No.340(2023年7月号)
知識と実践
他人の財産を数える人 Unverified knowledge is meaningless
今月の巻頭偈
Dhammapada 1.Yamakavaggo
ダンマパダ(法句)第一章 一対の章
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Bahumpi ce sahitaṃ bhāsamāno
Na takkaro hoti naro pamatto
Gopova gāvo gaṇayaṃ paresaṃ
Na bhāgavā sāmaññassa hoti
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聖語をたくさん語ろうと
その実践がなく怠る人は
他牛を数える牛飼いのよう
沙門の仲間に入ることなし
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Appampi ce saṃhita bhāsamāno
Dhammassa hotī anudhammacārī
Rāgañca dosañca pahāya mohaṃ
Sammappajāno suvimuttacitto
Anupādiyāno idha vā huraṃ vā
Sa bhāgavā sāmaññassa hoti
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聖語をわずかに語ろうと
法に従い行なう者は
貪り・怒り・愚痴を捨て
正知し、心がよく解脱して
この世あの世に捉われず
かれは沙門の仲間に入る
- 参考和訳:片山一良『ダンマパダ全詩解説』大蔵出版
ブッダの教えは面白い
さまざまな宗教の聖典と比較してみると、ブッダの教えを記録する経典は面白く感じてしまうのです。お釈迦さまは上からものを言うのではなく、人間にかかわるさまざまな問題について対等な立場で相手と対話しました。いまも経典を読みながら、自分自身で自分の考えを出したり、経典の内容と対話してみたりすることができます。冒瀆【ぼうとく】という概念は仏教にはないので、経典の内容に反論してみることも可能です。経典の内容を全面的に否定してみることもできます。しかし、経典を読む人とお釈迦さまが直々に対話しているので、経典を読む人は誰でも、内容が面白いと感じてしまうのです。とはいえ、どんな経典でも簡単に理解できるわけではありません。なぜならば、存在に関するすべての問題を超越した智慧の立場でディスカッションしているからです。一般の人々に興味のあるテーマも、理解しがたいテーマもあるのです。釈尊の時代にあった、さまざまな宗教の考えを考察してみる経典もあります。
対話形式
人間の無知を破る目的で語るために、お釈迦さまは対話形式を選んだのです。まず、聞く相手の理解能力のレベルを大事にして「○○の場合は、あなたはどう思いますか?」と訊いたので、対話に参加する相手に自分の意見を自由に表現できたのです。釈尊は、相手の思考のなかで認められるところは素直に認めてあげて、よく整っていない考えと間違っている考えに対しては、相手と一緒に話し合って人を真理に導きました。仏教の根本真理である無常・苦・無我を教えるときも、必ず相手に質問して、相手の答えから真理に導いたのです。
それから、喩え話をたくさん出して説明しました。ときどき、神話的な物語や人々のしきたり習慣なども例として示したのです。ユーモアや純粋な論理形式も使われる場合がありました。ということで、仏教経典は基本的に面白いと感じてしまうことが普通なのです。
哲学者と知識人
宗教哲学者やその他の知識人たちも、ブッダと対話をしました。当然この場合は、高度な内容になります。哲学に興味のある人々と、知識を求める人々が、このタイプの経典を読んでみるのです。「生きるとは何か?」「人はどのように生きればよいのか?」というような問いに興味を持つ人々にも、参考になる経典があります。どんな経典にも「私の言うことを信じなさい」という要求は一切ありません。確かめないでものごとを信仰することは否定されています。信仰があっても悪くはないが、それはある程度まで確かめた信であってほしいのです。ブッダの教えはこのようなものだったので、「仏教は宗教ではない」という人々もいます。仏教に哲学というレッテルを貼る人々もいます。人々に生き方を教える道徳・倫理の話だと言う人々もいます。徐々に時代が変わって、国際交流が盛んになったところで、仏教は大学で学問的に研究する課題になってしまったのです。いまでは、学術的に仏教を研究する仏教学者がたくさんいます。
