No.329(2022年8月号)
智慧が開かれる条件
うかつに無知を持続する Wisdom surpasses knowledge
今月の巻頭偈
3. Cittavaggo
第三章 心[チッタ]の章
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Anavaṭṭhitacittassa
Saddhammaṃ avijānato
Pariplavapasādassa
Paññā na paripūrat
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心が安住することなく、
正しい真理を知らず、
信念が揺らぐならば、※
さとりの知慧は全からず。
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Anavassutacittassa
Ananvāhatacetaso
Puññapāpapahīnassa
Natthi jāgarato bhayaṃ
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心が煩悩に汚されることなく、
おもいが乱れることなく、
善悪のはからいを捨てて、
目ざめている人には、何も恐れることが無い。
- 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より
※印の行のみスマナサーラ長老による改訳
無知の持続
無知を破り智慧を開発することをブッダは勧めています。「無知」という概念は誰でも嫌がります。その代わりに「智慧」を欲しがるのです。もしそうであれば、無知を破ることは簡単であるはずですし、誰にでも達成することができることにもなるでしょう。しかし、現実は違います。無知を破って、智慧に達することができる人は稀なのです。その理由は、人々が持っている無知と智慧の理解によります。人々はものごとを俗世間の次元で考えます。眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法というデータを自分なりに捏造して、「知識」として扱うのです。俗世間では、知識というものに弱い人、また世事について正しく瞬時に判断できない人を指して、無知だと思っています。世間の出来事をよく知っている人、世間のものごとに対して瞬時に判断できる人を指して、智慧があると思っているのです。要するに、「知識を智慧だと勘違いしている」ということです。知識とは、つねに変化して新しい知識に更新されるものです。また、一人の人生で習得できる知識にもリミットがあるのです。いくら知識を得ても、結果は「知っていることはわずかで、知らないものは膨大」という結果になります。
ブッダは、俗世間的な知識も「無知」の範疇に入れているのです。ですから、知識を追う人は、無知を持続しているのです。智慧とは、現象を如実に観察して真理を発見することです。それは、言葉遊びでも知識の曲芸でもありません。ダンマパダには、多数ある「無知を持続する原因」について、集約して説かれた偈が記録されています。今月はその偈を参考にしてみましょう。
不安定なこころ
不安定とは、こころの特色です。こころは貪瞋痴の刺激で活動しています。こころは貪瞋痴に誘導されて認識し続けていますが、ものごとのありさまを発見しようという目的は無いのです。眼は美しいものを見ようとします。眼に触れたものが欲の感情をじゅうぶんに惹き起こさない場合は、ものごとを弄って、管理して、自分好みのものに変えるのです。一輪の花では美しさが足らない場合は、複数の花を活けてみるのです。耳に触れる音についても、同じことをします。わざわざと音楽、歌などの音を作り出して、感情に耽るのです。自然のものを舌で味わうだけでは飽き足らず、複雑な料理文化を作り出すのです。世の中には、香りの文化もあります。身体の感覚を楽しませたいがために、家、家具、車などの道具を作るのです。ふつうの知識の流れでは、それほど感情を掻き立てられないので、物語や文学作品を作ってみるのです。このように感情に誘導されて生きていても、決して人は満足できないのです。そういうわけで、人は死ぬまで、感情に誘導されて、刺激を求めて、生きているはめになります。どんなに長く生きても、人は精神的に成長しないのです。無知を持続することに、精進しているだけです。
