根本仏教講義

1.釈尊の根本的教え 7

真理を知る慈と愛の心

アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏教の真理は深く巨大な教えですから、そのすべてを理解することは並大抵のことではないと思います。
しかし仏教は、そしてまたお釈迦さまの教えは、一流の大学を出た秀才や、学究の徒として膨大な書物に埋もれて一生を終わらせるような学者にしか理解できないというそういう難しさではありません。
むしろ、宗教研究者をはじめとする評論家などの観念的頭脳が真理を理解することへの弊害になっているという面のほうが大きいかもしれません。
お釈迦さまの教えは、理論理屈ではないのです。
「私はここまで仏教のことを勉強したから分かる」「お釈迦さまを研究しない人には分からない」などと、そういった事ではないのです。そういう考え方は、真理を知ろうとする過程におけるもっとも危険かつ邪魔な考え方であり、すべての悩める人々に真理を教えようされたお釈迦さまへの冒涜でもあります。なぜなら、お釈迦さまは理論理屈を説いたのではなく、真理への実践の道を教えたのですから。そうでなければ、これほどやさしく、だれにでも実践できる方法を説きはしなかったはずです。先月号でもお話しましたが、ヴィパッサナー瞑想法はどんな人間にも平等にできるやさしい真理の道を知ることのできる瞑想法です。 こういう方法を発見したそこに、お釈迦さまの慈愛の心を感じることが出来ます。

ところで、日本というところは世界でも稀有けうな宗教に対する新し好きの国で、次から次へと新興宗教が誕生しています。しかしながら、テーラワーダ仏教を土台にした新興宗教は生まれていません。それはなぜでしょう。
テーラワーダ仏教には新しく解釈を加えるという部分が何一つないからです。どんな考え方にも試行錯誤という問題が生じて、そのときは正しいとされたものも、十年、二十年、いやあるいは百年、二百年と年を経るごとに、どこかに矛盾が生じてきたり、人間の嗜好や考え方に違いが出てきたりして、その内容なりを変更せざるをえなくなるというのが普通の思考形態ですが、テーラワーダ仏教ではお釈迦さまが広めて以来、新しく解釈を加えるというところが一つもないのです。ここに真理は絶対であり、永遠のものであるという不変のあかしがあります。

世の中の宗教のそのほとんどが排他的であるのに対して、お釈迦さまは排他的なことはひと言も仰言ってはおりません。それどころか、徹底した慈悲に基づいて教えていられるのです。仏教そのものは、生命に対しての慈悲、慈愛、そこに根本があって、生きとし生けるものすべてに対してやさしい心で実践することから出発しようとしているのです。自然界に対して迷惑をかけない、蟻一匹、虫一匹にも迷惑をかけない。もちろん、人間の作りだした社会のシステム、政治的システムにも迷惑をかけないことを教えます。命を育むものすべてと共存する事を実行した上で、そこから解脱の道を説いているのです。

また、「私は仏教徒だから」といったような他と隔絶するような態度も厳に戒めています。つまり自分は違う人間なのだというおごった考え方ではなく、みんなが同じ人間、同じ生命ある存在であることを基本に、その上で我々の心を清らかにするための実践を勧めているのです。

日本では宗教、あるいは仏教と聞いただけである種の偏見から忌避する傾向も見られますが、ほんとはテーラワーダ仏教の教えこそ、親が子供を連れてきて、「お願いします」といってでも教えるべきことなのです。テーラワーダ仏教は宗教といっても、この宇宙の真理を説いているものですから、ほんとに理解すればこれほど人類にとって欠かせない教えもないはずなのです。哲学者でも、心理学者でも、法律家でもこの教えは何らの障害にもならないはずです。それどころか、徹底的に生命に対する尊さ、慈悲の心を教えるのですから、大いに役に立つはずのものなのです。

仏教にはたしかに戒律というものがあります。五戒、八戒、十戒という段階もありますが、それをやらなければ仏教を知ったことにならないというものでもありません。やりたくなければ、やらなくていいのです。しかし、例えば「殺生をしてはいけません」という戒律がありますが、それは我々生きているものはみな等しく生きていたいという生存本能があって、自分だけ生きたいのではない、自分が生きたければ同じように相手もまた生きていたいという真理を教えるものですから、戒律といって何か束縛を受ける印象を持たれることが誤解であるということはお分かりでしょう。

殺生を禁じるということは、命あるものはみな生きていたいという真理ですから、自分が生きていくために他を殺生してはいけないことはもちろん、例えばそれが細菌であっても殺してはいけないということになります。仏教は、この辺りが徹底していて例外を設けないところに真理の普遍性を伺うことが出来るのです。

