根本仏教講義

6.心の働き 6

自分の殻を抜け出す方法

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、人間を不幸にするエネルギーの4つめ、kukkhucca(クックッチヤ=後悔)についてのお話を始めたところでした。後悔をするときはやる気がなくなり、心とからだの活動力が、止まってしまうという話をしました。

「後悔」は猛毒である

たとえば、何か仕事を頼まれたとします。その仕事にはちょっと勉強が必要になる。そこで「やっぱり勉強しておけばよかったなあ」と思うということは、今の仕事をやりたくなくなっているということなんです。「やれない」と、思っているということですから。ですからアクティブではなくなってしまうんです。我々の持つ活発な生きるエネルギーが消え、活動が止まるのです。「活動したい」という心のエネルギーがいきなり止まる。ですから、後悔というのは、毒なのです。

そして、その毒、そのウイルスが入っていると、危ないのは、人間は後悔することで、死ぬほどの失敗をすることがあるのです。

我々がやってきたことを片っ端から思い出してみると、ひとつも「うまくいった」ということは出てこないと思いますよ。うまくいったように見えても、ちょっとは何かあるんです。

たとえば会社を作って、ものすごく頑張り、軌道に乗って、大きく成功したとします。それでも「バンバンザイだ」とは思わないのです。
悪いこと、きつかったこと、会社が成功するために自分がやったことがいくらでも出てくるんです。いやな人にあったこと、つらい日にあったことetc…。人間がやることは完壁ではないのですから「後悔しよう」と思えばいくらでもあるのです。それで後悔することによって、我々は活動しないための言い訳をするのです。後悔は、とても暗いエネルギーで、猛毒といえば猛毒なのです。

しかし「人が何か悪いことをしたときに、後悔するのはあたりまえではないか」という方もあるでしょう。でも後悔して、何かいいことがあるでしょうか。何もありません。ただ活動力がなくなるだけなのです。

また、後悔すればするほど、この悪いエネルギーは膨張するのです。それはもっと危ない。
そしてさらに後悔するようになります。大変に重い、精神的な病気になってしまいます。

では、後悔の反対はというと、明るくすることなのです。

失敗したらどうするか

たとえば人に、「あなたは大変な失敗をしたのではありませんか」と言われたら、「そうなんです。これこれこういうことで馬鹿なことをやってしまいました」と、ものすごく正直な気持で、堂々とそれを認めればよいのです。
「それであなたは恥ずかしくないのですか」と言われても「恥ずかしいですが、やってしまったことですから仕方がないでしょう」と、それだけのことです。

「では、これからは気をつけますか」とか「しっかりやりなさい」とか、人は余計な説教をしますが、本当はそんな必要はないのです。会社などでは「あなたは今、大失敗しましたから、これからはちゃんと気をつけなさい」と、上司に言われるでしょう。しかし、本人が自分の失敗を認めているならば、その言葉は余計なのです。なぜなら「私は、この仕事を失敗します」と思って、仕事に取りかかる人はいないのですから。料理するときに「これから大失敗の料理を作ります」という人は、いますか。いませんね。

誰であっても、「きちんとやろう」という気持は常にあります。学校の先生や、会社の上司は、余計なことを言っているだけなのです。それでみんなストレスがたまって、うまくいかなくなるのです。余計な説教はやめた方がいいのです。人は誰でも「失敗したい」「まずいことをやりたい」とは思っていません。行動するとそういう結果になるだけなのです。でもそれはちゃんと理解しないと、次から次へと失敗してしまうので、うまくいかなかった結果は、明るい心で正直に認めてしまうことです。

たとえば、なかなか男性に好かれない若い女性がいるなら、それをごまかすのでなく、「あなた方は全然私のことを気にしてくれないわねえ」とか「もてない女で悪かったわね」などと言えるようになれば、その人は抜群に明るいのです。そんなに明るい人を捨てるような馬鹿な男はありませんよ。「この人がいると、まわり中が明るくて、何でもうまくいく」と思われるようになります。

ですから人間は、後悔さえやめれば幸福になるのです。
後悔しないで、気楽に、明るくする。「そう簡単に気楽にはなれない」と思うのは、ばかばかしいことです。なぜなら、人間は完壁ではありませんから。我々がいくら奥歯をかみしめて「きちんと完壁に何かしよう」と思ってもできないのですから。でも誰でも、そういう努力はします。それで十分なのです。結果として色々なことがあったとしても、それは後悔してはいけない。そのかわりに、自分のミスを「そうなんです」と正直に認められる明るい心を作ると、それはまたとても明るい、ポジティブなエネルギーになってしまいます。

不幸になる道は悪の道

これまで何回か話してきた4つのこと、つまり、dosa(ドーサ=怒り)、issā(イッサー=嫉妬)、macchariya(マッチャリア=物惜しみ)、kukkucca(クックッチャ=後悔)を、仏教では「罪だ」「悪だ」といっています。ですから、我々は、知らないうちにいっぱい「悪」を行っていることにもなるのです。