問題は残っている
「仏教とは何ですか?」と仏教学者に訊いても、答えはないのです。学者は初期仏教からタントラ密教まで調べるので、答えは見出せなくなっています。「仏教は哲学ですか?」と調べても、哲学の管轄に入らない内容がたくさん出てくるので、哲学と言えなくなります。「宗教ですか?」と訊かれても、宗教組織が持つべき基本的な条件は揃っていないのです。「仏教はもう一つの道徳・倫理の教えでしょうか?」と調べてみても、仏教は「世間の決まりを守って素直に生きる良い人間になりましょう」という結論を出していないのです。それどころか、道徳の束縛を超えることも語っているのです。現代の知識世界と比較してみると、ブッダの教えの大半は「心理学」の範囲に入ります。しかし、残念ながら仏教は心理学ではないのです。心理学では、一般人のこころの働きと精神的なトラブルについて研究します。仏教にあるこころの分析は、心理学の世界の管轄外です。というわけで、「仏教とは何ですか?」という問いに答えはないのです。
ブッダの答え
経典の中で、「比丘たちよ、私はあなた方に真理(dhamma)を説きます」と発表されているように、ブッダは真理(dhamma)を語ったのです。Dhammaとは、他の言語に翻訳できない単語です。真理、事実、法則、ありのままの姿、正しい生き方、達するべき境地、という意味になります。インド文化圏の諸宗教の教えにも、dhammaと言うのです。ですから、ヒンドゥー教のdhammaがあって、ジャイナ教のdhammaもあるのです。仏教のdhammaはBuddha-dhammaになります。悪いことに、昔は国の法律や正しい政治方法にもdhammaと言いました。そういうわけで、dhammaは他の言語に翻訳できないのです。コンテキストに合わせて、その都度、翻訳するしかないのです。釈尊が「比丘たちよ、私はあなた方に真理(dhamma)を説きます」と言ったくだりの意味は、仏教という宗教の話ではなく、「真理・事実を説きます」という意味なのです。
ブッダ・オリジナル?
仏教は、釈迦牟尼世尊が初めて語ったブッダ・オリジナルの話ではありません。お釈迦さまは、無明に覆われた一般人には見出だせなかった真理を発見したのです。それでも、正しく観察するならば、その人はブッダが発見した真理を発見するのです。ブッダが達した境地に達することもできます。仏教はブッダ・オリジナルではないと言っても、お釈迦さまが誰かの話をコピーして話したのだと勘違いしてはいけません。ブッダが世に初めて真理を明かしたのです。たとえて言うならば、誰かが「地球が丸い」と発見して、初めて語ったのと同じことです。その人が発見する以前から、地球は丸かったのです。ただ、誰もそれを発見しなかっただけのことです。ブッダが語った無常・苦・無我の真理、苦集滅道の真理、因果法則、解脱・涅槃という境地も、ブッダがつくったものではなく、世に存在する真理なのです。
知識欲
言葉をもって完全に語ることは不可能です。私たちが思ったこと、感じたこと、私たちの意見なども、言葉をもって完全に語ることはできないのです。言い過ぎになったり、言葉が足らなかったりします。にもかかわらず、お釈迦さまは不完全な言葉を使って完全に語ったのです。それは正等覚者としてのブッダの能力です。他の人に完全に語れないことは事実なので、「仏法は、正しく語られている(svākkhāto)」という形容詞をあえて使うのです。
ですから、真理を知りたい人は仏説すべてを学ぶ必要はないのです。ブッダの言葉であるならば、すべて真理を明かしているからです。そこには存在を脱出する方法も述べられているのです。しかし、仏教は面白いのです。学べば学ぶほど、さらに学びたくなるのです。ブッダは人によって語り方を変えるので、学ぶ人には同じ真理であっても人の性格に合わせて表現の仕方が変わることが面白くなります。認識論に興味があるならば、超越した認識レベルに達することから、認識の終焉まで学べます。ブッダが説く道徳を学ぶことになると、法律学者の気分になります。というわけで、「仏教学」は知識欲を掻き立てられるはめになるのです。欲はこころの汚れであり、煩悩です。人に悩み苦しみを作る原因・束縛なのです。解脱の対極に位置するものです。知識欲が他の欲より勝れているわけでもないのです。知識そのものは悪くないにせよ、知識欲は危険だと理解する必要があります。
