パティパダー巻頭法話

No.334(2023年1月号)

観る人は闇を破る

自分を観る人が解脱に達する Look at yourself and break the darkness

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

4. Cittavaggo
第四章 花の章

  1. Na paresaṃ vilomāni
    Na paresaṃ katākataṃ
    Attanova avekkheyya
    Katāni akatāni ca
  • 他人のすること、しないこと
    他人の過失を観[み]るべきでない
    自分のすること、しないこと
    ただこれのみを観るがよい
  • 日本語訳:片山一良『ダンマパダ全詩解説』大蔵出版より

外を観る

世にある知識・科学などのすべては、「外を観る」ことの結果です。外のみを観ているか曖昧な知識世界と言えば、哲学があります。しかし、哲学者が道徳・倫理などを論じる場合も、「人の生き方」を観察して論を組み立てています。哲学者も外の世界を観ているのです。かつて、人類は「地球は平らだ」と思っていました。もしも、地球から離れて観ることができたならば、別な考えに変わるでしょう。昔の人は、水平線のところまで周囲を見渡しても、平らにしか観えなかったのです。外界をしっかりと観察するならば、さまざまな真理を発見できると、知識人は皆思っています。科学世界では、主観に頼ることは禁止です。ここで問いが生まれます。果たして「外を観る」だけで、真理・事実を発見できるのでしょうか?

視野の問題

「地球は平らである」という見解について、もう少し考えてみましょう。当時の人々は、決して嘘をついたわけではありません。彼らにとっての事実を語っただけです。しかし、語られた事実は、残念ながら事実ではなかったのです。これは「視野」の問題です。人類が視野を拡げたことによって、「地球は平らではない」とわかったのです。人々は真剣に外を観て、事実を発見しようとします。誰だって、わざわざ間違ったことを発表したくはないでしょう。それでも、私たちは視野の問題から自由になれないのです。眼で空[そら]を観れば、無数の星々や銀河系などが観えます。それから、望遠鏡で観るのです。肉眼で観たときと比べて、観えるものが変わります。望遠鏡の性能をギリギリまで上げていくと、それに従って観える範囲が拡大するし、発見される事実も変わるのです。それでも視野の問題がつきまとうので、巨大な望遠鏡を宇宙に打ち上げて、宇宙空間に固定することになりました。そのおかげで、また別な世界が観えてくるのです。さらに望遠鏡の性能を上げて、可視光線のデータを取る望遠鏡、赤外線など可視光線以外のデータを取る望遠鏡も開発しました。それぞれの機械によって、観える世界が異なります。今は、それらの観測機器のデータをまとめて合成して、新しい宇宙論を作ろうとしているのです。

たとえ話が長くなりましたが、言いたいポイントは、「外を観るときは〈視野の範囲〉というハンディが割り込むのだ」という事実です。科学者は明確に宇宙を知りたがっていますが、どんな機械を作っても光速を乗り越えられない、というハンディがつきまとうのです。話のスケールを小さくしてみましょう。我々は自分なりに、外を観てさまざまな判断をしています。その判断は、はたして当てになるでしょうか?

主観というハンディ

「山は美しい」「谷は心地よい」などの客観的にみえる判断にも、観察する人の主観が入っています。主観は極限に個人の性質です。二人が似通った主観を持つことはあるかも知れませんが、まったく同じ主観は持てないのです。我々は勉強する時、たくさんの人々の主観を学んでいます。主観が似ているならば事実として認めるし、似ていない主観がある場合は「○○学者は別な意見を持っているのだ」と言うのです。主観のハンディを破ることができるのは、解脱に達した聖者たちだけです。解脱者は「外を観る」ことをやめて、「外から観る」ことをするのです。(宇宙から地球を観るような感じです。)

主観というハンディには、たくさんの仲間がいます。まずは感情です。仏教的に言えば、一五〇〇種類の感情があるのです。一般人にとって、「感情がない瞬間」はほとんど存在しません。ものごとを観察するたびに、主観に感情という色眼鏡をかけるのです。人が人を雇うために面接をするケースを考えましょう。相手に才能があるか否かを客観的に判断することは、不可能です。面接官が疲れている。個人的な問題で激しく悩んでいる。相手を感情的に気に入る、逆に嫌な気持ちになる。面接官が不機嫌である。面接官が激怒している。などなどの状況によって、判断が変わるのです。それは私たちにとって日常茶飯のことです。どんな人でも、生きている上でさまざまなことを観て判断しなくてはいけないにも関わらず、誰も客観的で正しい判断はできないのです。

知識、経験、文化、信仰、年齢、職業なども、主観に加えるハンディになります。どれも良さそうに観えるものですが、事実を判断するときはバイアスになってしまうのです。日本人がアメリカ人を観るときと、アメリカ人が日本人を観るとき、それぞれ違うバイアスが入ります。単純に、人が人を観ることにはならないのです。

