パティパダー巻頭法話

No.335(2023年2月号)

実る言葉

金言は実行するものです Truth is meant for practice

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

4. Cittavaggo
第四章 花の章

  1. Yathāpi ruciraṃ pupphaṃ
    Vaṇṇavantaṃ agandhakaṃ
    Evaṃ subhāsitā vācā
    Aphalā hoti akubbato
  • うるわしく、あでやかに咲く花でも、
    香りの無いものがあるように、
    善く説かれたことばでも、
    それを実行しない人には実[みの]りがない。
  1. Yathāpi ruciraṃ pupphaṃ
    Vaṇṇavantaṃ sagandhakaṃ
    Evaṃ subhāsitā vācā
    Saphalā hoti sakubbato
  • うるわしく、あでやかに咲く花で、
    しかも香りあるものがあるように、
    善く説かれたことばも、
    それを実行する人には、実りが有る。
  • 和訳:中村元『ブッダの 真理のことば 感興のことば』岩波文庫より
  • 実らない言葉

    人間とは、学んで成長する生命体です。学ぶ能力は他の動物にも少々はありますが、大胆なことを学ぶ容量はないのです。人間の場合は、学べるもののリミットが無いように見えます。俗世間の人々の知識のすべては、六根から入るデータで組み立てたものです。六根から取り入れるデータにはリミットがあります。仏教の実践者と、瞑想を推薦した昔の行者たちは、六根の能力を向上させることで、俗世間に知り得ないたくさんの事柄を知る結果になったのです。

    知識を得る大事な手段は言葉です。言葉を使わず、他人に知識を与えることはできません。いままで人類が積み上げてきた知識は、言葉として残されています。人間にとって言葉はとても大事な道具です。人間として学ぶべき物事をほとんど、言葉にして伝えるのです。人にはたくさんの言葉を聞いて憶えておくことができるし、他人に伝えることもできます。それはあたかも、何かを手にとって次の人に渡すような働きです。何かを手にとって、そのまま次の人に渡すだけならば、渡した当人にはなんの利益もないのです。言葉によって知識と智慧を伝える世界では、この無駄な現象がよく見られます。言葉のなかには、知識を育てる力を持つものがあります。また、生き方を向上させて、道徳を守る人間に変える、人格を向上させる言葉もあるのです。ですから、言葉で知識を受ける際には、自分で実践する、実行する、試してみる働きが必要になります。人が他者から受け取る言葉を自分自身で実践しないならば、実行しないならば、試してみないならば、その言葉は受け手の役に立たない。ただの音に過ぎないのです。

    このポイントは、たとえ話にするとわかりやすいでしょう。不治と言われる病に罹っている人がいるとします。しかし、かれは罹った病気を完治できる治療法を記した本を持っているのです。その本を詳しく読んで、理解してもいます。なのに、実際に治療法を試してみるつもりはないのです。当然、病は治りません。自分が理解したせっかくの知識は、ただの言葉に終わるのみです。それから、かれにはその医学書のコピーを他人に渡すこともできます。貰った人もまた、試してみないならば、知識はただの言葉に終わります。そういうわけで、我々は言葉として受け取る知識と生き方を実行して保つことが大事なのです。試すことをしない限り、言葉に込められた意味は、一向に実らないままで置かれるのです。

    伝承

    人間は「伝承」という習慣を持っています。私たちはさまざまな古人の言い伝えを大事に伝承しています。しかし、伝承することだけが真剣な仕事になっていて、伝承された言葉を試してみる気はないのです。いまの時代からすると、なんの意味も持たなくなった古い知識や習慣も、大事に伝承しています。正月の門松はもう片付いたでしょうか? 門松を立てる習慣は昔から今まで伝承されていますが、それがなんのためなのか、誰もわかっていないのです。ほんとうに招福になるのかと、試したこともないのです。昔からやっているから、今も実行するだけです。次の世代もその真似をすることでしょう。実際のところ、日本のみならず世界各国の文化を調べると、意味がまったくわからない、たくさんの事柄をそのまま伝承していることがわかるのです。それから、「伝統を大事にする」という謳い文句もよく使われます。私たちには、自分で実践・実行しないくせに、次の世代に厳しく言い伝えていることがたくさんあります。たとえば、「嘘をつくなよ」というフレーズは如何でしょうか? 言っている人も実行していないし、聞いた人も実行しません。その代わりに、次の世代へと真剣まじめに伝えようとするのです。

    無香の花

    お釈迦さまは、人間のこの習慣について、「香りのない花」にたとえているのです。このたとえは、日本では理解しにくいかも知れません。インド文化では、花は鑑賞して楽しむものというより、香りを感じて精神的に落ち着くためのものとして用いられてきました。だから、いまだに花の形を改良する技術はほとんど使われていないのです。香りを放つ花を枕に入れたり、ベッドの上に敷き詰めたり、玄関に置いたりします。香りを感じて精神的に落ち着くことが目的なのに、香りの無い花を集めてみてもなんの効果も得られないのです。

    このたとえを使って、「もし試してみないならば、善人の宝物になる言葉を聞いても、学んでも、憶えておいても、後輩に伝承しても、効果がない(実らない)」と説かれるのです。究極の幸福に達する力を持つブッダの言葉さえ、実践しないならばただの言葉に留まります。仏教の人々も、伝承を大事にしているのです。ですから、「ブッダと偉大なる弟子たちの言葉を忠実に伝承することが自分たちの義務だ」と思うようになったのです。その結果、北伝仏教も南伝仏教も膨大な量の仏典を持つに至りました。その中には残念ながら、理解することが不可能なテキスト、現実というよりは神話的な物語ではないかと思えてしまうテキストも、けっこう含まれています。

