場合は、生命ではなく「智慧」ということになります。生命と名付けられるすべての次元に関わる束縛を根絶し、言葉で表現できる状態を超えたので、智慧を表す単語である「仏陀」と呼ぶことになったのです。人間が初めて、生命の次元の一切を破って、解脱の境地に達した日であるウェーサーカ月の満月は、唯一祝うべき日ではないのかと思います。
初めは失敗する
覚りに達したお釈迦さまは、三ヶ月間くらい経ったところで人間に向かって語ろうと思ったのです。そこで、まずは在家の時から一緒に生活して、出家してからは修行を手伝ってくれた、自分の仲間である五人の出家行者たちに語ろうと出かけた道中で、ウパカという人に出会いました。仏陀を見たウパカは、「ふつうの人間ではない」と感じたのです。仏陀に挨拶したウパカは、仏陀の安穏な姿を認めて、「あなたの師匠は誰ですか?」と訊きました。(仏陀の三十五歳の身体を見て、師匠がいるに違いないと思ったでしょう。)お釈迦さまが人間に初めて自己紹介した言葉を要約して書きます。
〈一切(現象または生命)を乗り越えて、一切を知っているのです。すべての現象に執着が無いのです。渇愛を滅して解脱しています。それは自分ひとりでやったので、誰を師匠として仰ぐでしょうか? 私に師匠はいません。私に等しい存在も無いのです。神々を含むこの世で、私より優れた者はいません。生きとし生けるものの間で、私は阿羅漢であり、偉大なる師匠でもあります。私一人で正等覚者となり、安穏に達しています。〉
ウパカはこの言葉に乗らなかったのです。恐らく、「この人は頭がおかしいのではないか」と思ったことでしょう。お釈迦さまがせっかく自己紹介したのに、大失敗に終わったのです。この失敗は、当然の結果だと思います。「私こそ唯一優れた存在である」と発言したら、世間がそれを笑って否定するのは当たり前です。お釈迦さまが、「私」という一人称で語ったことも問題になります。それから先、五人の比丘たちに会った時も、問題が起きたのです。彼らは仲間が覚りをひらいたことを認めなかったのです。五人の比丘たちに最初に拒絶された後、お釈迦さまが「自分はあなた方に対して、一度たりとも嘘をついたことがあったでしょうか?」と問いかけたところで、五人の比丘たちは黙って釈尊の説法を聴くことに決めたのです。
嫌われる一人称
人々は必要以上に、「私」という一人称を主語として使いがちです。自分を誇示してしゃべると、聴く相手のこころが内容を拒否する態度に変わるのです。自分のことをネガティブ評価で語る場合は、この心理学構成が簡単に分かります。たとえば、「私は頭の悪い人間だ。何をやっても失敗する人間だ。自信がひとかけらも無い人間だ」などなど言うと、聴く相手はただちに拒否するフォーマットを使うのです。「いいえ、そんなことありません。あなたはしっかりした人です」などなどと言うのです。また、ポジティブ的に自分のことを語ると、聴く相手は話を否定するための情報を考えるのです。一人称を主語として人に語ることは、余計な問題を惹き起こす原因になります。一人称は嫌われる運命を持っているようです。それでも人間は、自我という幻覚で病んでいるので、「私」という語を強調して使ってしまうのです。結果として、他人に拒否され、嫌われるはめになります。社会で非難の的になるのです。当然、他人も一人称を誇示します。結局のところ、世界は議論、争論、非難、罵り合い、差別、他を見下す、自分を誇る、相手を理解しないだけではなく自分を理解しないことに文句を言う、戦場になっているのです。
事実を三人称で語る
お釈迦さまが覚ってから初めて人間に語った時には、一人称で強調したのです。「あなたの師匠は誰ですか?」と訊かれたのだから、返事の言葉にも一人称を入れる必要があります。それでも、お釈迦さまの言葉は無視されたのです。例を考えましょう。「あなたの名前はなんですか?」という問いには、「(私は)一郎と申します」が答えでしょう。しかし、その人が「両親は一郎と名付けました」と答えたならば、どうなるでしょうか? その人の話に、普段より集中することになるのです。
お釈迦さまは四十五年間にわたって、人間に解脱に達する道を教え続けて、普遍的な真理を言い残したのです。仏陀の言葉より優れた言葉は、これからも世に現れないことでしょう。お釈迦さまが説法なさる際には、三人称で語ったのです。一回の失敗を受けて、人間に語るべき言葉の正しい使い方を発見されたのです。それでも、たまに一人称を使って語ったケースもあります。それは、世間の人々の考えと仏陀の考えが反対であると示すためです。お釈迦さまが「私」という単語を使って語られた言葉は、「世間がどんな見解を持ってようとも、仏教の考えはこれです」という意味になります。
例えば、「業」については皆が語っていたのです。バラモン教は「神に供犠を行なうことは善業である」と説きました。一般的には、「人の行為が業である」と思われていました。ジャイナ教は「業とは物質的なエネルギーである」と理解していました。業には結果がある、または結果が無い、という議論もありました。善業・悪業を分けることにも問題がありました。「殺生は悪業である」という一般論がある一方で、「生贄は善いことである」と語る人々もいました。クシャトリヤ・カーストに生まれたならば、戦争で敵を倒すことは神に対する供犠である、と『バガヴァッド・ギーター』というテキストに説かれています。このように、業に関してたくさんの見解があったので、お釈迦さまはあえて一人称を使って「意思(cetanā)が業である、と私は説く」と説かれたのです。この場合は、「私」という一人称が大事な役割を果たしています。
真理は衰えない