道徳の世界

道徳について、知識人、哲学者、宗教家、思想家、またその他の人々が語っているのです。すべて一つのフレーズにまとめると、「汝、○○をやるなかれ」という感じになります。やるべきことについても「汝、○○をするべし」なのです。皆、真剣真面目に語っていると思いますが、外を観察していることに変わりはありません。誰かが誰かとケンカしているとしましょう。そこで、敗者の気持ちを考えて、「ケンカなんかするべきではない」と語ることができます。一方、もし敗者が相手に害を与えていたとわかったら、「徹底的に、不正を糺[ただ]すべきだ」と語ることもできるのです。ここで、ケンカに反対するか、賛成するか、という二つの立場が現れます。私たちは、どちらの肩を持つべきでしょうか? あるいは両方の意見を認めるべきでしょうか? または両方の意見を却下するべきでしょうか? このような問いに、事実・真理だと言える答えは見出だせないのです。もし答えを出したならば、それはその人の主観であり、感想になります。外を観るときは、視野の問題のみならず、感情のバイアスが割り込んだ主観の問題からも逃れ難いのです。

仏教の道徳

仏教の道徳は、正等覚者であるブッダによって語られた教えです。正等覚者とは、視野の問題を解決した方であり、感情を根絶した方なのです。ゆえに、ものごとをありのままに観ることができます。決して、「あるべきまま」では無いのです。道徳を語る人々は、「あるべき」状況を指し示します。ブッダは因果法則を説いています。ある原因が、ある決まった結果を出す、という教えです。すべての生命は幸福を目指していて、幸福を目指して行為をしているのです。それなら、自分が行う行為が自分に多かれ少なかれ幸福をもたらさなくてはいけないはずです。

ブッダは、因果法則にのっとって、どのような行為が苦をもたらすか、どのような行為が楽・幸福をもたらすのかと、ということを語られました。その場合も、「汝、○○をやるなかれ」「汝、○○をするべし」とは仰らないのです。生きるということは、個人が行なう行為です。つまり「自業」なのです。ですから、ブッダに言えるのは、せいぜい「○○を戒めたほうがよいのではないか?」「○○を行なったほうがよいのではないか?」というふうに、アドバイスすること、提案することだけです。悪を犯すことも善を行なうことも、個人の自由です。不幸になったところで、四方八方に文句を言っても意味はありません。神様にとっても、悪魔にとっても、それは管轄外なのです。

「外を観るなかれ」

これは道徳編の話です。知識を得たい人々は、必ず外を観ようとします。仏教の知識を得たい人も、経典などの本を読むのです。しかしながら、道徳の場合には問題が起こります。「私はあの人のようになりたい」と決めて、自分の生き方を調整する。そこで、「あなたはあの人のことを知り尽くしているのか? あの人は間違いなく人生の成功者なのか?」と問われても、あなたは知らないのです。結局、あなたは自分の主観で決めた生き方をすることになります。逆に、「あの人のように決してなりたくはない」と思ったとしても、同じ問題にぶつかります。そういうわけで、倫理・道徳の場合は、外を観て判断することには疑問が生じるのです。

かといって、「決して人をモデルにしない」という決まりも成り立ちません。何も知らない無知な状態で生まれた人間が、たくさんの人々から学んで、影響を受けて、大人になるという事実は否定できませんが、「他人から学ぶこと」は道徳の決定版にはならないのです。

お釈迦さまはこのように説きます。「他人の非行は観なくても結構です。(Na paresaṃ vilomāni)」その意味を理解しましょう。私たちは外を観ているのです。特に、周りの人々を観ています。ありとあらゆる決まりを守って、流れに沿って生きている人々よりも、非行に走っている人々のことが気になるのです。百人くらい乗った電車で、一人が大きい声で叫んでいたとしましょう。気になるし、嫌になります。「今どきの連中は性格が悪い」「周りに迷惑をかける人だ」などなどの評論までするのです。その時は、九十人以上もいたはずの性格の良い人々のデータはカットされます。一人の若者がコンビニ強盗に入ったら、「今どきの若者は〇〇」という話に帰結します。世はこのように動くので、「有名になりたかった」と言って犯罪をおかす人もたまに現れるのです。たしかに有名になります。「人のこころに、他人の非行が焼きつくのだ」と理解しましょう。この時点で、ありのままの事実から遠ざかったことにもなるのです。

問題はこれだけで終わりません。人の非行がこころに焼きついたら、その人は悩むはめになるのです。電車に乗って大きな声で叫ぶ人は、超ゴキゲンになっているだけかも知れない。しかし、その非行が気になった人は、嫌な気持ちになるのです。相手に「静かにしなさい」と言いたいけど、言えない。勇気を出して言ったら、ケンカになるかも知れない、という怯えもあるのです。「なぜ周りの人々は何も言わないのか!」と怒りを抱くこともあります。非行が焼きついたことで、このような結果になるのです。決して、明るいこころにはなりません。そのうえ人間には、「人の良いおこないよりも、非行のほうが気になる」という精神的な弱みがあるのです。そういうわけで、「人の非行を気にしない生き方」が、こころの安穏を保つ技になります。

