パティパダー巻頭法話

No.327(2022年6月号)

不幸のしくみ

無知なこころは苦を目指す Ignorance controls the life

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

3. Cittavaggo
第三章 心[チッタ]の章

  1. Dunniggahassa lahuno
    Yatthakāmanipātino
    Cittassa damatho sadhu
    Cittaṃ dantaṃ sukhāvahaṃ
  • 心は、捉え難く、軽々とざわめき、
    欲するがままにおもむく。
    その心をおさめることは善いことである。
    心をおさめたならば、安楽をもたらす。
  1. Sududdasaṃ sunipuṇaṃ
    Yatthakāmanipātinaṃ
    Cittaṃ rakkhetha medhāvī
    Cittaṃ guttaṃ sukhāvahaṃ
  • 心は、極めて見難く、極めて微妙であり、
    欲するがままにおもむく。
    英知ある人は心を守れかし。
    心を守ったならば、安楽をもたらす。
  • 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より

支配者がいる

生命のいのちを全体的に支配する、支配者がいるのです。その権限を乗り越えることは、不可能に近い挑戦になります。仏道とは、この「いのちの支配者」の権限を破って自由になる道のりなのでです。一般宗教の世界では、いのちの支配者を「神」などの言葉で表しています。一方、支配者に逆らう存在は、「悪魔」という言葉で表現されます。宗教を信仰する人の仕事は、支配者の側に立って悪魔と戦うことです。

仏教の見方はそれと違います。すべての生命の支配者は、「こころ」と言います。生命はこころに管理されて、こころの司令で、こころが抱く願望を実現しようと頑張っているのです。すべての生命にはこころがあります。各生命のこころに強弱はあっても、こころにはボスがいません。仮に神が存在すると推測しても、その神にもこころがあるのです。こころの司令に逆らうことは、生命でいる限り不可能です。私たちが普段おこなっている、手を上げる・下げる、歩く、立つ、座る、横になる、寝る、話す、考える、見る、聴く、などのすべての行為は、こころの意志によって起きています。これぐらいは簡単に理解できるでしょう。しかし、意識に知らせることなく、おこなう働きもあるのです。それは、呼吸するなどの、身体の動きです。夢を例にすると理解しやすいと思います。誰にも、こんな夢を見たいと計画することはできません。夢は勝手に起こりますが、その裏にはこころの意志があります。どんな夢にするのかと、無意識のほうで決めるのです。こころが身体で活動を止めた瞬間が、その生命の「死」なのです。というわけで、すべての生命の支配者は、おのおのが持つこころです。幸福を目指す人は、外にあると推測される力に依存するのではなく、おのれのこころの働きを正すべきなのです。

見失った自由

人は幸福になりたいのに、その実現は難しいことになっています。私たちには、苦しみたくない、失敗したくない、非難されることをしたくない、明るく生きたい、などなどの計画がたくさんあります。しかし、何ひとつも希望どおりに進まないのです。客観的に調べてみれば、希望とは絶望で終わるものだと言えるでしょう。希望どおりに物事が動くのは、稀なことです。こころは支配者であり、私たちはその支配者の司令に従順に生きています。正しく言えば、こころの意志に逆らうことは不可能です。しかし、いのちは希望どおりに流れません。生きることは悩み苦しみ失敗などの連続です。生命には自分のいのちを希望どおりに管理できなくなっているので、「生命に自由はない」と言えます。生命を管理する力は、外に存在しないのです。こころは内に働いているものです。支配者であるこころに、何か問題がありそうです。自由にいのちを管理することができなくなっているのです。

こころが自由を失ったことには、二つの原因が考えられます。一つは、こころの病です。病んでいるこころに、自由な活動はできません。二番目は、因果法則です。こころであろうが物質であろうが、因果法則によって成り立っています。人が三メートルの高さまで飛ぼうとしたとしましょう。その目的に合わせて、こころで強い意志も作ります。しかし、三メートルの高さまで飛ぶのは不可能です。物理法則が邪魔をしているからです。その問題を解決するために、スプリングを仕込んだ棒(ポール)を使えば、三メートルの高さまで飛ぶことも可能になります。要するに、物事はこころで思っただけでは成り立たない、ということです。こころも、物質世界も、因果法則によって成り立つものです。俗世間では、物質を維持管理して、あらゆる機械をつくって、人間が楽に生きられるように努力しています。しかし、こころが失った自由を取り戻す努力には未着手なのです。こころが正しく働くように育て上げて、失った自由を取り戻そうとすると、またいろいろな問題にぶつかるのです。

