No.336(2023年3月号)
真理は現象の裏にある
人を奴隷にする表の姿 Superficial and profound vision
今月の巻頭偈
Dhammapada 1.Yamakavaggo
ダンマパダ(法句)第一章 一対の章
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Subhānupassiṃ viharantaṃ, indriyesu asaṃvutaṃ;
Bhojanamhi ca amattaññuṃ, kusītaṃ hīnavīriyaṃ;
Taṃ ve pasahati māro, vāto rukkhaṃva dubbalaṃ.
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「美のものなり」と観続け 感覚器官を護らずに住み
食事に量を知ることもなく 怠けて精進することもない
かれを悪魔が必ず襲う 風が弱木を襲うように
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Asubhānupassiṃ viharantaṃ, indriyesu susaṃvutaṃ;
Bhojanamhi ca mattaññuṃ, saddhaṃ āraddhavīriyaṃ;
Taṃ ve nappasahati māro, vāto selaṃva pabbataṃ.
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「美のものならず」と観続け 感覚器官を護り住む
また食事にも量を知り 信あり精進努力する
かれを悪魔は決して襲わず 風が岩山を襲わぬように
楽観的感情の罠
生命とは、基本的に楽観的感情で生きているのです。生き続けることは闘いです。少々の間違いで命が無くなる可能性もあります。したがって、生き続けることをサポートする物事を必死に探さなくてはいけなくなるのです。ごくベーシックなところから考えてみましょう。生きるために食べなくてはいけない。外にある物質を身体に取り入れなくてはいけない。しかし、何を食べても生きられるわけではありません。ある生命が食べるものは、別な生命に食べられない。ある生命に栄養になる物質は、別な生命に毒になることもふつうです。生き続けたい生命は、自分の肉体に栄養になるものを探して取り入れなくてはいけない。気楽になんでも食べる性格をやめて、好みに執着しなくてはいけない。人間のように味を感じる場合は、好みの味を探すことになるのです。それで、栄養になるものを美味しいと不味いに分けてみて、美味しいものはより一層美味しく食べる工夫をして、不味いが栄養になるものは美味しくなるように味を変える工夫をするはめになるのです。ここで、栄養を取り入れることについて、罠が現れます。栄養を取り入れることが、たいへんややこしい作業に変わってしまいます。気楽に生きることが消えてしまいます。
生きるためには、眼耳鼻舌身意に色声香味触法という情報を入れなくてはいけない。色声香味触法が触れても、嫌な感覚、苦しい感覚が起きてほしくない。代わりに、好きな感覚、楽な感覚が起きてほしいのです。その結果、自然の流れに身を任せて生きることはできなくなります。楽しい色声香味触法を探し求めます。楽しくないものを楽しさに変える工夫もします。その人は、色声香味触法に縛られて自由を失います。感覚の罠に嵌ったことになります。楽天主義者には、精神の自由が成り立ちません。しかし、本人は「自由気ままに生きているのだ」という錯覚に陥っているので、この罠から抜けることもできないのです。すべての生命が、この楽観的感情の罠に嵌っているのだと言えます。
悲観的感情の罠
極端な悲観的感情に陥る生命というのは稀だと思います。なぜならば、すべての物事を敵視すると、自分の命も成り立たないからです。自殺願望を持つ人であっても、生きる環境を変えてあげたり、人生観を変えてあげたりしたら、自殺する気持ちを翻[ひるがえ]すのです。つまり、その人の悲観的感情は初めから極端ではなかった、ということです。世の中には、性格的に悲観的感情を優先する人々もいます。そういう人々は大変です。世の中にあるなんであろうとも、悲観的に理解したり解釈したりしなくてはいけないのです。世は楽観主義だから、悲観主義者にかかる負担は限度を超えてしまいます。その人には、知識を増やすことも、成功して楽に生きることもできなくなるのです。その人は、物事も悲観的感情で見るという罠に嵌って、忙しいのです。自分は一般人よりも賢いと思っているので、この罠に嵌ったら抜けられないのです。
