根本仏教講義

4.死んだらどうなるか 4

死ぬ瞬間をどう生きるか

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「生きていたい」「死にたくない」という衝動、エネルギーがものすごく大きなものであるということを先月お話しました。
人殺しでさえ、自分が生きていきたいからやるものです。そのことによって自分が消える、大変ひどい目に遭うとわかっていれば人殺しもしません。人殺しも銀行強盗も、それによって自分が幸福になると思ってやっているのです。

この「生きていきたい」「死にたくない」という強烈な衝動がある限り、我々はストップすることが嫌でしょうがない。死ぬ瞬間でも、「バイバイ、さよなら」と死ぬことはできない。死ぬときでさえ、1秒でも生きていたいと思っている。ですから死ぬ瞬間は、失望で死ぬ。「ああ負けた」と。「ゲームオーバーだ」と。

ゲームセンターにいらっしゃった経験があるでしょう。100円、200円を入れてゲームをやっているとすぐ「ゲームオーバー」って出てくるんですね。上手な人は何分かもつかもしれませんが、でもいくらもっても、いつか「ゲームオーバー」という文字が出ます。でも、またやりたいんですね。お母さんたちが子供とそういうところに行って、100円あげると、それで遊んですぐ「ゲームオーバー」でしょう。それで子供は満足しないわけですから、「お母さん、もっと、もっと」とねだられ、もうひとつ100円をあげなければならなくなりますよね。

死の論理もそういう論理なんです。死ぬ瞬間に「ゲームオーバー」とサインが出たら、「まあよし、負けた、終わった」と覚悟を決めればいいのに、やっぱり悔しいんですね、その瞬間。からだの方は事切れるのに、「生きたい」というエネルギーは爆発している。ですからその「生きていきたい」という強烈なエネルギー、パワーは、そこから違う形でまた続かざるをを得ないのです。お経で言うような、死んだらその人の魂があの世にいる、ということじゃないんです。単なるエネルギーの連続性であって、ただ連続していくだけなんです。

そこで「輪廻転生」の話になると、一般には正しく理解されていないことも多く、やっぱり皆、良いことをして良いところに生まれ変わりたいと思っている場合が多いんです。でも、もし自分がここで良いことをしてどこかで良いところに生まれ変わったとしても、それほど実感はないわけです。皆さんに前世の記憶がないように。その幸福を得られるのは、結局他の人なんです。

輪廻転生の話を今していますが、初期仏教の立場からいうと一回で成仏する、という話ではないのです。輪廻の中で、生まれて死んで、生まれて死んで、ずーっとグルグルグルグル回っているという話なのです。解脱を得るまでずーっとです。

今、皆さんはとても幸福でしょう。日本で生まれて、食べるものに困ることはないし、平和でお互いに戦うこともないし、仕事をすればお金は入るし、仕事できない場合は年金で生活できるし、何も問題はない。その楽な生活は、やっぱり過去生で何か良いことをしていなければ得ることができないんです。つまり、過去生で或る人が一生懸命良いことをして、今皆さんがその幸福を得ているんですね。でも、自分が何か過去生で良いことをした、という実感は全くないでしょう。ということは、輪廻転生なんて、それほど気持ちの良い話でもないんです。がんばった分、それが報われてうれしい、というような充実感も喜びもないわけです。単なるエネルギーの繰り返し、ひとつのエネルギーが消えると、それに見合ったエネルギーがどこかに生まれてくる、ってことだけです。これらの働きは、説明がとても難しいんです。

死ぬ瞬間のことから考えてみましょう。私たち人間には、体と心がある、と思っていますよね。つまり脳細胞と神経の働きと、体という物体の働きということです。しかしこのふたつは、死ぬときには「この世」に置いていかなくてはならないのです。たとえば、皆さんはものすごく勉強しておられるかもしれません。博士号を2つ3つ持っておられるかもしれません。しかし、それらの教育知識はすべて、体のものなのです。体が壊れてしまったらなくなってしまうものなのです。知識も体も脳みそも、死ぬときにはこの世に置いていかざるを得ません。持っていけないんです、もったいない話ですが。

それより、人間として生きる衝動、生きるエネルギーみたいなものだけが、来世に継続されるのです。「生き方」というのでしょうか。

どんな大学でどのくらい勉強したか、といったことはもう関係ないわけです。関係があるのは、わかりやすく言うならいわゆる「人格」です。

たとえば死ぬ前にりんごを食べた。もうひとりは食べなかった。重要なのはりんごを食べたか食べなかったかということではなく、りんごに対しあなたがどんな態度を取ったか、どういうアプローチがあったか、ということなんです。

愚か者も賢者も、金持ちも貧しい人も、死ぬときは同じ、というのはそういうことです。あなたが自分の生き方に対し、どういう態度を取っていたかということで来世は決まってくるということなのです。ですから我々の「生き方」がとても大切なのです。貧しいのかお金があったのかということ、良い大学に入ったか大学に入らなかったかということ、死ぬとき赤ちゃんだったか大人だったか、そういうことはまったく関係ない。ある意味で、子供が亡くなったら、来世には結構良いと思います。なぜなら子供には、それほど徹底した執着や欲がありませんから楽に死ぬんです。そして良いところに生まれ変わる可能性も大人より多いんです。