捉え難い

そこで、私たちは物質的な身体と区別して、こころの働きを明確に捉えなくてはいけないのです。こころの働きを区別してもらわないと、こころを治すこともできないからです。しかし、人は何をわかっても、自分のこころのことはわからないのです。仏教を学んでない人々は、自分にこころがあることすら知らないほどです。一般人は、自分の感情を指して「こころ」と言っています。知識とこころ(感情)は区別されますが、知識もまた、こころの働きです。こころが物事を認識するのです。ですから、こころを区別する仕事も、こころが行わなくてはいけないのです。ものを切ることは包丁の仕事ですが、包丁に自分を切ることはできないような感じです。お釈迦さまは、こころを捉える方法を詳しく説かれました。当然、その教えは膨大な量になったのです。

逃げる

自分のこころを観察することは、方法さえ知っているならば簡単な作業に見えます。

「あなたは今、何をやっているのでしょうか?」

「私は今、テレビを観ています。」

この会話を分析してみましょう。テレビを観ているとは、その時、その人のこころがやっている仕事なのです。しかし、相手に「私は今、テレビを観ています」と答える瞬間で、テレビを観ていません。その思考の流れを中断しているのです。ですから、「私は今、テレビを観ていました」と、過去形で答えなくてはいけない。こころが何をやったのかと気づくことはできますが、何かをやっている時は、気づくことができないのです。一般的に、「今、考えている」「今、悩んでいる」「今、興奮している」「今、感動している」などの言葉を使いますが、本当は、こころがそれらの仕事をおこなっている現在に気づくことはできません。こころは一つの瞬間に、一つの仕事(認識)しかしないのです。同時に二つ、三つの認識が起きないとは、仏教の立場です。テレビを観る時、見る認識と、聴く認識が、同時に起きているわけではないのです。見る情報を認識して、聴く情報を認識して、それを意で合成して、「テレビを観た」という認識結果をつくっているに過ぎません。「今の瞬間のこころ」を観ようとしても、一瞬前の過去の認識を観たことになるだけです。人には何年前のことも思い出せますが、それはこころの成長に繋がらないのです。仏道の実践とは、一瞬前のこころを確認できるように集中力を上げることです。その方法は、一般的に「今に気づく」と言われますが、精密に言えば「一瞬前の過去に気づく」ことなのです。ですから、こころが逃げることも、捉え難いことも、こころの法則になっているのです。

仏道の実践者が経験する、もう一つのこころの「逃げ」があります。こころに怒りが起きたとしましょう。実践者は、それを「怒り、怒り」と確認します。結果として、怒りが消えるのです。怒りを消す目的で「怒り、怒り」と確認すると、怒りが消えずにかえって続いてしまう場合もあります。基本的に、怒り、嫉妬、憎しみ、落ち込み、怠け、舞い上がり、などのネガティブ感情を観察すると、こころはすぐ変身して、いい顔を見せようとします。本来の状況を隠そうとするのです。本来のこころは、無明と渇愛の衝動で活動しています。生命を生かす仕事も、認識することも、こころの仕事です。その仕事をする衝動は、無明と渇愛です。この衝動を徹底的に隠そうとするのです。そういうわけで、人に怒り・嫉妬などの感情の確認はできても、無明と渇愛の確認は簡単ではないのです。

瞬時に変わる

こころとは、瞬時に変わる性質も持っています。いのちを管理するために、瞬間で変身する性格が必要です。瞬間瞬間でこころが変わらなければ、生活は成り立たないのです。時々、感情が割り込んで、同じ認識を連続させる場合があります。料理している時、かかってきた電話に出たとします。感動するような情報を知って興奮していると、我を忘れて時間が経ってしまう。台所で火事が起きる可能性もあります。また、人から批判を受けて、落ち込んだ感情を認識し続けると、その人の人生はダメになってしまうのです。こころが瞬間に変身することは普通で、いのちを無事に維持管理するために必要なことです。こころが光の速度よりも速く生滅するからこそ、生命は普通に生きていられるのです。もし、一つの認識がこびりついて、ずーっとリピートするようになったら、普通に生きられなくなります。皆さんにも知られている例はPTSDです。

こころ(認識)は光の速度よりも速く変身するので、私たちは自分自身が何者かとわからなくなっています。人に優しくするからと言って、優しい人間でもない。人に怒ったからと言って、怒りに狂った人間でもない。善いことをしたからと言って、善人でもない。悪いことをしたからと言って、悪人でもない。こころは瞬間瞬間、変身するから当てにならないのです。人には、固定した性格などありません。