一切の現象は無常である、生きることは苦である、渇愛が苦の原因である、諸法は無我である、などなどの真理は、お釈迦さまが三人称で語られたものです。人々は真理を理解したり、誤解したり、否定したりもするのです。真理を無視して生きることもあります。人間が認めても、否定しても、反対しても、真理は衰えないのです。仏説について、「かつて事実であったが、今は事実ではありません」ということは成り立ちません。「『聖書』は神が語ったものなので絶対的な真理である」と誇示していた時期がありました。しかし、「『聖書』とは神話物語である」と思う人々もいます。時代に応じて『聖書』の言葉を新たに解釈する習慣は、仏説には当てはめられないのです。仏説を守る必要も、真理のために戦う必要もありません。仏説を次の世代に引き継ぐことだけは大事な仕事です。お釈迦さまは、「仏説(真理)は太陽のようになんの差別も区別もなく、人類に開放されるべきである」と説かれました。新しい発見によって既成の概念が変化したならば、その概念は真理ではなかったということになります。新しい発見も、さらに変わる可能性があります。事実を発見するのは科学世界の仕事ですが、科学とは常に新しい発見によって変わっていくものです。ゆえに、科学者は「これが真理だ」という言葉を使わないのです。しかし、仏教では始めから「真理はこれだ」と堂々と説いたのです。これは、一般世界では、とても危険な言葉遣いです。しかし、仏滅から二千五百年以上経ったにも関わらず、「仏説は真理ではない」と証明することは誰にも出来なかったのです。
個人の仕事
我々は、仏説を理解して納得するように努力しなくてはいけないのです。個人レベルでも、仏説はそのとおりであることを自ら発見しなくてはいけないのです。「仏説は正しいのだ、真理なのだ」と信仰を持って謳うことは、何の役にも立たないことです。人々は五根から入る情報を捏造して認識します。捏造した概念を組み立てて、「これが真理だ」と結論をつくるのです。この認識プロセスをそのままにしている限り、個人に真理は明らかになりません。お釈迦さまは真理を発見するために、並ならぬ努力をしたのです。しかし、私たちにはその仕事を迷うことなく続けられます。真理を発見する方法を完全に語られているからです。その方法は、人間ならば誰にでも実行できます。
仏教とは何?
仏教は科学ではありません。科学的な事実は、一部の人々だけが発見すれば充分です。科学者の研究成果は、科学者でない人々にも享受することができます。しかし、科学的な発見によって人々の性格は良くなりません。人格向上は科学の管轄ではないのです。天才的な能力を持って生まれた科学者たちの一部が、大量破壊兵器も開発します。科学の成果は使い方によって人類の役に立つことも人類を破滅に陥れることもありえます。仏教の研究は一人ひとりで行わなくてはいけないので、科学ではありません。仏教を実践することで人格が向上します。仏教を、人々を不幸に陥れるために使うことは不可能です。仏教の実践は、自然を人間のわがままで変えることも、破壊することもしないが、心を完全に清らかな状態に育て上げます。だから、仏教は科学ではありません。
仏説は個人で実践するものです。仏道の実践は一般的に修行と言います。修行を推薦するからと言って、仏教は宗教ではありません。修行は俗世間でもあることです。身体の能力を上げることに、俗世間では修行と言います。修行しなくても、死後、永遠不滅の天国に生まれ変われることを約束する宗教もあります。善行為をおこなうことで、死後、天界に生まれるのだと仏教でも語るが、仏教の目的はそれではありません。すべての宗教には、「人には永遠不滅の魂がある」という仮説が必要です。しかし、仏教は「一切現象は無我である」と説く。「無常ならざる現象はない」と説く。だから、仏教は宗教にもならないのです。あえて言えば、哲学にもなりません。哲学の世界では、人生について、存在について、さまざまなことを考えて概念を作るのです。人々はこうするべき、このように生きることが人間の道である、という話は哲学者の管轄外です。要するに、哲学者は、実践編を持っていないのです。仏教は人々に、正しい生き方を教えているのだという人もいます。しかし、仏教は「存続論」を語りません。たとえ幸せに生きる方法を教えても、「存在は苦である」と語るのです。というわけで、哲学でもありません。俗世間が持つどんなカテゴリーにも、仏教を入れることはできません。社会のどんな思考パターンにも属さないが、仏説には人類のあいだで柔軟に存続することが容易にできます。人々が悪に染まりすぎたら真理は誰にも分からなくなるので、仏教の存続もそこまでです。
宝物
人類にとって宝物は真理です。真理を理解できることは智慧と言います。すべてを捨てて去らなくてはいけない存在にとって、仏陀の説かれた真理は宝物になります。経典のなかで、たまに大胆な言葉があります。例えば、「仏陀は人間と神々の師匠です」「無上の調御丈夫です」「仏陀に等しい存在はいません」などです。仏説はその通りでないと言える生命は、人間・神々・梵天を含む存在のどこにもいません。『初転法輪経』では、このフレーズを嫌になるほど繰り返します。常識的な人間なら、絶対に使わない言葉をあえて強調して使うのです。なぜならば、仏陀は「衰えない真理」を語ったからです。人類の偉大なる発見が、お釈迦さまの覚りなのです。仏教徒は、その偉大なる出来事がウェーサーカ月の満月に起きたのだと語り継いできました。ウェーサーカ満月をお祝いして、皆喜びと幸福を体感するのです。私たちもまた、人類が苦しみを乗り越え、究極の安穏に達する方法が現れたこの日をお祝いして、幸福を体感しましょう。