その理由は感情にあります。欲、怒り、嫉妬、憎しみ、怨み、落ち込み、自我、高慢などなどの感情に誘導されて、こころは色声香味触法の間で走り回っているのです。決して、休むことはしないのです。こころに落ち着く余裕はありません。感情が変わるたびに、こころも変動しなくてはいけないのです。こころは落ち着くことに不慣れです。揺らぐこと、暴れること、興奮することに慣れきってしまっているのです。ですから、一つの対象を落ち着いて観察して、現象の本来のありさまを発見することができないのです。人が無知を持続してしまう原因は、こころが安住しないことにあります。
知識障害
俗世間で安全に生き続けるために、知識が必要です。しかし、知識はつねに変化するものです。昨日得た知識が、今日になって間違いだったとわかることもしばしばです。変化する知識は、事実ではありません。一方、事実を知識として使う場合、その知識は変わらないのです。「地球は自転する」とは、我々にとって知識です。しかし、それは事実でもあります。ですから、将来的にも「地球は自転するとは嘘で、実は地球は停止している」という知識にはならないのです。
感情に誘導されて生きている生命は、「知識への執着」という大きな間違いを犯すのです。自分の知識に執着すると、他人の知識を批判したくなります。自分の知識と異なる知識を掲げる人を敵視します。そこで争いが起こるのです。自分の知識が間違っていたと発見すると、落ち込みます。その場その場で相対的に正しいと思うことはできても、知識は事実ではありません。つねに変化し続けるという性質を持つ、知識に執着することで、私たちは事実・真理を発見するチャンスを失ってしまいます。知識に執着するとは、「智慧の扉に鍵をかけて無知を持続すること」なのです。
(仏)法の助け
ブッダはありのままの真理を発見したのです。それは無知を破って智慧を完成したことであるとも言えます。無知の世界が作っている知識・概念・理論を使って、真理について発言することはできません。しかし、世間では事実も知識として扱って、言葉で発言することはあります。世に事実を語る言葉がたくさんあります。火に触ったら火傷する、希望を失ったら悲しくなる、地球は自転する、などなどの言葉です。事実を言葉で表現できるから、一切現象のありのままの状態も言葉で発言することが可能になります。そこで、世に仏法というものが現れたのです。仏法は人々に真理を言葉で語ることなので、仏法にsaddhamma(正法)と言います。世に関する、生命に関する真理のすべてを、お釈迦さまがsaddhammaとして説かれたのです。
言葉は知識でもあります。だから、言葉に意味があるのです。言葉を駆使して真理を語ったならば、その言葉はつねに変化する知識と違うものになります。仏法を学ぶことで、人に真理のありさまを知識として理解することができるのです。その知識は、世に存在する知識とは違います。「生きることは苦である」とは、仏法であり、真理です。「命は尊い」とは、世間の考えです。なぜ尊いのかと理由を言わないので、人の俗世間的な感情に過ぎないのです。この場合、仏法の真理と俗世間の真理は正反対になります。仏法は、俗世間的な次元を乗り越える努力に対して「尊い」という形容詞を使うのです。仏法を学ぶ人は、俗世間の知識を学ぶのではなく、真理のありさまを学んでいるのです。その人は、無知の持続を一旦停止しているのです。そういうわけで、無知を破って智慧を開発したいと思う人にとって、仏法は助けになります。無知を破りたいならば、まず仏法を学ぶことです。仏法を学ばない人は、無知を持続します。
信念
無明を破りたい、智慧を開きたい、真理を発見したい、と思うならば、それに適した努力を続けなくてはいけないのです。仏法を学んで理解するならば、真理を発見したいという意欲が生じます。その人は、ありのままに観察するという修行を始めます。しかし、こころは無始なる過去から感情に抑えられて、感情に誘導されて、感情をさらに惹き起こす刺激を作るために認識作業をしてきたのです。人の信念(真理を発見したいという意欲)が、揺らぐ、弱いものであるならば、簡単に感情の誘惑に負けてしまます。たとえ仏法を学んでも、信念が弱い人に、信念が揺らぐ人に、真理を発見することはできません。そのような人も、無知を持続します。
無知を破る条件
