2.テーラワーダ仏教 2
テーラワーダの真意
仏教はどこの国のどんな言葉によって伝承されていったのでしょうか。お釈迦さまが修行をされ悟りを開いて長く留まっていたところは、インドのマガタ国という国で、当時はインドも国によって言葉が違っていてマガタ国で使っていた言葉は、パーリ語という古い言語でした。お釈迦さまは自分の教えはどんな国の言葉を使って理解されても構わないと言って、事実パーリ語に留まらず幾つかの国の言葉で話されているのですが、その後完全なかたちで後世に遺されたものはパーリ語だけであったため、テーラワーダ仏教ではこのパーリ語によって釈迦尊の教えを継承していこうとしたわけです。学問的に詳しく言うならば、テーラワーダ仏教ではパーリ語の三蔵経(経律論)によるものをもとにしています。
テーラワーダという言葉の由来ですが、釈迦尊入滅200年後に釈迦尊の教えそのままを残そうとする人たちから意見を異にして大衆部という分派ができ、分かれていったことは前号でお話したとおりですが、その残った頑なに釈迦尊の教えを守っていった人たち、つまりその保守的とも言える「長老」たち(Thera)の伝承していった「教え」(vada)から来た言葉とされています。この人たちは、自分たちが正統派であるという強い信念と誇りを持っていましたから、釈迦尊の教えと違った新しい道を進もうとする若い人たちとははっきりと一線を画す意味からも、“長老仏教”と名づける必要があったのではないでしょうか。テーラワーダ仏教を上座仏教と言うのも、いちばん上座に座って教える偉い人(長老)たちという尊敬の念から生まれた表現であったと思われます。
さてパーリ語によって遺された仏教はその後、口伝によって人から人へと伝わっていきました。
書くことではなく人の頭で暗記されたものを伝えていくと聞くと、一見間違って伝えたり正しく伝わっていかないのではないかという疑念も抱きますが、長老たちの見事な分散作業で、それぞれがそれぞれのパートを責任をもって伝えさらにそれをべつの長老がチェックしていくという綿密な方法を取ったので、その誤差はまったく生じなかったと言われています。本に書き残したほうが形としてきちんと残っていくのではないかと思われる人もいるでしょうが、本に書くということはどうしてもそこに書き手であるその人の意見とか解釈が加えられますので、それが長い年月にわたって書き継がれていくうちにオリジナルな教えは形骸もなくなってしまうということが屡々起こってしまうのです。また、本というものはそれが書かれた年代が古ければ古いほど由緒があって正しくありがたいものという受け取られ方をされてしまいます。
ところが、このパーリ語によって口伝のみで口承されてきた仏教も、ついに本として形を残す必要が生じてきたのです。パーリ語による仏教の教えは釈迦尊入滅200年後ぐらいにスリランカヘと入ってきたのですが、一方でそれから100年ののちインドで大乗仏教が起こり西暦2年にはそれが中国へとわたっていくのですが、その大乗仏教は当然スリランカにも到来しました。釈迦尊の教えのみを仏教として口伝伝承をつづけてきた長老たちは、自分たちの伝えている仏教と大乗仏教が混同されいっしょになってしまうのではないかという危険を抱き、はじめてここで口承ではなく本によって教えを残していこうと考えたのでした。
最初に書かれたパーリ語教典は、椰子の葉に当時のスリランカの文字で書かれています。それは書くと言うよりも鉄のペンで文字を掘りその中にスミをいれて保存するといったほうが適切な表現になるかもしれません。誤解される方も多いかもしれませんのでここでお話しておきますが、先ほどパーリ語によって伝えられた仏教を、椰子の葉にスリランカの言葉で書き残されたと言いましたが、パーリ語には文字はないのです。そのためパーリ語教典を書き残すためには当時のスリランカ文字を用いなければなりませんでした。現在においてもイギリスではローマ字で書かれたパーリ語教典が出版され、このローマ字版の教典は日本にも入ってきました。いずれにせよ現在残されているお釈迦さまの教えの正当なものは、このパーリ語によって口承されたものしかないという事実だけは理解しておいてください。
だが、日本では仏教の言葉というとサンスクリット語というイメージがあります。サンスクリット語自体はとても古い言葉ですが、サンスクリット語の仏教教典がパーリ語教典よりも古いとは言えないのです。お釈迦さまはサンスクリット語のような学問、哲学などで用いられる特別なことばで統一されることに反対され、教えはその国々の人々の言葉で伝えるように言われていたので、サンスクリット語の教典は元々はなく、後にお釈迦さまの教えをサンスクリット語に翻訳したものなのです。そのときに多くの教典が新しく作られ、中でも日本に伝えられたサンスクリット語による大乗仏教の文献は歴史が新しく、釈迦滅後600年頃に成立したものと言われます。
