根本仏教講義

6.心の働き 2

不幸の原因

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、幸せになる心と不幸になる心の違いのお話を始めたところでした。自分でコントロールできる心の側面と、できない側面があってまず、自分でコントロールできる心の側面については自分が責任を持ってコントロールしていかなければならないし、それは可能だということをお話しました。

自分でコントロールできる心の部分

現代社会では、皆さん、健康に興味がありますから、健康のためと言えば何でもやろうと思いますよね。どんな運動、スポーツでも、いろいろと話も聞いて、自分でも一生懸命に取り組むんですね。なぜそうするかと言えばやっぱり「自分の健康は自分で作らなければいけない」と考えているからではないでしょうか。「私のからだが悪くなったのはあなたのせいだ」とは言えませんからね。たまにそんな馬鹿なことを言う人もいますが。親のせいだとか人のせいだとね。

しかし、たとえば自分のからだが弱くなってきたら、自分で自分の体をコントロールするしか仕様がありません。たとえばアルコールをやめる、タバコをやめる、甘いものを控える、また、運動量を増やす-そのようなことは自分の意志でやっていること、やれることなのです。そしてコントロールすれば健康的になれるわけです。

もっと単純にいえば、自分の意志に反して手を挙げることができるかということです。気持としては膝の上で手を結んでおきたいのに、その意志に反して、手を挙げてみてください。それはできないことですよね。手を挙げるときは「手を挙げたい」という気持がそこに働いているのです。お風呂に入りたいと思っている人がカバンを持ってネクタイを締めて外に出かけるということはありえないのです。痴呆の人は別にしてね。

でも痴呆の方々にしても、決して変なことをしているわけではありません。たとえば女性の方が痴呆になったら、炊飯器に米を入れて、それを洗うこともなくそのままコンセントにさすようなことがあるかもしれません。まわりのものは「おばあちゃんは、痴呆になってしまって困ったな」と思いますが、本人は別におかしな行動をしているつもりではないのです。脳細胞のある部分が死んでしまっていて、わからなくなった部分はあるけれども、これまで生きてきた間ずっとやっていたことなので「ご飯を炊かなくてはならない」という思いは出てくる。しかし「米をちゃんと洗って、適量の水を入れなければならない」という部分は働いていないのです。あるいは米を入れた瞬間に、コンセントをさすことに意識が向うかもしれません。そのあたりのコントロールがないだけなのです。意識の全部を総合的に管理してくれる中央の脳細胞の回路が壊れていることからそうなっているわけです。その場合も本人は自分の意志でやっているのです。

ヴィパッサナー瞑想の経験がある方には、よく理解していただきたいのですが、瞑想中に、ちょっとからだを動かすことがありますね。痛くなってくるとすぐからだを動かしてしまう。
そういうことも、全部自分で、意志で考えてしていることですよね。同様に、社会的に「幸福になった」あるいは「不幸になった」また「混乱だらけで困っている」といろいろ感じることも、すべて自分の心が、自分の意志でやっていることなのです。ものの判断はわかりやすく言えば「自分のおかげ」か「自分のせい」かどちらかなんですね。幸福な人には、そうなりたいという「意志」が働いています。同様に、不幸になりたいという「意志」の働きで、人は不幸になってしまうのです。

幸福になりたいならなればよい

人間が幸福になりたいと考えるのはごく普通の気持です。お釈迦様は「すべての生命は『幸福になりたい』と思っている」とおっしゃっています。

Sukhakāma(スカカーマ)というパーリ語の言葉があります。Sukhakāmāni bhūtāni(スカカーマーニ ブーターニ)というのは法句経に出てくる文句ですが、いろいろなところに出てきます。bhūtāni(ブーターニ)というのは衆生、生きとし生けるもの、という意味で、Sukhakāma(スカカーマ)とは、幸福を願っているということです。つまり「幸福を好む生きとし生けるもの」という意味なんです。つまり人間だけではなく生命はみんな、自分の幸福を願い、希望しているのだということです。

しかし幸福と一言で言ってもいろいろな幸福があり、100人いれば100人の幸福があり、また、人間と動物ではまた幸福も違います。ですから「私が幸福だと思うことはあなたにとっても幸福だ」ということは言えません。とにかく各人がそれぞれに考えた自分なりの幸福を願っているんですね。

そこで私が言いたいのは、そんなに幸福になりたければなればよいではありませんか、何をあれこれとばかり文句を並べているのですか、ということです。
大変わかりやすい言葉だと思われませんか。

「幸福になりたいのですか」「なりたいです」
「ではなってください」--そう言うとなかなか納得してもらえませんが理論はそういうものなのです。幸福になりたいなら、自分のその「幸福になりたい」という意志で行動すればよい、そうすれば幸福になる、というのはごく普通のあたりまえの論理なのです。