中間的な立場
一部の物事に対して楽観主義になって、一部の物事に対して悲観主義になって生活することは、決して答えではありません。その人は強度が弱い二つの罠に嵌っているので、結果は同じことです。自分が偏らないで適当に生きている賢い者だと思っているから、この二重の罠からも抜けられないのです。
中正の立場
仏教徒は、中正[ちゅうしょう]の立場で生きるのです。そこで、中正とは何かと理解しなくてはいけないのです。世の中は良いものでも悪いものでもありません。ある生命にとって良いものが、別な生命にとって悪いものになるのです。個人的に見ても、原理は同じです。今日美味しく感じた食べ物が、明日食べると美味しくないと感じることもある。こころ惹かれる曲でも、繰り返して聴くとうるさく感じる。今日かわいいと思った人も、時間が経つと鬱陶しいと感じるのです。ですから、何に対しても定まった判断は不可能であると見えます。その場その時の因縁関係に制約されるのです。その場その時に合わせて何かを判断しても、その判断は決して変わらない事実ではありません。賢い人は判断に束縛されないのです。判断とは、その場その時だけに有効です。長い時間有効な判断もあるし、場所に限定されない判断もあります。判断に束縛されない人は、楽観主義・悲観主義の罠に嵌められないのです。
束縛の罠
ブッダは解脱に達することを推薦します。それは、すべての束縛を断つことです。生き続けたい気持ちがあるので、生命はありとあらゆる束縛を作るのです。その束縛が人の命を支配して管理します。人は束縛の奴隷になるのです。奴隷には自由がないし、幸福もありません。自分が作った束縛の司令で惨めに生きることになるのです。幸福になりたいという気持ちが起きたら、新しい束縛を作るのです。束縛を作ることは生命の本能的な働きです。束縛は、幸福ではなく苦しみを作るのです。しかし、皆それに気づきません。束縛とは、人間にとってこの上のない有難いことだと思うのです。健康で長生きできること、幸せな家族がいること、財産があること、楽しい仲間がいること、自分に社会的な立場があること等々、自分の幸福度を示す条件がたくさんあるのです。それらはすべて束縛であって、幸福ではなく苦しみを作る原因なのです。ですから、人が幸福を目指して精進努力しても、得られないもの、達しないものは幸福なのです。それでも、諦めずにがんばります。これが、束縛・煩悩という罠です。この罠に嵌まるのは、生き続けたいという存在欲(渇愛)があるからです。
自由を目指す人
罠はたくさんあるので、思っただけでは、希望しただけでは、自由になれません。理性にもとづいて、精進努力しなくてはいけないのです。釈尊は、色々な尺度からその方法を説かれています。まず、人が嵌っている罠に気づいてもらう。それから、その罠を外す方法を説くのです。今月は、楽観主義という罠をテーマにした教えの解説をしましょう。
美化する癖
人がなんでも美化する癖を持っているとしましょう。なんでも良いものだと見るので、その人は楽観主義者になります。その人は楽観的に生きるのです(subhānupassiṃ
viharantaṃ)。その人は、眼耳鼻舌身意を制御する・戒める必要はありません。たとえ、悪く感じるものがあっても、それも美化してしまって楽しもうとするのです。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が自由自在に入るので、自己制御はありません(indriyesu
asaṃvutaṃ)。食べる時も、お腹いっぱい食べてしまいます。満腹するまで食べる。美味しいから食べる。珍味だから食べる。もったいないから食べる。退屈だから、面白いから、パーティーだから等々、無数の理由を考えて食べるのです。食に対しても自己制御はありません(bhojanamhi
ca
amattaññuṃ)。楽観的に生きるので、楽しいことに目がないのです。「楽しいことならやる」という生き方ならば、誰にでもできます。人は、楽しくなくても勉強などの役に立つことをしなくてはいけないのです。楽観主義になると、そのような自分を向上させる努力はしなくなります。怠け者で(kusītaṃ)精進努力をしない性格の人になるのです(hīnavīriyaṃ)。