こうした歴史的な事実からサンスクリット語による教典は釈迦尊の直接の教えではなく、また釈迦尊の教えをじかに伝えるものばかりでもないことははっきりしています。
そのため、釈迦尊の直接の教えを学ぶためには、どうしてもパーリ語による教典に求めるほか方法がないのです。
パーリ語によって教典が残されたことにより、私たちは今日でも当時の言葉そのものによって仏教が勉強できるのです。
もし、これが書き残されていく後世の言語や人の手を借りたものであったとしたら、それらは代が変わるとともに言葉自体の意味も変わってしまうだろうし、宗教の内容自体も時代とともに変化していってしまったことだろうと思います。
パーリ語によって仏教が勉強できるという最大のメリットは、釈迦尊没後2500年経った今日でも釈迦尊の直接の教えを第三者の介入なしで、まるでその謦咳に接する如くに得られるということでしょう。
パーリ語によって遺され、パーリ語に基づくテーラワーダ仏教は、実証的で、実践そのもので、また実に合理的と言えます。そこには迷信の類や形而上学的な概念などいっさいなく、むしろ科学的に宇宙の真理を理解するというものです。科学的に実証しそれを理解するという意味では、テーラワーダ仏教は信仰とは一線を画するものと断言していいと思います。実証できるものは信仰の対象とはなりません。真理を知るわけですから、信仰ではなく実践あるのみです。
日本は多種多様な宗教の入ってきている国ですが、しかし仏教国と言っていいのではないでしょうか。自分が好むと好まざるとに関わらずどの家にもたいていは仏壇があり、真言宗やら浄土宗やらに属していて、家族が死ぬとその宗派のお坊さんが来て葬式が行われます。しかしこの国では、なぜ仏教がこれほどまで多種多経を数えるほど、混乱を呈してしまったのでしょうか。
日本の仏教は大雑把にいえば大乗仏教を中心としてその歴史を歩んできました。大乗仏教が日本人に果たした精神的かつ生活にとけ込んだ影響はとてもひと言では言い表せないように思います。
その役割の重大さ、価値観に異を挟むものではありません。今日では大乗仏教は日本の文化のシンボルの一つといっていいでしょう。人々が寺に足しげく通い、先祖を供養し、信心深くなっていったのは、この大乗仏教の偉大な精神文化の成せる術であることは疑うことなき真実です。
しかし、そこまで仏教の深さを精神の糧にしてきたのなら、釈迦尊の教えまで逆上り勉強、研究したらどうだろうというのが私たちの考えなのです。現代の大乗仏教思想を土台とした日本には、残念ながら根本的な釈迦尊の教えは入ってきていません。それだけに最初から釈迦尊の教えを知っておけば仏教がより分かりやすくなり、いろいろと迷うこともなくなってくるものと思います。釈迦尊の教えを知った上で、もう一度仏教というものを捉えてみると、またべつの見方ができるのではないかとも思います。
日本でこれほどまでに仏教が混乱してしまった背景には、釈迦尊の教えが、それを学んだ祖師の解釈を基に伝えられたため起こった言ってみれば必然のことなのです。釈迦尊の弟子を自認する祖師が自分で理解した自分の“仏教”をその弟子たちに伝え、またその弟子たちが自分の見解で改訂していく。
そうしていくうち釈迦尊の教えのどれが正しいのか、どこまでが釈迦尊の教えなのか分からなくなってきてしまい、論争となり、やがてさまざまな宗派となって訣別していく一一それがこれまでの日本の仏教の歴史でした。
テーラワーダ仏教では先生はいません。どんな時代になっても、どれほど時が経過しようとも先生はただひとり、釈迦尊のみです。弟子と言われる僧はいますが、教えるのは常に釈迦尊の教えだけであり、そこに比丘としての自分の意見や解釈が入り込む余地はありません。先輩の比丘を先生と呼ぶことはあっても、その先生は弟子たちに釈迦尊を結びつけるだけが重要な役目なのです。どんな人にも、どんな弟子にもだれでも釈迦尊に結びつけることがテーラワーダ仏教のやり方なのです。ですから、いまから1000年前も、500年前でも比丘たちはまったく同じことを、釈迦尊の教えだけを伝えているのです。
しかし、文明が加速度的に進み、人間の生活習慣も変貌していっている今日、なぜテーラワーダ仏教の比丘たちは釈迦尊の時代と変わらずに生き、その命脈を保ちつづけられたのでしょうか?
それは比丘たちが社会と関わりをもったとき、戒律を犯さない範囲で社会とうまくとけ込んだからなのです。社会のニーズに応じていったからなのです。つまり、釈迦尊の教えには時代を超越した真理があったため時代の変化というものにいささかの懸念も不必要であったことの、これは見事な証明と申せましょう。弟子から弟子へと受け継がれた教えであれば時代の変化による比丘たちの生活変化もまた止むなしということでしょうが、比丘たちの生活は常に仏説である戒律が基本となっていますから、時代が激変しようとその生活は変化しません。それだけ、釈迦尊の教えの真理の絶対性がここに脈々と今日まで息づいているのです。