幸福を願う意志は全て幸福に結びつくか

ではなぜ不幸になる人も出てくるのか、ということを考えてみましょう。生命にはすべてことごとく「幸福になりたい」という希望があるのにみんながみんな幸福になるわけではない。
なぜ一部の生命は幸福で、一部は不幸で、また一部は半々で、幸福なのか不幸なのか中途半端でわからない。それはどういうことなのか。もし生命がそれほどに幸福を願っているならば、意志のとおり幸福になるはずではないのか、ということです。

合理的、科学的に考えてみたいと思いますが生命は自分の意志で行動しているわけですね。
そして生命の意志は「幸福になること」だ。それならば、行動する生命は幸福になれる。それが単純計算の結果ですよね。自分の意志で行動すればそれと同じ結果が得られるのですから。

お煎餅を一枚持って、それを食べたいと思う人は煎餅を口の中に入れます。決して鼻の穴に差し込もうとはしないんです。「鼻の穴もからだの中だからいいじゃないか」と差す人はいません。「煎餅を美味しく食べてみたい」と思う人は「それは、口に入れるべきもの、かむべきもの」とちゃんと知っていて、自分の意志で口に入れ、かみ、飲み込んで、その幸福を味わいますね。その場合はわかりやすいのですが、「煎餅を食べてみたい」という幸福論があって、それを実行する。そして幸せになる。そのようにもしすべての生命が「幸福」を願っていて、その意志に基づいて行動するならば、どんな行動をしても幸福につながるはずなのです。ではなぜならないかということなんですね。

不幸の原因

仏教用語でよく使う言葉で「怠け」という言葉があります。ālasiyam(アーラシアン)という言葉です。この言葉についてお釈迦様は「それをやったらもう何も実現できない」ということをしっかり教えています。人間がだめになる、生命がだめになる原因のひとつとしてālasiyam(アーラシアン)という、怠けがあるというのです。それは大変わかりやすいですね。若い人がなぜ勉強しないか、主婦が家庭の仕事を十分にしないのは、会社でうまくいっていないのはなぜかというと、怠けているということが出てきます。

そうすると自分の行動はうまくいかないのです。しかしそのように指摘すると「自分は怠けているわけではない、しっかりがんばっているのにうまくいかないんだ」という人がいます。
まあ、堂々と怠けている人であれば「怠けている」ということがわかりやすくていいのですが90%の人が「冗談じやない、失礼なことを言うな、私は朝から晩まで休む暇もなくがんばっている」と言うのです。それはどういうことかというと、怠けをごまかしているのです。

怠けは結果を見ればわかる

「がんばっている」というのは、怠ける人のずるい部分で、怠ける人はよくがんばってしまうのです。それを見抜くことはなかなかむずかしいことです。

私が、昔若い坊主たちを教えていた頃、みんな一番悪い、いたずらをする歳の男の子ばかりだったんですね。いつも大騒ぎでうるさくて、いくら言っても言うことを聞かない。24時間怒りっぱなしでいなくてはならない状態だったんですね。その中にひとり、いつ見ても本を読んでいる坊主がいたんですね。全然遊ぶこともせず、みんなが寝ているような時間にちょっと部屋をのぞいても、本を読んでいるようなタイプだったんです。

ところが他の坊主たちは遊んでばかりいてもだいたいいい成積をとっているのに、その坊主はいくら本を読んでも10点20点とるのが精一杯なんですね。もちろん、脳に障害があるとかそういうことは一切ないんです。家庭の問題もなく、健康なからだ、健康な頭なのです。それで普通の坊主たちの10倍も本をかかえ込んで手から離さないんですね。それでも結果は悪い。

私はこのケースを見て「正真正銘の怠け」だと判断しました。

他の坊主たちは、いつも遊んでいたずらばかりしてるので、その上宿題もやっていないととんでもないことになると知っているのでその辺はきちんとやっている。
「遊びたい」と思う分遊んで、その分を後でがんばっているのです。

ずっと勉強している坊主ほ、本当は私たちの言うことを理解しようとしない。私たちが教室で一生懸命しゃべっても、じっと聞いているが理解しようとはしていない、そのかわりに理解しようとしていないことをごまかすのです。

他の子供たちは勉強しながら隣の友達に鉛筆でさしたり足でけったりするので先生は怒る。だから「ちゃんと聞いて、しっかり勉強しなさい」と言われないようにちゃんと聞いている。

本を手放さない坊主は、ただ聞いている格好をつけて「よく勉強している」と、自分をごまかしている。実は自分の心の怠けを自分でごまかしていたんですね。

もしその坊主が、「一応読んでみたけれどよくわからない、授業を聞いてもさっぱりわからない」と覚悟を決めて私に言ってくれたら、私はその人のために何か別の方法を見つけるんですね。それなら私は「その人の脳細胞がなぜ動かないか」と原因を探れますし、何か他の方法を教えることもできたんです。でも、勉強ばかりしているわけですから手に負えません。

よくがんばる人がいます。一生懸命にがんばる、だけれども結果は無茶苦茶。そういう人がいたら気をつけてください。いくらからだを壊すところまでがんばっても結果が悪いなら「怠けている。どこかで自分をごまかしているのでは」と考え直してみてください。(以下次号)