なぜ「罪だ」とか「悪だ」とか言うのでしょうか。仏教の悪の概念、罪の概念というのは、幸福にならない原因を指して言うからです。そういうことをすると「地獄に落ちる」ということでもないのです。地獄にも落ちるかも知れませんが、今世においても、不幸になる道は罪の道、最悪の道なのです。

ということは、皆さんががんばって、幸福な家庭を作れば、それも仏教的に、正しい道徳的な生き方を実現したことになるのです。会社できちんと仕事をして、自分の責任をきちんと果たして、問題なく人生を生きているなら、その人は仏教を知らなくても、しっかり道徳的な生き方をしているのです。
日本の社会を見て下さい。宗教にまったく興味のない人はたくさんいますが、きちんと仕事をして、きちんと家族を養い、きちんと子供たちを教育して、一人前にしてあげて、勉強したいと思うものはきちんと勉強し、趣味があるならそれもやってという人は、最終的に「あなたの人生はどうでしたか」と聞くと「大変幸福な生き方でした。私は死ぬことも別に怖くはありません」と明るく死ぬでしょう。そのように明るく死ぬ人々は決して悪いところに生まれ変わることはないのです。

仏教を学ぶ人々が「あなたは仏教を信じていないのですから、ダメですよ」と言っても、それは大きなお世話です。人間としての生き方は正しかったわけですから、それで正しい結果が得られるのです。

仏教では、正しい行いをしよう、といっていますが、ただ、家の仕事をすることもよい行いなんです。きちんと料理を作ったり、掃除や洗濯をしたりして、皆の面倒を見てあげたりすることも素晴らしい行いなのです。そこは仏教でもはっきり認ています。「幸福になる道は善の道で、不幸になる道は悪の道である」というのは、とてもわかりやすい言葉ではないでしょうか。

他人と自分を比較する病気

今まで説明してきた4つは、すべて「怒り」という悪いエネルギーに含まれるものです。まだまだいろいろあって、これまで話してきたような、自分でコントロールできる部分だけでなくコントロールできない部分、たとえば体の内部のこと、内臓や血液などコントロールできない部分の話も、そのうちしたいと思いますが、今回はもう少し、悪いエネルギーについて話を続けます。体の内部についてもコントロールする方法はあるのですけれど。

もうひとつの、我々がダメになる悪いエネルギーを説明します。それは、原文の言葉で māna(マーナ)というものです。マーナとは「慢」というもので、高慢の慢の字です。仏教用語です。普通の意味は「計ること」、計算の計の字です。

計ることといってもわかりにくいですが、それは、私たちによくあることなんです。ちょっとした病気みたいなものです。自分と他人を比べてしまうことです。どうして比べることが、悪いエネルギーになるのでしょう。考えてみましょう。

まず、比べたくなるということは、「自分に自信がない」ということなのです。自分だけで堂々として生きていられないのです。暗いといえば暗いんですね。ですから「他の人はどうなのか」と気になるのです。

たとえば子供時代に戻って話すなら、自分がいろいろと勉強して点数をもらったとします。たとえば50点とって、「50点だった」と、それで終わればいいのですが、隣の人の点数も見てしまうのです。その人が45点だったら、自分はすごく気持ちがいいのです。逆に60点だったら気分が良くないのです。

そのような2つの気持ちが生まれるのです。
気持ちが悪くなるか、良くなるか、どちらにせよ、計ったがために生まれてしまった気持ちです。

なぜ見たがるかというと、自分に自信がないからです。世の中では、自分に自信がない人には、何も責任のあることを任せるわけにはいかないのです。そうすると何もできなくなる。

これは小さいときからどんどん出てきます。
母親は、大変な親切心で「計る」ことを教えます。「誰々に負けないよう、がんばりなさい」「誰々ちゃんはえらいね」と。そして知らないうちに子供の人間性をダメにするのです。知らないうちに我々は比較してしまうのです。ここはすごく頭を使わなくてはならない点です。
いろんな罪につながるひとつの伝染病みたいなものですから。

自分がいて、その自分に自信がない。そして他人がいて、他人と比べるたびに、自分はどうなるかというと、孤独になっていくんですね。
他人と自分が精神的に分離してしまう。離れてしまう。そういう状態を作ってしまうんです。
計り、比べるために、自分で自分の殻を作るのです。そういう病気もありますね。自分の穀を作って、その中に閉じこもってしまう病気。それは「慢」、つまり計ることから生まれてくるのです。お医者様もその部分を理解していないんです。自分の穀を作って、もう手も足も出ない状態になっている人を、何とかしてやろうといろいろな方法で治療しようとしますが、原因を探ると小さいときから「相手と比べなさい」と言われ続け、そして他人と比べるようになって、徐々にそのような状態ができあがっていくのです。(以下次号)