No.332(2022年11月号)
生きる前に死ぬ
五欲に依存すると生きる暇はない Death before life
今月の巻頭偈
4. Cittavaggo
第四章 花の章
-
Pupphāni heva pacinantaṃ
Byāsattamanasaṃ naraṃ
Suttaṃ gāmaṃ mahoghova
Maccu ādāya gacchati
-
花を摘[つ]むのに
夢中になっている人を、
死がさらって行くように、
眠っている村を、洪水が流して行くように、
-
Pupphāni heva pacinantaṃ
Byāsattamanasaṃ naraṃ
Atittaññeva kāmesu
Antako kurute vasaṃ
-
花を摘[つ]むのに
夢中になっている人が、
未だ望みを果さないうちに、
死神がかれを征服する。
- 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より
欲に酔っている
酒・麻薬などで酔って不幸になることは、一般的な知識です。ところが、世間は何かに酔うことをそれほど悪いと思っていないのです。酒・麻薬などに依存して、人間として破滅へ向かうのが危険であることは、誰もが認める事実です。しかし、人は音楽・踊りなどにも酔ってしまうことがあります。たいていは、ある時期になったら諦めるので、依存症になるまでは進まないのです。現代では、ソーシャルメディア依存、ゲーム依存などが新たに現れています。これらの場合も、いっとき酔ってしまって興奮するのは構わないけれど、依存症になってしまったら人生の成長は終わりです。人は何に酔って依存するのか、というリストを作ろうとしても、完結させることは不可能です。なぜならば、旅行に依存することや、読書に依存することもあり得るからです。仏教は、依存する対象の具体的リストを作る代わりに、問題の根本を語るのですå。問題の根本とは、「欲に依存すること」です。ついでに、「怒りに依存すること」もあり得ます。
五欲
人々は五欲に依存しています。五欲から離れて生きることは基本的には成り立ちません。生きている人であれば、五欲に頼らざるを得ないのです。しかし、五欲のみを追い求める生き方は、それ自体が危険な依存症です。ところで、五欲とはなんでしょうか? それは、眼耳鼻舌身に触れる色声香味触という物質の流れです。眼耳鼻舌身が活動していることは、すなわち生きていることになります。眼耳鼻舌身が活動するためには、色声香味触に触れる必要があります。人は意識してもしなくても、つねに五欲に触れているのです。私たちにとって、生きる活動とは、よりよい五欲を探し求めることになっています。ここまでは、自然の流れだとしておきましょう。
危機の発見
五欲に触れて生きている、という事実には誰も注意しないので、私たちはいとも簡単に危機に遭遇するのです。眼耳鼻舌身に色声香味触が触れたら、触れたことを感じます。人はこの感覚を苦・楽・不苦不楽に分けて、区別するのです。この出来事は瞬時に起こるので、ヴィパッサナーの実践をする人以外、発見することはできません。また瞬時に、楽の感覚に対しては欲、苦の感覚に対しては怒り、不苦不楽の感覚に対しては痴を惹き起こします。ふつうの人間に、これを管理することすらできないのです。貪瞋痴とは、感情であり煩悩なのです。感覚が生まれたところで、自我の錯覚も現れます。自我の錯覚が、貪瞋痴の感情をまとめるのです。それから、自我が求める価値ある感情と、避けるべき感情とに、刺激を区別します。それから、自我が評価する感情を追い求めることにします。それが、人の生き方そのものになります。どんな生命も、よりよい感情・刺激を求めて生きているのです。とはいえ、感情は主観的なものなので、追い求める刺激は人によって変わります。
依存症
自我の錯覚が現れたら、その錯覚が人生の主導権を握ります。生きることは、刺激と感情を追い求める作業になるのです。そこで、好みの刺激を求めること、嫌な刺激を避けること、という二つの働きが現れます。実のところ、人は五欲には依存していないのです。そうではなくて、五欲から現れる刺激・感情に依存しているのです。一つの例で考えてみましょう。人が誰かを好きになるとします。よくある話でしょう。その人は、好きになった相手から、自分好みの感情を作りたいのです。その相手との関係で起こる刺激によって好みの感情が現れるならば、相手と仲良くします。しかし、人は変わるものです。相手が好みの刺激ではなく、嫌な刺激を与えるようになったとしましょう。たとえば、自分のことを批判したり、軽視したり、怒ったりしたとします。あるいは、自分の頼みごとを断ってきたとします。そうなると、かつて好きになった相手から、嫌な刺激しか現れなくなります。そうすると、いとも簡単にその人から離れて、その相手を捨てるのです。それから、自分好みの刺激を与えてくれる、別の相手を探しはじめます。この例で発見できる事実はなんでしょうか? 人は決して、色声香味触に執着しているわけではないのです。色声香味触から現れる好みの刺激に、好みの感情に、執着しているのです。というわけで、私たちが生きるうえで危機になるのは、自我の錯覚と貪瞋痴の感情なのです。
死ぬまで忙しい