この人は、世の流れに流されているのです。存在欲(渇愛)はそのままです。老病死の攻撃を簡単に受けます。いくら楽観主義であっても、世は自分の好みに合わせて流れるものではありません。ですから、世の荒波の被害を簡単に受けるのです。自由になることは不可能です。弱い木が風の攻撃で簡単に倒れてしまうように(vāto
rukkhaṃva dubbalaṃ)、世の流れに流されるのです。それは、悪魔の攻撃を受ける(taṃ ve pasahati māro)と言います。
なんでも美化する癖を持ち、楽観主義に嵌って生きる人々は、決して存在の罠を破らないのだ、というブッダの戒めです。
現象の裏を見る
無知な人は、物事の表だけを見て、欲・怒りなどの感情を作って、その感情に束縛されるのです。たとえば、「あの人は美人だ」と認識する。表を見たのです。それから、その人を自分のものにしようと努力する。成功しても苦労するはめになる。失敗したら落ち込む。何もしないで欲の感情だけ抱いたら、その妄想が自分の精神を蝕むことになる。判断を急がないで、その対象の裏も見てみましょう。美人とは皮膚のことです。皮膚を剥がした身体を推測して考えるならば、瞬時に「美人」が消えます。関連した煩悩も消えます。気持ち悪くなったり怯えたりするとネガティブ感情にやられるので、「どんな人間も、皮膚を剥がしてみたら美人も不細工も成り立たない」とわかって、感情から解放されます。新たな束縛を作ることは無くなります。自分の身体も、皮膚を剥いてみたら決して愛着の対象にならないとわかるのです。それで、自己愛という感情に束縛されることも無くなります。
この訓練を様々な場面で活かしてみるのです。耳に触れた音が美しいと感じたら、直ちに「これは空気の振動だ」と裏を見ます。空気の振動に美しいもうるさいも成り立たないのです。いま音楽をコンピュータ画面で波長のグラフにすることは簡単にできます。惹かれる音楽であっても、波長のグラフを見たらなんのこともないのです。気持ち悪いと思われる音も、グラフにすれば音楽のそれとほとんど似ています。ひとくち食べて美味しいと感じたら、ふたくちめは丁寧に味を感じて食べてみるのです。それで感じられる味はあるが、「美味しい」という判断は自分の妄想の結果だとわかります。その味も噛むたびに変化するもので、固定していないのです。このように、裏を見ると執着を作ることも、怒りの感情を作ることもできなくなります。感情の罠に嵌まることが無くなるのです。
この実践を色声香味触法のすべてに、出来る範囲で行わなくてはいけないのです。すべてを完璧にやらなくてはいけない、というストレスは要りません。引っかかったところで、その対象の裏を観察すればよいのです。自分の思考・妄想も観察してみましょう。「思考・妄想とは、感情の罠を強化する作業だ」と発見できます。
裏を見る作業は、asubhānupassiṃ
viharantaṃになります。Subha[スバ]は美化することだと訳するので、asubha[アスバ]を訳する言葉が無くなります。「非美化」という単語はありません。そういうわけで、ここでは現実的な立場を取って「現象の裏を見る」というフレーズを使ったのです。現象の表を見ることは誰でもやっています。裏は精進努力しないと見えてきません。怠けて生きる人にはできないことなのです。
裏を観察する人は、五感に任せて色声香味触を好き勝手に入れてこころを混乱させること、感情の荒波を立てることを戒めるのです(indriyesu
susaṃvutaṃ)。食べたい放題食べることはしません。身体に必要な量を超えないのです(bhojanamhi ca
mattaññuṃ)。人は感情の奴隷であること、束縛の罠に嵌っていることは、釈尊が教えた真理です。この教えは事実であると信じて、自分自身で体験しようとするのです。ですから、裏を見る人には確信があるのです(saddhaṃ)。「ただ生まれたから生きているのだ」という調子では、裏を見る作業はできません。その人は絶えず精進するのです(āraddhavīriyaṃ)。物事の裏も表も観察する人は、すべての現象は無常だと発見します。無常なる現象に束縛されることは成り立たないのです。その人を誘惑することは不可能です。風に岩山を揺らすことはできません(vāto
selaṃva pabbataṃ)。これが自由に達する道です。
今回のポイント
- 楽観主義・悲観主義は束縛です
- 主義も判断も成り立たない
- 人は判断にも束縛されます
- 俗人は現象の表を見る
- 仏道の人は表と裏の両方を見る
- 自由に達した人の精神は動揺しません