こころは感情に支配されて、誘導されています。感情を惹き起こすために必要な刺激を求めて、認識作業をしているのです。人が作った知識世界は、真理を発見する目的ではなく、感情を惹き起こす刺激を求めて現れたものです。宇宙のことを研究する人々も、発見に感動するのです。その発見を発表して、一般人にも感動を与えるのです。それだけではありません。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れるたびに、認識が起きて貪瞋痴の感情を惹き起こすのです。それは、「感情(煩悩)がこころに漏れる」というフレーズで表現されます。しかしそれは、「外の世界から貪瞋痴の煩悩が自分を襲っている」という意味ではないのです。咲いている花は、それを鑑賞する人になんのメッセージも送っていません。花を鑑賞する人のこころに、欲の感情が起きるのです。色声香味触法の情報が触れることは、管理できません。眼がある人には見えるのです。しかし、仏道を実践する人は、眼にものが見えても、それを認識しても、煩悩だけは起きないように気をつけます。これは「気づきの実践」とも言われます。こころに色声香味触法のデータが触れても、感情が漏れないように気をつける人に限って、智慧を開発することができるのです。
ゆるやかなこころ
こころは情報に激しく反応します。眼耳鼻舌身意に強い刺激が起きない場合は、怠けて睡眠状態に陥って、無知を強化します。一般人も、こころが怠けることを嫌がりますが、その代わりに、激しい刺激を求めるのです。刺激によって、こころは激しい波を起こします。たとえば、怒りの激しい波が起きたとしましょう。怒りを惹き起こした対象が無くなっても、怒りの波は消えません。長く引きずるのです。どんな煩悩も、激しい波を作ったならば、収まるまでは時間がかかります。この状態は、真理を発見する人にとって危険です。次から次へと激しい感情の波が現れる人に、真理を発見して智慧を開発することはとても難しいです。仏法を理解して納得して、真理を自ら発見したいと思う人は、こころに起こる激しい感情の波は危険だと理解しなくてはいけないのです。その人は、何を見ても、何を聴いても、身体にどんな感覚が起きても、落ち着いていることを実践します。こころが緩やかに流れることに挑戦します。無知を破るためには、この条件も必要なのです。
判断を避ける
これは、かなり難しい条件です。私たちは、ものごとを認識するたびに、善悪・よしあしの判断をします。この判断は感情の都合によって起きるものであって、真理ではありません。ある時、良いと判断した出来事も、別な時には悪いと判断するのです。ある時には好きな人が、ある時には嫌な人になります。そのときどきの瞬間の感情に合わせて、認識する対象に対して善悪・よしあしの判断をし続けます。その判断は瞬時に起こるのです。良いと判断する対象にたいして、欲の感情が起こります。悪いと判断する対象にたいして、怒りの感情が起こります。明確な判断ができない場合は、無知の感情が起こります。人は自分がくだした判断に対して執着を持つものです。その執着によって、無知の闇の中にさまようことになるのです。
認識する対象に判断をくだすことは正しくないのです。判断とは、自分の主観であり、煩悩の刺激でもあります。咲いている花は、善でも悪でもないのです。良いものでも悪いものでもないのです。ただ、そこに花という概念があるだけです。色声香味触法の情報に対して、善悪判断を行わないで認識できるように訓練しなくてはいけないのです。真理を発見する仕事は、俗世間の人々が行わないことです。ですから、それは「宗教の世界」の話になります。宗教の世界は、善悪判断に厳しいのです。嘘をつくのは悪で、事実を語るのは善です。怨みは悪で、優しさは善です。このように、なんでも善悪にわけて、善をおこなうことに、悪をやめることに、精進します。しかし、善悪に引っかかると、真理を発見することが後回しになります。善悪もまた、人の執着の対象になります。無知を破って智慧を開くためには、色声香味触法に対して判断をくだす悪い癖をやめなくてはいけないのです。
安穏の境地
対象を判断することをやめて、ありのままに一切の現象を観察する人は、「すべては無常・苦・無我である」と発見します。「いかなる現象も執着に値しない」と発見します。こころから執着する癖が消えます。執着が消えたら、こころに煩悩の波が起きません。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れて、それぞれに認識が起こるが、欲・怒り・嫉妬・憎しみなどの煩悩はなにも起きません。煩悩の指図で認識している人々は、「感情に溺れて寝ているのだ」と言うのです。真理を発見した人に、「目覚めた人」と言うのです。寝ている人にはあらゆる恐怖感があるが、目覚めた人になんの恐怖感も起きません。こころは安穏の境地に達しているのです。これが智慧を開発した状態です。
今回のポイント
- 人は無知を持続します
- 知識も無知の範疇です
- 仏法とは知識で真理を語ることです
- ものごとを判断するとこころが汚れます
- 判断の次元を超えた人は安穏に達します