死ぬまで、人は生きています。「生きている」とは、すなわち貪瞋痴の感情を惹き起こす刺激を求めることになります。その刺激は、色声香味触に触れることから現れるのです。一切の現象は無常です。しかし、人はその事実に目覚めないのです。刺激によって欲の感情が起きたら、楽しくなります。でも、その感情は簡単に消えてしまう。また、その刺激を作らなくてはいけないのです。「無常」とは一切現象の変わらない法則なので、刺激を求めて努力する生き方には終わりはありません。ですから、私たちは死ぬまで忙しいのです。
人が老いると、好ましい刺激よりは嫌な刺激のほうが増えます。生きることはますます苦しくなります。そこで、嫌な刺激を避けることに努力するのです。とはいえ、老いも法則であり、変わらない事実です。そういうわけで、老いていく人の人生もまた、嫌な刺激を避けるために超忙しくなってしまうのです。
みじめな忙しさ
俗世間的には、忙しいことをポジティブに評価しているようです。どんどん仕事が入ること、商売繁盛することなどを考えて、忙しいことを「ありがたい」と判断するのです。人がやっているすべての行為は、生きているからこそ成り立つものです。これまで考察してきたように、生きるとは、良い刺激を求めることと、嫌な刺激を避けることです。これは終わりのない作業です。人は刺激の奴隷なのです。刺激に支配され、貪瞋痴に指図されて生きることほど、みじめな生き方はありません。感情の奴隷である限り、人に自由はないのです。
思考・妄想の罠
色声香味触にふれること以外にも、人は思考・妄想もするのです。思考・妄想のテーマは、「いかにして好ましい刺激を得られるのか? いかにして嫌な刺激を避けられるのか?」です。思考・妄想は、ウィルスのように増殖しながら続いていきます。欲の思考が起きたら、あっという間に欲の感情が増えてしまうのです。しかし、色声香味触にふれていないので、満たされない、観念的な欲になります。怒りの思考・妄想は、怒りの感情を耐え難いところまで膨張させます。色声香味触によって得られるはずの満足感さえも得られなくなります。例を出して説明します。人の手に何か食べるものがあるとしましょう。その人は、自分好みの食べ物はなんなのかと思考したり、妄想したりします。その結果、自分の手にある食べ物はなんの価値もない、つまらないものになってしまいます。妄想の沼に落ちることで、その食べ物をたべても、食べ物から得るはずの満足感が得られなくなるのです。それどころか、「自分は不幸でみじめな存在である」と落ち込むこともあり得ます。思考・妄想は、満たされない貪瞋痴の感情を耐え難いところまで膨張させます。思考・妄想によって、人は深刻な精神的ダメージを受けるのです。
スタート地点で倒れる
ゴールまで走れば勝利を得られるのに、私たちの人生はスタート地点で転倒しているのです。せっかく生まれたのですから、私たちは、「生きるとはどういうことか?」「善悪はどのようなものか?」「どのように生きれば理性的なのか?」「真理とは何か?」などについて考察する必要があります。自分が感情の奴隷になっていることを発見して、自由になる生き方をしなくてはいけないのです。自由に達したならら、それは人生のゴールです。しかし、人は色声香味触を獲得することに必死です。色声香味触から、たまに良い刺激が生まれたとしても、現象は無常ですから、良い刺激は跡形もなく消えるのです。そうすると、新たな刺激を求めなくてはいけなくなります。それだけでも忙しいのに、人は思考・妄想して、貪瞋痴の感情を暴走させているのです。人に思考・妄想を一旦停止させることすらできなくなっています。そういうわけで、どんな人も人生のゴールを目指して走るどころか、スタート地点で倒れたまま死んでしまうはめに陥っているのです。
ブッダの言葉
ブッダがこの状況を美しい偈で詠っています。人は花を摘むために夢中になっているのだ、と。「花を摘む」とは、好みの色声香味触を探し求めることです。「あの花はもっときれいだ」という感じで、より良い刺激を求めることに夢中なのです。しかし、時間とは止まらないものです。夢中になっているあいだに時間が過ぎて、死んでしまいます。自己観察する暇がないのです。一つのたとえがあります。村の人々が夜、気持ちよく、ぐっすり寝ていると、山のほうで雨が降って、洪水が流れてきて村をまるごと押し流してしまうのです。皆、洪水だ、と気づく以前に死んでしまう。そのように、人は五欲を求めることで夢中になっているがために、得るべきものを何も得られないうちに、達するべきことに達することもできず、あっけなく死んでしまうのです。これは、五欲に夢中になってはならない、という戒めです。
満たされる前に
人は花を摘むことに夢中になっています。しかし、欲とは満たされるものではありません。それが法則です。良い刺激を得ても、満たされる前にその刺激は消えます。たとえを出しましょう。一日なにも食べていない、空腹に苦しんでいる人がいます。その人の前に、ご馳走を盛った皿を置きます。その人が喜んで、一口を手に取った瞬間で、ご馳走を盛った皿は消えてしまうのです。そのように、我々は人生で満足に達する以前に死んでしまうのです。ですから、人は直ちに自己観察をして、五欲に頼っていることと、感情に依存して奴隷になっていることと、すべては無常で瞬間的に流れて消えるので執着に値しないことを発見しなくてはいけないのです。こころが執着から離れることが、命のゴールです。
今回のポイント
- 五欲に頼ることで命が成り立つ
- 五欲ではなく、人は感情に執着する
- 刺激を求めても、満たされることはない
- 感情への執着を捨てることで自由に達する