専門家が現れる
出家比丘たちはブッダの教えを学ばなくてはいけないのです。教えの内容も、ブッダの人に合わせた教え方(方便)も、人々の邪見を丁寧に破る方法も、学ばなくてはいけません。なぜならば、真理の教えを後輩に伝える義務が出家にあるからです。お釈迦さまは、弟子たちにそれを期待していたのです。一人の能力はさまざまです。出家比丘たちも自分の知識能力に合った教えを専門的に学んだのです。それで、比丘たちの間で専門家が現れることになりました。経典の専門家、戒律の専門家、説法の達人、議論の達人、一般人にわかりやすく語る達人などなどが現れたのです。教えを解説する能力のある達人もいたのです。ここまでは順調です。しかし、知識は人に刺激を与えます。刺激は欲に変わります。そこで、知識欲が生じるのです。欲という煩悩は、いくらあっても足らないという状況を作ります。修行して解脱に達する余裕がなくなります。仏教知識人が増えるということは、覚者が減るということと裏表だったのです。
ブッダのプログラム
「仏教とは何?」という問いには答えがないと、前に言いました。ブッダ自身のプログラムは何なのかと調べれば、答えを見いだせるかも知れません。ブッダは完全に語りました。伝統的に八万四千の法門があると言われています。八万四千法門を合わせて完全になるのではなく、一つの法門であっても「完全に語られている」のです。ある日、お釈迦さまがこのように言いました。「私は二つのことを語ってきました。それは〈苦〉と〈苦を脱出する方法〉です」と。つまりは、一つの法門を学んでも、「生きることは苦である」という真理と、苦を脱出する方法を学べるということです。
ブッダのプログラムは、哲学、心理学、倫理学、宗教などを教えることではなかったのです。それは苦しみの循環である存在を乗り越える道を教えることでした。人が仏道を実践して解脱に達したならば、ブッダが説法した目的を達成したことになります。お釈迦さまは、弟子たちにそれだけを期待していたのです。
たとえで説明します。病に罹っている人がいます。重症です。完治できる治療方法があります。人々に合わせて治療したところで、八万四千の治療方法が現れたのです。しかし、それは各自の体調に合わせただけで、完治するための治療方法は一つなのです。病に罹った人が八万四千の治療方法を詳しく学んだからと言って、何の得もないでしょう。それよりも、自分に適した治療方法を使って病気を完治させるべきです。ブッダは自分のことを「この上のない医者である」と説かれたことがあります。ですから、ブッダのプログラムは、人々に輪廻転生という苦の循環をやめる治療を施すことです。人々は煩悩に感染して苦しんでいるのです。煩悩が煩悩を作るという法則なので、いくら「すべての現象は無常である」と知ったところで、苦は循環するのです。つまり、煩悩を根絶しなくてはいけないのです。というわけで、ブッダは医者なのです。生命は煩悩に病んでいます。ブッダの教えは治療方法です。煩悩に病んでいる生命は、自分自身で治療を受けなくてはいけないのです。八万四千の治療方法の中で、一人に一つの方法でじゅうぶんです。自分に適した方法がわからないとすれば、仏教を学んで自分の性格に合う方法を選べば良いのです。
では、答えを出しましょう。仏教は宗教でも哲学でもありません。倫理学でもありません。真理を語ったからと言って、科学でもありません。こころのありさまを詳しく説明したからと言って、心理学でもありません。仏教とは、苦を無くす方法なのです。
ブッダの言葉
お釈迦さまは、理性のある人に話しかけました。おのずと知識人が寄ってきたのです。その結果、真理が知識人の遊び場になる危険性(知識欲)も生じてきました。ブッダの教えをたくさん学んだとしても、放逸に陥ってそれを実行しない人がいるならば、その人は他人の牛を真剣真面目に世話している人のようなもの。牛(財産)の恵みには与【あずか】れません。放逸の人は仏教の恵みに与れないのです。
反対に、たとえ少々でもブッダの教えを学んで、そのとおりに実行してみるならば、その人の心は貪瞋痴から離れるのです。正知が生じ、こころは安穏に達します。この世あの世に彷徨うことはもう無くなります。その人には、仏教の恵みに与る権利があるのです。
今回のポイント
- 仏教は知識人の興味を惹く
- 仏教は宗教にも哲学にもならない
- ブッダは真理の発見者である
- 仏教はこころの病を完治する治療方法です
- 仏教知識と解脱は異質なものです



