根本仏教講義

4.死んだらどうなるか 2

人間以下の生き方から人間らしい生き方へ

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、もし来世がなかったら、悪いことをした人はどうなるのか、また来世があったらどうなるのかという話題でした。いずれにせよ、並々ならぬ苦しみを受けるだろうというところまでお話ししましたね。

では、今日はその逆を考えてみましょう。逆の場合はどうなのでしょうか。ある人が、殺生もせず、盗みもせず、慈しみの心を持ち、自分の持っているものは分かち合い、布施の行為を続け、またよこしまな行為はせず、欲はちゃんとコントロールして、嘘を言わず真実を語り、うわさ話をせず、無駄話をせず、人の平和のため、人が仲良くするために言葉を使い、意味のある言葉をしゃべり、危険な概念や哲学、思想を持つことなく、余計な怒りと余計な欲を捨て、正しい考え方を持って生活したとしたらどうなるか。人々から 「素晴らしい人だ、信頼できる人だ」とほめられ、信頼される。その人の今世における人生が、どんどん幸福になってくる。仕事をしても、社会に入っても、誰もが皆信頼してくれますから、幸福になってくる。

それではもし、来世があったならどうかというと、当然ながらその人は良いところに生まれ変わるんですね。ですからその人は2倍勝てる、今世においても勝ちを得て、来世においても勝ちを得るんだということです。負け知らずですね。

結論は、来世があろうとなかろうと、あなたの今世における生き方を問いますよ、ということなんですね。

つまり、来世があるかないかということにはそれほどこだわる必要はないのです。

来世があるならお寺に来てお経をあげます、そうでなければ来ません、というのは良くないということなんです。来世があってもなくても清らかに、正しい生き方をすることが素晴らしいことなんです。泥棒やったり、銀行強盗やったり、不倫したりして暮すのは、どんな馬鹿にもできることで、決して素晴らしい生き方であるとは言えません。素晴らしいのは、来世があるかないかなどという証明できない考えに頭を悩ませている間に、確実に正しい生き方をすることです。

たとえば、お寺の経営に必要だからという理由で「お布施をしなさい」という宗教がある。しかし人は御利益がなければ、なかなかお布施をするものではない。そこで御利益の話にどんどん入って行ってしまうんですね。

しかしもし、「御利益があるのだとしたらお布施をしましょう」という考えでお布施をしたとしたら、それはお布施にはならないんですね。今、五千円お布施したら来世において一億円もうかるんだ、と言われてお金を出しても、それはただの欲で、まるで悪い商売のようなものでお布施とは言えないのです。正しいお布施というのは、来世があろうがなかろうが行うお布施であって、訳がなくとも人を助けることは素晴らしいことだと感じてすべきことなのです。

たとえば、ご飯が食べられなくてお金がなくて困っている人、自分の力で収入を得ることのできない人がいたとします。そこで「来世に見返りがあるなら、この人にお弁当をひとつ買ってあげます」というのはとんでもない話なんですね。

来世があろうがなかろうが、その人が苦しんでいることは事実なのです。正しい人間というのはそのとき見返りを考えるのではなく素直な気持で「どうぞ、この弁当を食べてください」と言える人なんですね。そこでその人がありがたがっても「いいんだいいんだ」と言うことなんですね。自分はこういういいことをさせていただいているのだ、という気持でやるならば、それは本当に立派な生き方だといえるでしょう。

私は、仏教のどんな宗派も否定しませんが、そういう話をした方がいいんじゃないかと思うのです。来世や天国や極楽の話などはさっさとやめた方がいいと思うのです。

来世や天国があってもなくても、立派に人間らしく生きる、あるいは人間を越える生き方をすることこそ、何よりチャレンジすべき生き方なんですね。そうすれば、来世があろうがなかろうが、自分が勝てる。もし来世があれば2倍勝てるわけですから。

一生、ただ食うことだけ、食って寝ることだけに精を出していても人生はそれで終わってしまいます。何の大切なこともせず、くだらない人生を終えてしまうのです。

「仕事をしています」と言う人があるかもしれません。しかし、仕事は何のためにやっているのでしょうか。家賃を払って、食べて、寒いから服を買って、便利だから結婚して、寂しいから子供を作る。それだけのことですよね。そんな大胆なことではありませんよね。

おかしいのは、人間はそれがすごく大胆なこと、大変なことだと思っているということなんです。僕は情けないことだと思っているんですね。

仕事をするというのはそんなに大変なことでしょうか。そうじゃない。子供を作ること、育てること、それも簡単なことなんです。そんなことは犬でも猫でもミミズでもやってますよ。

私たちは一体ミミズより、どこが偉いんでしょうか。ミミズもちゃんと仕事をしてご飯を食べていますよ。ミミズだってやっぱりがんばらなくては食べられませんから。ちゃんと交尾して卵を産み、それが正しく育つようにしてやる。鳥なんて見てごらんなさい。一生懸命子育てをしているではありませんか。いろんな種類の鳥がいますが、ある種の鳥が卵を温め始めたら全然巣から離れません。そうするとお父さんが大変ですね。毎日巣まで餌を運んであげる。卵がかえったら、ますますお母さんが出て行けない。雛が大きくなるほどお父さんは、一生懸命餌を探して、家族全員の分の餌を運ばなければならない。