他人を採点する

私たちは、他人を判断したくてたまらない生き物です。他人を判断することは不可能であると前に書きました。違法な判断ばかりをして、この世界で生きることは、幸福を目指す道とは正反対です。人間は悪霊に憑依されたが如く、他人を採点し、他人を判断するのです。お釈迦さまは、このように説かれます。「人々がやったこと(犯したあやまち)、やらなかったこと(行なわなかった善行為・義務など)を気にしないでください。(Na paresaṃ katākataṃ)」

人間は善行為ばかりをして、義務を正しく果たして生きている生命ではありません。善行為をすべきだと知っていても、感情が割り込んだら悪行為をするのです。わがままな気分になったら、義務を果たすことは後回しにします。誰だって、完全無欠で生活することはできません。それなのに、誰かが、他人がやったこと、やらなかったことを気にしたら、その人は自分で地獄の扉を開いたことになるのです。悩み、苦しみ、他を非難・侮辱する気持ち、他を軽視する気持ちなどで精神が満たされてしまいます。事実はそうであっても、やはり人のことは気になる。だからこそ、人間は幸福に、安穏に達しないのです。

自分を観る

自分を観ること。これは外を観る行為の反対です。私たちは、知識を得るために外を観ようとします。優れた善人になるために、智慧を開発するために、自分を観なくてはいけないのです。しかし、人は自分を隠すことはあっても、観ることはしません。結果として、偽善者として人生を終えることになります。さらに困ったことに、私たちは「自分を観る方法」も知らないのです。仏教は自分を観る方法を語っています。科学者が望遠鏡を開発して視野を拡げたプロセスと同じく、自分を観るプログラムにおいても、視野を拡大する必要が生じます。他人の非行が気になると、不幸に陥ると説明しました。その逆の生き方である「自分を観る」ことを実践すれば、人は幸福になります。外を観るの生き方では決して経験できない、こころの安穏に達するのです。

順番に進む

「自分を観る」の初歩は道徳・倫理面です。それも、シンプルに行ないます。人によって、「やってはいけないこと」と、「やらねばならないこと」という二つがあります。まず、それを観るのです。

チェック項目は四つです。①やるべきことをやったのか、②やっていないのか。③やってはいけないことをやったのか、④やっていないのか。この四項目にチェックを入れておくと、人は自然に、やるべきことをやる人間に進歩します。やってはいけないことを制御する、ストップする人間に成長します。自分で自分を観ることなので、素直に、ありのままに観えるはずです。これは、精神的に苦労することも悩むこともなく、ストレスがかかることもなく、見栄を張ることも自我を称賛することもなく、道徳的で優れた人間に進む道です。このやり方によって、人は世間的な幸福に満たされた人間になるのです。

精神の安穏

さらに自分を観ましょう。道徳や生き方に問題はありません。社会の眼を気にする必要が消えたのです。それでも、こころが荒波を立てながら流れていくのです。こころに感情が起こると、苦しくなります。悪行為をしなくても、悪を犯したくなる意欲が観えてきます。人に怒ったり怒鳴ったりしなくても、こころに嫌な気持ちが生じます。自分を観ると、こころが落ち着いてないとわかるのです。ですから、呼吸など何かに集中して、集中力を育てます。こころとは、精神統一可能な働きです。自分を観ると、落ち着いているこころ、落ち着いてないこころ、感情に汚染されたこころ、感情が割り込まないこころ、強くなったこころ、弱くなったこころ、などなどが観えます。次から次へと、役柄を変えてゆくこころが観えます。やがて、こころが落ち着きます。荒波が立たなくなります。波が立たない巨大な湖のようになります。前のステージでは想像すら出来なかったレベルの、幸福と安穏に達するのです。

智慧の開発

自分を観ることで右に述べた二つのステージに成功すると、生きることに初めてfree timeが現れます。仏教用語でviveka[ヴィヴェーカ]と言います。これは訳しにくい単語なので、少し解説します。生きることは、必死で行なわなくてはいけない作業です。ちょっとの失敗で、人は死んでしまいます。呼吸することすら、必死で行なっているのです。生きることには、free timeは成り立ちません。呼吸を止めて休みを取ったり、心臓を停止して休みを取ったりすることは不可能です。こころの場合も、同じです。荒波を立てながら、必死に流れているのです。自分を観ることによって、初めて人生のfree time[フリータイム]が現れます。「やらねばならない」という義務感が消えるのです。

このfree timeを活かして、「生きるとは何か?」と観察するのです。それも自分を観ることです。自分が生きているのだから、人が生きるとは何かと観察することも、また自分を観ることになるのです。そこで、命を構成する仕組みを発見します。つまり、「すべては生滅変化する流れであって、変わらないものは何もない」と発見するのです。哲学の真似をして格好つけるならば、「無常」を発見する、あるいは「空[くう]」を発見する、ということです。それまでは実体のないものに執着を抱いていたので、この発見とともに執着が消えてしまいます。そうして、生命は輪廻転生しながら探し求めていた究極の幸福、究極のやすらぎ、究極の安穏に達するのです。これらすべてのプログラムは、自分を観ることによって成り立つものなのです。

今回のポイント

  • 知識を得るために外を観る
  • バイアスがあるので知識は常に不完全
  • 人を観ると悩み苦しみに陥る
  • 自分を観ると安穏に達する