    こうした問題をお釈迦さまは予期されていました。経典には、「正覚者の言葉を忠実に憶えること、理解することと、後輩に伝承することが大事である」と説くだけではなく、「実践することで教えを実証してほしい」と述べられている箇所がたくさんあります。

    ブッダの言葉

    色鮮やかで美しくても、香りを持たない花が役に立たないように、正しく語られている覚者の言葉も、実践しない人にとっては役に立たないのです。(51偈)

    ブッダの言葉の場合は、「正しく語られている」という形容詞がいつでも付いています。「正しく語られている」には、深い意味があるのです。軽い気持ちで語られる言葉ならば、聞く人が自分の主観で解釈したり理解したりすることができます。誤解することも可能です。他の言葉に入れ替えることも可能です。そうすると結局、最初に語った人が伝えたかった意義は消えてしまうのです。ブッダの言葉は、アインシュタインのE=mc2のようなものです。自分で理解しやすく変えること、編集することは不可能です。

    言葉とは不完全な道具です。語る人が伝えたかった意義がそのまま相手に通じる保証はないのです。言葉の不完全さによるトラブルは、日常生活でふつうに起こる出来事です。また、自分の判断を表明する時、必ず起こる現象でもあります。「これは美味しい、今日は暑い、あの人は気に入らない」などの言葉は、自分の判断を表明するものですが、聞く相手はそれを自分勝手に理解するのです。「先週、池で遊びました」と言ったら、相手は「先週」は理解します。しかし、何日間か、何曜日かはわからない。「とりあえず、日曜日だろう」などと推測します。「池」という言葉は、話した相手が実際に遊んだ池ではなく、自分で思い浮かべた池に当てはめるのです。われわれは気づいていないのですが、これは言葉の持つ大きなハンディです。ブッダが真理を語る場合は、このハンディに綿密に気をつけるのです。経典は、「そんなこと、わかっている」と思える言葉にも、いちいち定義をしながら語るので、現代人にはノイジーに感じる可能性もあります。それは「正しく語る」からこそ起こる問題なのです。

    飛行機の操縦マニュアルがあるとしましょう。操縦士は離陸する前にマニュアルをぜんぶチェックするのです。もしも、マニュアルに書いてある言葉を自分の感情や、主観、好みで理解したならば、たいへんな結果になります。ダンマとは、解脱に達するための実践マニュアルです。決して、誤解があってはならないのです。そして実践しないならば、ダンマ・マニュアルを理解しても、憶えておいても、結果が出ない(実らない)言葉になるのです。

    香る花

    色鮮やかで美しく、しかも香りを持っている花が役に立つように、正しく語られている覚者の言葉は、実践する人にとって役に立つのです。(52偈)

    花が香りを持っているならば、人の役に立つのです。インドにジャスミンという花があります。その香りは人に精神的な落ち着きを与えます。身体の機能をリラックスさせる薬効も持っています。しかし、この花は小さくて感動させる美しさを持っていないのです。干し花にしても、香りは何年も保ちます。お釈迦さまは、「花の中で一番香りの良い花はジャスミンだ」と説かれたこともあるのです。ジャスミンの花は健康に良い薬草茶にもなります。この説明と、我々がふだん花瓶に飾る花を比較してみて下さい。花瓶に挿した花は、ただ見るだけです。

    お釈迦様は、「正しく語られている覚者の言葉は、香りをもつ美しい花のように実践する人の役に立つのだ」と説かれるのです。ブッダの言葉を正確に伝承することは、次の世代の人々を慈しむ行為です。しかし、伝承する人はそれを伝える前に、まず実践して試す必要もあります。言葉を実践する人は、幸福に達するのです。料理の仕方を学んだ人が、教わったとおりに美味しい料理を作ったとしましょう。出来上がった料理を他人に食べてもらうのです。それは決して、悪い行為ではありません。しかし、自分が食べてみないならば、美味しさを感じて喜ぶことも、身体に栄養を取り入れることもできません。ただ疲れただけの結果に終わるでしょう。ブッダの説かれた教えは、まず自分自身で実践して、幸福に達するべきものです。それから、他人にも教えてあげるのです。

    お釈迦さまの最後の旅を記録した『大般涅槃経』には、このようなエピソードがあります。マーラという神が釈尊に、「いい加減に涅槃に入ってください(死んでください)」と頼んだ時、その理由として続けてこのように言いました。「お釈迦さまの出家・在家の弟子たちが、教えを実践して幸福に達しております。さらに、後輩にその教えを伝えて、指導することもできています。もう、涅槃に入る時期が来ました」と。

    仏教においては、自分自身で真理を実践すること、他人にそれを教えること・指導することはとても大切だと、お釈迦さまご自身が思っていたのです。釈尊は、それが正等覚者としての義務であると考えていました。お釈迦さまの伝道活動は成功したのだと、仏教の大敵であるマーラに言わしめたエピソードは面白いと思います。(敵に賛嘆されるならば、それは本物なのです。)

    今回のポイント

    • 役に立つ智慧の言葉はたくさんあります
    • 智慧の言葉をただ憶えても役に立たない
    • 善人の言葉は実践して試すものです
    • 忠実な伝承も大事ですが、実践は欠かせない