それもこれも立派なことでもなんでもないんです。猿も、自分の子供に、何を食べたらいいか、どのあたりにどういう危険があるのか、目上の人にはどういう風に挨拶するのか、全部ちゃんと教えています。

人間は、自分の子がちょっと言うことを聞かないと「ああどうしよう、どうしよう」とカウンセラーのところへ走ったりして、まったく猿知恵がないというんでしょうか。

我々は偉そうに、生きているんだ、高層建築を造って、こういうものを作って、と言いますけれども、面白いことに日本では銀行が倒産するんですよ。一番知識のある、経済的にも能力のある、賢い鋭い人々が銀行の責任者になるはずなんですが。あんな膨大な金を動かしている銀行が倒産する、皆様の貯金も大変あやうい状態になる。おかしなことですよね。猿にも劣る知恵しかなくて威張るんじゃないと、私は言いたいんですね。

そういう人生をやってきて、突然自分の子供が亡くなってしまったら、また奥さんが亡くなってしまったら、旦那さんが亡くなってしまったら、これはもう頭がおかしくなってしまうんですね。狂うのもまあ、当然のことです。それまでも既に狂っていたわけですから。

そこで葬式となって突然お寺に走ってくる。日本のお坊さまは大変です。この困った人を何とか慰めてあげなくてはなりません。しかし慰めてあげようにもその人に常識がないと大変なんです。

悩んでいる人を慰めてあげるのはお寺の仕事だということはわかっているのです。苦しんでいる人を何とか助けて精神的な力をつけてあげるのが我々の仕事なのです。二千年、いえ、もう二千五百年ばかりこの仕事をやっているのですから。

それにしてもミミズにもできることさえできない人が来て、「何とかしてください」と言ったとしても、もうどうにもならないんですね。

ですからやっぱり、何かひどい目に遭うまでまたないで、その前にまず、人間らしく生きていることが大切なんです。そうすると、他の問題は全部解決するはずなんです。

では人間らしい生き方とは何か、人間を越えた生き方とは何かについて少し考えてみましょう。

人間らしい生き方とは、誰にでもできることをやることではないのです。たとえば、お金がないからと、人をだましてお金を取るというのは人間らしい生き方ではありません。また商売をして、それでボロ儲けをする、それも人間らしい生き方とは言えません。なぜなら、そこには非常にレベルの低い心がある。「自分さえ良ければいい」という低い心ですね。そうなると人はすぐ、盗みに走ってしまうんですね。

銀行で偉い管理職についている人も泥棒するし素晴らしい政治家も泥棒する。泥棒というのは、銀行強盗やスリをやることだけではありません。デパートに行ってちょっと万引きすること、あるいは自分の家でない家に入ってそこにあるお金を持っていくこと、それだけが泥棒なわけではありません。自分にふさわしくないお金を持つことは泥棒なのです。自分の給料以外に何とかごまかしてお金をもらったとしたら、それはもう正真正銘の盗みなのです。たとえば証券関係の仕事をしているとします。証券取引所などでね。そういう人々は、色々やってはいけないことが決まっているんですね。自分で株を買って操作したり。そういう人々は情報を知っているわけですから儲けようと思えばすぐに儲かるんです。でも、そういうことをするのもやっぱり泥棒なのです。

また、政治家には力があります。そこでその力を使って色々なことをして、そこに謝礼やなんかをもらう、それも泥棒です。力のある企業人が、下請けさんから御中元やまたお金をもらっていくらかの便宜を図ってあげるというのも同じことです。訪問販売でまったく効き目のない薬を、すごい効果のある薬だと言って売り込んだりするのも泥棒です。

我々はそのようなことをよくやっていますよ。全然身に覚えがないという人でも、心に聞いてみた方がいいんです。あるはずです。盗むなと言った途端、皆さん、何か顔を隠して道具を持って家の鍵を破っている人を想像するかもしれませんがそれだけじゃないんです。ちゃんとネクタイをはめて、高級なタイピンを付けてやってるんです。
男性も女性も。だいたい我々は人間以下のことをやっているんですね。

なぜなら動物は泥棒をしません。動物にはそういう概念もないんです。のら猫は盗んでいるじゃないかと? いえ、それは盗みではなくて仕事をしているだけなんです。のら猫は生きていくために自分で餌を確保しなければならない。たとえば忘れっぽい奥さんが、用意した魚をそのままおいて窓を開けてテレビを見ていたとします。猫にすれば餌があるわけですから、いただきますと言っていただいて帰っちゃうんですね。奥さんが泥棒猫だと追っかけて、何か石でも投げて窓ガラスを割ってしまったりしてさらにまた怒っちゃう。自分の落ち度を棚に上げてね。猫は決して泥棒をしているわけではないんです。でも人間はやっています。嘘をついたりね。我々はそういうことをやめてまず人間らしく生きなくてはなりません。

仏教はそれをとことん教えるべきだと私は思います。「あなた方は猿だ、人間じゃない、人間になりなさい」と。日本のお寺の状況ではそんなことを言える状況じゃないと思いますが。一生に一回か二回、人が死んだときしかお寺に来ないんてすから。悪いのはお互い様ですね。(以下次号)