仏教では、病気を治すときにもヴィパッサナー瞑想法を用います。ですが、よく皆さんは病魔と戦うという表現をされますが、仏教では例え病気であっても戦うという表現やそういう思い方はしません。仏教では病気である自分を認識すること(例えば、痛みがあるのならその痛みをじっと観察する)、そのまま受けとること、確認することによって心をリラックスさせ、それが治癒に結びついていく方法を取っています。誤解のないようにお話しておきますが、仏教では病院やお医者さんを否定しているのではありません。病気になれば、いい施設の秀れた医師のいる病院へ行くことが肝心です。いまは病気にかかった人間の心の問題をお話しているのです。微生物から巨大な生命までやさしい心で接していく気持を作っておくことが瞑想を始める前の必要条件なのです。

ところで、瞑想というとふつうは心を集中させることでしょう、という人が多いはずです。しかし、この心を集中させるというのは大変難しいことです。心は集中することをいちばん嫌がるのです。心はいつも混乱状態を望んでいて、統一性をもっとも毛嫌いします。その証拠に、単純な例でお話すれば、試験勉強や難しい本を強制的に読まされなどすれば、心は懸命に抵抗しよう、そこから逃げだそうとするでしょう。世の中の人がみんな酒を飲んだり、煙草たばこを吸ったり、果ては麻薬に溺れたりするのは、この心の統一性から自分を開放したいからなのです。音楽を聴いたり、踊りに興じたりすることを楽しいと思うのは、心を混乱状態においているからなのです。しかし、それは自己破壊への道なのです。

ですから仏教ではこの心を集中させなくては出来ないような瞑想は、その苦行感から言っても勧めようとはしないのです。心の集中をまず必要とする瞑想法は、そのために特別な訓練が要求されますし、時間もかかり、かかった割りの効果はあまり期待もできません。ヴィパッサナー瞑想法がサマタの瞑想を奨励しない所以ゆえんです。サマタの瞑想法は、対象を一体化することによって主体、客体は同じであることを理解させようとするものですが、輪廻から脱却する、いわゆる悟りの世界に入ることを究極の目的にしているテーラワーダ仏教では、サマタの瞑想ではそこまでの境地にはならないという理由からも敬遠しています。

なによりも、Sati(サティ)することによって、サマタは後から自然についてくるものですからなにもサマタの瞑想をやらなくったって何の心配もないのす。

ヴィパッサナー瞑想法はいまもお話したように、悟りの世界に進んでいくことを目的としていますから、瞑想していれば自然に集中力もついてくるのです。 第一、その方がやりやすいし、簡単であることが何といっても魅力でしょう。

さて、ヴィパッサナー瞑想法をやっていると、自分にいろいろなことが見えてきます。問題は実はここにあって、いろいろなものが見えはじめると、自分が何かとてつもなく偉くなったような錯覚に陥ります。これが瞑想の効果なのかと思いこんでしまうでのす。そんなことにとらわれてはいけません。執われないで先に進むことです。瞑想をしていて、突然に自分は誰々の生まれ変わりだとか、自分には阿弥陀如来がついているなどといって、変な宗教を作ったりするのは、みなこの瞑想法の途中で体験する一種の妄想なのです。そういうものが現れてきても、「ああ、これは瞑想しているプロセスで出てくる単なる妄想にすぎないのだ」と納得して、決して執われないことです。そのまま瞑想を進めれば、いずれは徹底的に納得する日がきます。この妄想は、心の汚れ(過去の悪い想念等)の結果が現れているにすぎないのですから、構わず先に進みましょう。間違っても「ついに自分は瞑想法で悟りを開いた」とか、「ついに超能力を得た」などとゆめゆめ思わないでください。

ヴィパッサナー瞑想法はまた日常の生活のなかでも実践できる利点があります。日常、いまやっていることにただ気がつくこと、確認すること、認識することそれだけです。これは実践してみないことにはどう言うものであるかは分からないと思いますけどね。理論や理屈から真理が分かるということは絶対にありません。知的人間の欠点は、体験で分かろうとせず、頭で理解しようとするんですね。それは理解ではなく、観念的な死んだ理論にすぎないのです。

また、ヴィパッサナー瞑想法は、Meditationではなく、Bhāvanā(育てること、成長すること)ですから、この実践によってこれまで持っていた固定観念が変わっていくことが分かってきます。瞑想によって何かを遮断するのではなく、ただ実践することですから、一日24時間のなかで実践していくことが本来の瞑想のあり方であるはずですが、では私がどうして曜日と時間を決めて瞑想の指導をしているかというと、人間の心というものは、正しいことや真理というものを知りたくないとする、真理に逆らいたくなる傾向があるのです。

ですから、真理を見極めようとすると、すぐに心のなかに抵抗感が芽生えてくるのです。そうした抵抗感は自分ひとりではなかなか消し去れないものですから、こうして初歩の段階で心の本来というものを指導するために、特別な時間や場所を設けているのです。存在のなかで心は最大のエネルギーを持っていますから、心がいたんでいる、心がよこしまになっているということはそれだけ悪いエネルギーを宇宙に放散しているということです。しかもこの心の傷みは自分で直すしか方法がないのです。他人の力では直せないのです。だから、場所を設けても時間を区切ってもご一緒に瞑想して心を清らかにしましょうと言っているのです。この世が善い波動に包まれるように祈りながら。