それでも、困ることがあります。私たちはこころをしっかり捉えて、こころの病を無くして、幸福に達したいのです。瞬間に変身するこころをどうやって育てればいいのでしょうか? それには、こころのことを知り尽くしたお釈迦さまの説かれた、こころを育てるプログラムを実行しなくてはいけないのです。ブッダのプログラムを実行して、こころを育てたとしても、瞬時に変身するこころの性質はそのままです。しかし、ブッダのプログラムを完成した人のこころは、安穏の方向にしか変身しないのです。

お調子者

こころはお調子者です。私たちの計画・プログラムなどには、素直に従わないのです。子供に宿題をやらせようとして、匙を投げるようなものです。修行者の場合も同じなのです。修行しようと思って指導を受けても、人はつい修行以外のことをやりたがります。修行しようと思いたっても、すぐ眠くなったり、やる気を失ったり、人と喋りたくなったり、携帯を見たくなったりしてしまうのです。修行に限らず、勉強すること、研究すること、仕事をすることなどなど、人は必要なことに限って、スムーズに進められないものです。サボりたくなるし、別なことを途中でやりたくなったりもします。こころを育てようとする計画を立てると、それ以外のことなら何でもやりたくなります。考えてみると、これって変ですね。善いことだから、素直にやればいいのに。これもこころの法則なのです。こころが「自分の好きなこと」を勝手に決めているのです。こころにとっては、貪瞋痴の感情を育てることが、やりたいことなのです。好きなものを追うこと、怒ること、怠けることなどは頼まれなくても進んでやります。これもこころの性質です。だからこそ、こころを育てるプログラムは難しく感じるのです。

人にとって善いこと、幸福をもたらすことは難しいと、みんな感じているのです。平和を保つよりは、戦争を惹き起こすことのほうが簡単です。人と仲良くするよりは、虐めることのほうが簡単です。評価するよりは、批判することのほうが簡単です。善い人間になるよりは、だらしない人間になることのほうが簡単です。実のところ、幸福をもたらす行為は決して難しくないのです。悪いことをするよりもずっと簡単です。平和と戦争という二つを比較してみましょう。戦争はたいへん悲惨で酷いことです。それに比べれば、平和を保つことは至って単純でしょう。幸福になることも、至って単純なことなのです。なのに、人間の社会は不幸と苦しみが支配している。人は難しくても悪いことをおこなうとするです。それも、こころの性質です。こころはお調子者で、貪瞋痴の感情が増す方向へと仕事をしたがっています。こころは不幸になりたいのです。ですから、生きることは苦になっています。ただ、無明と渇愛という二つを隠しているから、不幸になりたがっているという実感はありません。要するに、「幸福になりたい」が本心になっていないのです。

それでも精進する

こころが支配者であることを理解しましょう。生きるとはこころの認識作業であると理解しましょう。こころに問題があることも理解しましょう。問題があるから、生きることは苦の連続になっていると理解しましょう。そのこころを制御すれば、育てれば、幸福に達するのです。しかし、こころは捉え難いし(dunniggahassa)、瞬時に変身するし(lahuno)、好きなことしかやらないお調子者でもあるのです(yatthakāmanipātino)。それでも人は、精進してこころを育てるべきです(cittassa
damatho sadhu)。こころを制御した人が、幸福に達するのです(cittaṃ dantaṃ sukhāvahaṃ)。

こころは我儘

こころを直接、観察しようとしても、決して簡単な仕事にはなりません。こころは発見し難いものです(sududdasaṃ)。こころが光の速度より速く回転しないと、生きることは成り立ちません。こころのエネルギーは、私たちが知っている電磁波と違う働きなので、光の速度に拘束されないのです。人の認識能力を超えて、こころは微妙に働きます(sunipuṇaṃ)。そのうえ、こころは人の計画に素直に従わないのです。こころはお調子者で、貪瞋痴の感情をつくることが本心になっています(yatthakāmanipātinaṃ)。理性のある人とは、こころの性質を理解した人のことです。理性のある人は、こころを我儘の方向へ流されないように守ります(cittaṃ
rakkhetha medhāvī)。こころを守ることに成功した人は、安らぎに達することができるのです(cittaṃ guttaṃ sukhāvahaṃ)。

今回のポイント

  • 生命の支配者はこころです
  • 幸不幸はこころが決めます
  • こころは本来、汚れています
  • 支配者が汚れているから、生きることは苦になります
  • こころを育てることは難しく感じます
  • 安楽を目指す人は、こころを調教します