たとえば、いろいろと問題の多い人が、いろいろなところでいろいろな商売をやっていて、大変忙しい。社会的には大変有名で、名誉があって、財産がたくさんある。しかし24時間忙しくて、死ぬときに死ぬ暇さえないんです。「あれやらなくては、これもやらなくては」と、病院に電話を2~3本持っていって、秘書付きで入院するようなね。そういう人を私は見たことがあります。そこで死んじゃったら、良いところに行くと思われますか。行けないんです。なぜかというとものごとにものすごい執着をしているんです。アプローチが良くない。そんなわけで、とにかく死ぬときには我々の勉強も知識も財産もほとんど役に立ちません。

知識や財産とともに体が役に立たないことはよくわかりますよね。死ぬということは、とりあえず体が壊れることを指しているわけですからね。

しかし心は壊れません。死ぬ瞬間でも心は自由に活動できるのです。ものごとに対するその人のアプローチによって、心のエネルギーは活動を始めます。

一例をあげましょう。小さいときから「人が亡くなったら阿弥陀様が迎えに来るんだ」という話を聞いていて、信じていたとすると、死ぬときにもいくらかはリラックスできるかもしれません。そしてその人の最期の瞬間には、自分の頭の中に定着された概念である「阿弥陀様」が見えるかもしれません。それはとても気持ちのいいものであるかもしれません。また、あまり宗教に関係なく生きてきて、阿弥陀様の絵くらいは見たことがあるという人が、ある瞬間に「阿弥陀様」を見たとする。そうするとその人は怖くなるかもしれませんし不安になるかもしれません。「あれ、私はこれで死んでしまうのではないか」と。またとてもびっくりするかもしれません。その、気持の動きによって次の来世が決められるのです。

本当の再生の法則はとてもややこしいのです。なぜこういう話をするかといえば、チベット仏教には「死者の書」という、どうでもいいような本がありまして、「死後はああなる、こうなる」ととことん人に教えてあげるんですね。日本でも最近人気がありますが。

そういう概念を頭に入れてしまうと、現実に心に映ってしまうんですね。体がある限りは、たとえば阿弥陀様を見たいと思っても皆さんには見えません。体に邪魔されているのです。でも、体から離れたら、阿弥陀様でも悪魔でも神様でも、何でも見えるんです。なぜ見えるかというと、心をそのまま造ってしまうからです。自分で自分を認識するということです。そして、自分の認識の中で造ったものに対して、自分がどんな態度を取るかという、そのエネルギーによって来世は決められます。ですから私が言いたいのは、最期まで安心するな、ということなのです。たとえば、死ぬときに阿弥陀様を見ても「ああ、良かった、これから極楽道だ」と安心するのではなくて、最期まで心の成長は続けていくものだということです。

私は「チベットの死者の書」のなかに書かれている、間違った法則をたくさん見つけました。彼らの言うことは表面的には正しいんですね。たとえば人が死んで、悪いところに生まれ変わったら困る、そこで、頭にしっかりとあの世の良い概念をたたき込んでおこうとするんです。たたき込んで幻覚が現れると、何とか良いところに生まれ変われるのではないか、という狙いなんですが、そこは良いのですが、それだけではやっぱりだめなんです。

日本でこんな経験をしたことがあります。ある日、自分の国から帰ってきた日だったんですが、電車を降りていくとお母さんがちっちゃな女の子を抱っこしていたんですね。1歳くらいかな、よちよち歩く程度の赤ちゃんでした。その子が私を見た瞬間に、いきなりものすごい親近感を持ったんですね。本当は変な人を見たら怖くなったり驚くのが普通ですけど、そうではなく強い親近感を感じているんですね。子供は抱っこされて後ろを向いていますが母親は前を向いていますね。私は後から見ていて、その子供の気持ちが分かったんですね。私は、この子とコミュニケーションしなくちゃ、と思いました。それで、言葉ではなくてとにかく、子供の心と私の心が通じ合ったんですね。すると子供はさらに元気になって、反射的に母親から降りて私のところに来たがるんです。母親は、私と話していることさえ知らない。子供が降りてしまって、うろうろしはじめて、私の姿を探し、追いかけていることに気がついたお母さんは、すごく怖くなって、すぐに、子供を引っ張って他のところへ行ってしまったんです。

この2人は、私という、同じ対象を見て、まったく正反対の態度を取りました。子供は前世で死んでから間がないわけですから、前世の記憶が何かあったことだろうと思いますし、逆にお母さんは人生を長く生きていますから、日頃接することのない宗教には恐れがあった。そういう人はやっぱり、死ぬときには少し危ない。死ぬとき、もし間違ってでも阿弥陀様がその人の前に現れたらどうなるでしょう。私も阿弥陀様に会ったことはないですから、阿弥陀様がそんな馬鹿なことをされるかどうかわかりませんが、阿弥陀様も冗談で、この人にも顔を見せてあげようと現れたら、このお母さんはすごく怖がっちゃいますよね。怖がったらその怖い波動にふさわしい次元に落ちます。

何教を信じるかという問題ではありません。最期にとる態度のことは、普遍的な間題です。お釈迦様はとにかく、「落ち着きなさい、心を乱すことをするな」とおっしゃっているのです。(以下次号)